哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

多様性への問い

コロナウイルスのせいで三月の予定が狂いまくって困っているはやくんです。

今回は、みんな大好き(?)「多様性」について考察した文章になります。学術的な分析というわけではなく、昨今の多様性偏重の社会のなかで感じたことを、少し哲学の観点を取り入れつつ、私が思ったことを述べるというものです。少し長めですが、関心があれば最後まで読んでみてください。

人間が多様であるとはどういうことなのか

 なぜこの世界には多様なものが存在するのか、という問いは日常を生きるわれわれには不自然に思われるかもしれない。なぜなら、われわれの目線からでは、すでに多様なものが存在してしまっているからである。それゆえ、この世界が多様なあり方をするものであふれているのは当然であって、今更その意味を問う価値はないと言う人もいるかもしれない。しかしどうだろう。今回は人間存在の多様性、あるいは私とあなたの唯一性に議論を絞るが、少なくともなぜ誰一人として同じでないのか、という問いは十分に問いうるものであると私は考えている。多様性という概念を受け入れてしまった時点で、問わざるを得ない問題であるとも言えるかもしれない。多様性というスローガンが手放しで賞賛されがちである現代社会において、多様性を根拠づける哲学の必要性は切迫していると考える。

そこで私は、(限定的な意味で)現象学的・存在論的に基礎づけを試みたいと思う。そこで注目するのが偶然性という概念であり、それがどのようにして人間存在と深く結びついているのかを明らかにすることで、多様な人間存在の一つの根拠について考えてみたい。その際、ハンナ・アーレントの行為論における誕生の意味を取り上げることで、この考察が多少なりとも有意義な議論になると信じている。

1.アーレントの行為論

 アーレントは『人間の条件』の第5章全体で人間の行為について論じている。とりわけ重要なのは、人間の行為はいったん開始されると帰結がどうなるのかわからないという予測不可能性である。これは行為の偶然性を表している。アーレントは、終わり[=目的]が予め主体にとって明らかである活動様式としての制作 (work) と対比させて、この行為の偶然性を際立たせている。ではなぜ行為は偶然的なのか。その理由は端的に言って、人間が複数で存在しており、それぞれがどのような反応をするのかがわからないということである。それゆえ、アーレントにとって行為がなされることは「新しい始まり」と特徴づけられている。アーレントは行為が新しい始まりをもたらすことについて次のように言う。「なるほど行為は、それ自体新しい「始まり」である。しかし、行為は人間関係の網の目という環境の中で行なわれる。この環境の中では、一つ一つの反動が一連の反動となり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となる。」([1]) この主張は、人間の行為の新しさは、複数で多様な人間の間で、行為主体が誰かに向かって何ごとか行為をなすことで、それがあらゆる他者たちを反動していき、そのつど新しい過程を引き起し、始めたときにはまったく予想ができない仕方で広がっていくということである。ここからわかることは、わたしたち人間が新しさをもたらす始まりへの存在であることは、人間の行為が複数性(本稿の主題に沿えば多様性)という条件のもと成立するということである。そもそも、もし周りに誰も他者がいなければ、わたしたちは言葉を交わすことは当然ないだろう。アーレントが言うように「行為と言論が行われるためには、その周囲に他人がいなければならない」のだ([2])。さらに言えば、仮にまったく同じ人間がいるとすれば、どのような反応かは予測可能であるから、それでも人間の行為は成立しないだろう。世の中にはいろいろな人間が存在し、彼らに向かって行為と言論は行われる。アーレントはそのような言葉と行為の偶然的な網の目によって結ばれた空間を公共性として位置づけ、その場所に現れる人間こそ、他とは取り換えのきかない唯一の人間存在であると考えた([3])。ここから、アーレントの行為論には多様性の哲学との連関があることがわかる。

 ではさらに進んで、アーレントは人間の行為の新しさや偶然性という特性をいかにして導くのかを考えたい。一言で言えば、「誕生」という契機によってである。アーレントは、「始まり」としての行為が出生という事実に対応すると述べ、誕生の意義を「なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」ことだと主張する([4])。つまり、われわれが行為によってこの世界に新しさを持ち込むのは、人間が誕生という始まりの瞬間を本性的に背負った存在であるからだと考えている。人間が偶然性を背負って生きていかざるを得ないことは、誕生という絶対的な始まりを伴わざるを得ないからである。とはいえ確かに、多くの場合、子どもが生まれるのは、親の子供が欲しいという欲求あるいは意図によるものであるから、その点からすれば誕生は偶然的な事柄ではないと言えるかもしれない。しかしここで問題としているのは、誕生という出来事それ自体ではなく、誕生を背負った人間存在であり、こう言ってよければ「誕生の存在論的意味」である。つまり、誕生の瞬間、その存在がどのような影響を周りに与え、そして与えられ成長していくのかがまったくわからないという可能性としての偶然性が問題であり、それゆえ人間は「誕生的存在」である([5])。人間であれば必ず誕生という始まりをもち、それこそが人間の偶然性の根拠であるとアーレントは考えた。このことから、人間の多様性を基礎づける一つの考え方を提起しうるだろう。以降で、さらに深めて考察したい。

2.偶然性と多様性——現代社会への警鐘

 アーレントの行為論およびそこにある誕生の契機から、人間が本性的に偶然的な存在であることが明らかになった。人間が偶然的であることが本来的なこととして措定されるなら、人間が多様であることの根拠となりうると考える。偶然的であることを日常的に言い表すとすれば、「自分が今後どうなるかわからない」「他者が何をなすのかわからない」ということであり、それは人間が自由な存在であることの論拠ともなりうる。そのような人間は、必然性の領域にではなく、とことんまで偶然性の領域を生きている。それはつまり、人間の行為はパターン化あるいはカテゴリー化ができないということである。それは、アーレントは人間の唯一性を示す表現は「だれ[who]」であって「何か[what]」ではないと主張することからも読み取れるだろう([6])。ここから多様性を標榜する現代社会への一つの警鐘を読み取ることができるかもしれない。

現代社会において多様性が持ち出される場面では、例えばLGBT+を考えてみるとそうだが、多くの人間の存在の仕方や嗜好が様々な概念によって括られ、多様なあり方をカテゴライズすることで多様性を達成しようとしている。その営みに意味がないとはもちろん言えないが、それでは多様性の本来的なあり方にはいつまでたっても到達しないように思える。はたして多様性のある社会とは、様々な生き方や趣味嗜好がそれぞれ固有なあり方として「括られ」「承認され」「守られる」ことを意味するのだろうか。そうではなくて、例えばアーレントが公共性という空間に描きだしたように、ともすれば自分が行為によって、自分にさえも予測不可能な仕方で自分のユニークさを暴露してしまい、そしてそういう営み自体を拒絶されない空間、それが多様性のある社会を名乗るのによりふさわしいのではないか。多様性の精神は必ずしも、あるAという概念で表現されるある特定の人間の様相を拒絶しないことを意味するのではなく、人間の本来的な唯一性、そしてそれが現れる偶然性を引き受ける心構えのことではないか。そうした心構えをそなえた構成員が形成するコミュニティはけっして「多様性」をスローガンにすることはない。つまり、「多様性」を賞賛すべきものとしてスローガンに掲げているわれわれは、その時点でまだまだ不十分だと言える。西洋哲学の歴史(特にカントやヘーゲルに顕著)もそうであるが、偶然性は嫌われる傾向にある。やはり偶然性というのは扱いづらいのだ。しかし、偶然性から目を背けてはいけない。多様性を迎え入れつつも、人間をあるあり方として概念的に規定し、「上から目線」で守ってあげようとする社会は、内的に隠れた緊張関係があること、強く言えば自己破壊的であることを自覚するべきである。多様性を社会として持ち上げる風潮を少し冷めた目で見る必要があるだろう。

結びに代えて——人間存在が多様であることの意味についての試論

 多様性の意味を行為の偶然性や人間が誕生的存在であることから読み解き、現代社会が掲げる多様性を批判的に検討してきたが、最後にもっと冷めた目で、人間が多様であることの意味を考えてみたい。冷静に考えてみると、この世界は多様であるより単一である方がよっぽどシンプルでわかりやすい。いや、何も存在しない方がよっぽどよい。これは別に感傷的なペシミズムではなく、哲学の根本的問いである「なぜ何かがあって、何もないのではないのか」という問いを思い浮かべれば、正当な問題意識であると言えよう。しかしわれわれは、なぜかはわからないが、偶然性を背負って誕生してしまう。それはまったく意味も理由もないことなのだろうか。一度、正面から立ち向かってみたい。

 われわれは、すでにつねに多様なあり方で存在して「しまっている」ということをまず自覚するべきだろう。つまり、われわれが何か意図して多様なあり方をとっているわけではないということだ。しかし、ライプニッツなども確信していたように、この世界に理由がないことは存在しないはずだ。ゆえに、多様であることの理由を探究することは可能である。しかし、この探究は神に到達してしまう。幾分か先走ってしまったように思われるだろうが、これは飛躍ではない。なぜなら、その理由を突き詰めれば、なぜ神がこの世界に多様なものを創造したのか、という問いにまで到達してしまうからである。したがってわれわれは、人間が多様に存在する理由を、確定的に得ることは不可能である。理由も知らずに、何の意図もなしに多様でしか存在しえない存在者、それが人間である。

さらに、アーレントの分析からも明らかになったように、多様であるからこそ人間は偶然性の領域に、すなわち偶然性の連鎖の中にいわば巻き込まれている。それゆえ、人間の人生は不条理だということもできるし、それは実存主義の哲学が向き合ってきた問題でもある。多様なあり方で自由に存在しているからこそ、われわれは自分の思い通りにならない生を生きなければならず、それゆえ人はしばしば必然性の世界に逃避したくなる([7])。つまり、あえて言うとすれば、多様性とは悲劇なのである。しかし私は、多様性は悲劇であり、ゆえに人間は存在しない方がよかったと考える冷え切ったペシミズムでは納得できない。

本節を試論と題したが、私がここで到達したのは試論へのきっかけにほかならなかった。しかし、これは意義をもつ。というのも、ここで私は多様である意味も理由も明らかにできなかったが、少なくともそれは「簡単に明らかにできない」ということを示した。このことは、多様性を善い社会の標語のように用いがちな現代社会へ向けた有意義な挑戦であったと信じたい。つまり、本稿が導いた主張はこうである。多様性とは「目指される理念」ではなく、「背負うべき宿命」である

 

注釈(参照した文献はここにあるものたちです。文献の提示が雑でごめんなさい。)

 ([1]) ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳、307頁。

 ([2]) 同前、304頁。

 ([3]) 誰一人として他者と完全に一致することはない空間を公共性として位置づけるアーレントの議論については拙論「公共性と伝達可能性―アーレントの判断力論をめぐって―」第2節を参照のこと。

 ([4]) アレント『人間の条件』、289頁。

 ([5]) 「誕生的存在」という表現は、森一郎『死と誕生:ハイデガー九鬼周造アーレント』18頁より拝借した。森はこの本において、アーレントが人間の誕生あるいは出生性を存在論的問題として取り出したのは師であるハイデガーの死の問題を強く意識してのこととであるということ、また、誕生を背負うがゆえに新しい始まりをもたらす人間存在が抱える不自由さや弱さを指摘し、アーレントの主張をクリアに描きだしている。

 ([6]) アレント『人間の条件』294頁。

 ([7]) エーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で分析的に指摘したように、権威からの解放によって自由を手にしたにもかかわらず、権威に依存することを求める心理(すなわち偶然性に耐えられず必然性へ逃れたいと思う欲求)は少なからず人間にはあるはずだ。

 

思ったより真面目になってしまいましたが、どうだったでしょうか。反論、批判もあるかと思いますので、どうしてもそれはおかしい!というご意見があればお受けします。

また、次回はコロナウイルスの世界的流行を受けて、公衆衛生の倫理学についての紹介と考察をしたいと思います。公衆衛生の問題が哲学・倫理学でどのように議論されているのか、気になりませんか?私は気になるので勉強してきます。とりあえず今回はこのへんで。Tschüss!