哲学なんて知らないはやくん

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思いやりのある人を評価できないカント?

今回は、先日行われた哲つくばの発表原稿になります。読みやすいように若干改訂しましたが、ほとんどこのまま喋りました。ご参照ください。

義務論として広く知られるカント倫理学の基礎、批判、展望をざっと見ていくことになります。カントは道徳的価値は義務に基づいた行為以外に認めないと考えられていることから、しばしば厳しい批判に曝されてきましたが、ほんとうに義務以外の感情に価値を認めていなかったのか、という点を慎重に扱う必要があります。

まず基礎的な説明ですが、カントは『道徳の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』で、道徳的価値のある行為は、自然的欲求や傾向性からではなく、ただ義務からなされた行為であると主張します。傾向性というのは、簡単に言えば自分の欲求を満たすための自分かわいさの感情とでも考えてください。私たちは普段、それに基づいて動機づけられることが多いはずです。しかしカントは、そうではなく義務に基づかなければならないと説きます。義務とは「法則への尊敬に基づいた行為の必然性」(Gr: 400) と定義されますが、要するに、絶対的な善である道徳法則に従うことで生じる尊敬に基づいて、自分の偶然的な気持ちの移り変わりではなく、端的になすべきことをせよ、ということである。(道徳法則の尊敬の感情については、『実践理性批判』分析論第三章「純粋理性の諸動機について」を見てください。なお、尊敬は感情と呼ばれますが、これはたんなる感性的感情ではなく、道徳法則によって引き起こされた知性的な感情であると考えられています。) では、私たちはそのなすべきことをいかにして理解するのでしょうか。

それが有名なこの定式です。「格率が普遍的法則となることを、格率を通じて君が同時に意欲することができるような格率にのみ従って行為せよ。」(Gr: 421) つまり、自分の行為の根底にある方針である格率が、あらゆる人間が同じように行為しても矛盾しないようなものになるよう吟味し、それに従って行為することが、義務に基づいた行為となるわけです。人間は神ではないので、道徳法則に直接従うことはできません。同時に自然法則に支配下にもいるからです。それゆえ、格率というある種経験的な行為原理を普遍的法則と一致させるよう行為するためには、強制が必要となるのです。それゆえ、人間にとって法則に一致するような格率に従って行為することは、義務として、定言命法として意識されることになります。

カントが義務にこだわる理由は、道徳的価値は偶然的ではいけないということ、そして人間は自然的、感性的存在であるがゆえに、自分を優先してしまう存在だということを強く意識したからです。カントの実践哲学の意図は、あくまでも道徳を形而上学的に基礎づけることなので、経験的な側面をそぎ落としているように思われますが、とりあえずそれは別の議論です。目に見える行為がどんなに善くても、その裏にある動機が悪いものだとしたら、その人は同じ動機から最悪のことまでしてしまいかねません。カントはここを強く意識して、道徳的に見える行為がそれだけで本当に道徳的なのか?という問題を投げかけていると考えてください。「なぜなら、道徳的価値が問題である場合、目に見える行為が問題なのではなく、目に見えない行為のかの内的な原理[=格率]が問題だからである。」(Gr: 407, []は発表者の補足)

しかし当然このようなカントの主張には批判も根強いです。カントの義務論はやはり厳しいからです。そこで代表的なものとしてカントと同時代に生きたシラーの批判を見たいと思います。彼の哲学的著作、特にカント批判を意図したものは非常に優れたものなのですが、あまり重要視されておらず、『優美と尊厳について』は邦訳も70年以上出ていません。しかし彼の批判の方向性自体はかなり踏襲されています。シラーは、義務に基づいた行為を粛々と遂行するよりも、義務に基づいた行為を「したい」と思える傾向性をもつ人の方が優れているだろう、というものです。義務と傾向性を対立軸で捉えるカントに対して、それらの調和を説いたのです。道徳が義務として基礎づけられるというカントの方向性に同意しながらも、それより先の道徳的存在になるため、道徳的価値に感性的で情緒的な側面を積極的に認めようとするのがシラーの意図であり、ある意味カントを乗り越えたと言えるでしょう。「人間は、個々の道徳的行為をなすことへと規定されているのではなく、道徳的存在であることを規定されているのだ。」(AW:261)しかし、シラーの言うように、カントは情緒的側面を否定的にしか捉えていなかったのか、という疑問が生じます。

具体例で考えてみます。A君は義務関係なしに思いやりの気持ちから友人を助けたとしましょう。これはカント的には義務ではなく、助けたいという感情に基づいているので、道徳的価値はないのでしょうか。しかし普通に考えればその結論はおかしいと思うでしょう。シラーの批判もここをついてわけです。この理解がしばしばカント嫌いの原因となってきたように感じます。しかしこれは限られた著作と論文の限られた主張から構築された教科書的に矮小化されたカント像であって、欲求や感情、あるいは思いやり、同情心といったものに道徳的価値をカントは認めているのです。それを簡単に見ていきたいと思います。

カントは晩年の『道徳の形而上学』の「徳論」と呼ばれる著作で、積極的に他者に親切をなすことを義務だと述べ、その遂行のために同情や感謝といった自然的感情を陶冶することも間接的には義務であると述べます。あくまで同情の義務は、困窮した他人のニーズに気づき、援助を容易にするための手段的な義務ではありますが。それゆえ、「条件つきではあるが特別な」(MS: 456) という譲歩がつく義務となります。理性が道徳法則によって意志を規定することによって道徳的価値のある行為につながるような感情を強化、あるいは陶冶することを認めていることから、カントをたんに感情を排して理性に従え、というような思想ではないことがわかります。

カント義務論は、このように「思いやりから人助けをした人」も積極的な道徳的評価の対象になるのです。あくまで、人助けをしたから道徳的価値がある、という評価をカントは退けるだけです。ここが重要ですが、カントのねらいは、一見思いやりから行為しているようにみえる、つまりよさそうな行為が、実はたんなる名誉欲などの自己愛を動機としている道徳的とは言えない行為を区別することだったのです。これはカントの用語で言うと、「適法性」と「道徳性」の区別ということで明らかになります。前者が外的行為の善さ、後者が内的な行為原理の善さです。

では、ここでカント倫理学に感情の積極的役割を認めることで開かれる展望について触れたいと思います。カントが義務として厳格に体系化した倫理理論は、人間が欲求に流されてしまう意志の弱さを抱えた人間であることを正面から見つめたからだといえます。確かに、道徳の基礎としてはそれでいいでしょうが、実際に人間がどう行為するか、という経験的次元に落としたとき、感情による動機づけに目を背けることはできません。やはりカントもそのような議論を内在させているのです。日本のカント研究にこの点を評価する人はかなり少ない気がするので、今後注目すべき論点だと思います。欧米ではけっこう論じられています。

ここで、カントが「徳論」で感情を積極的に評価している文を実際に見たいと思います。

「このこと[=自然的な同情を陶冶すること]は、義務の表象だけでは達成することができないであろうことをするために、自然から私たちのうちに置かれた一つの衝動である。」(MS: 457, []は発表者の補足)

これは、人間は義務を意識するだけではそれを達成できないから、自然的な感情である同情心を陶冶することで、義務の遂行を可能にする、という文です。つまり、カントの見解としては、道徳的価値のある者は感情よりも理性から行為しなければならない、というのではなくて、理性の導きのもとに陶冶され、理性の制約のもとに行為を導く感情から行為することを許している、といえるでしょう。感情を不当に排している、というカント評価はひどい誤解であると言えます。

「楽しんでなされるのではなく、ただ苦役として行われることは、自分の義務に従順なひとにとって、内的価値をもってはいないし、また愛着がもたれることもなく、それどころか、徳を実行する機会は可能なかぎり遠ざけられてしまうのである。」(MS: 484) 

 これは、徳という新たな観点が持ち出されますが、簡単に言うと徳とは、道徳法則と一致する格率に従い続ける意志の強さ、というものです。つまり、義務に基づいた行為を遂行する心構えを実行するためには、苦しいだけではきついから、喜び・楽しみが伴う必要があるのだ、と述べているのです。ただ注意すべきは、ここで持ち出されているのは、たんに喜びや楽しみから行為するということではなく、徳の実行によって喜びが生じる、という方向性だということです。

先ほど導入された「徳」が非常に重要になってきます。繰り返しになりますが、人間は理性だけでなく傾向性の影響を免れ得ない自然的存在者でもあるので、義務の遂行には困難が伴います。もし苦しいだけなら、当然私たちは義務とは反対の行為を選びたがるでしょう。それゆえ、カントは自分の幸福さえも間接的には義務であると言います。なぜなら、自分の幸福が十分に確保されていないと、義務違反の誘惑にそそのかされやすいからです。(MS: 388) カントは自分の幸福を求めることを否定していると考えている人がたまにいますが、それは完全な間違いです。確かにカントは理性や道徳法則を優位に置きます。そして徳も、自然的な感情を理性によって管理する姿として、「自己支配」として描きだしています。

しかし、理性的であると同様に感性的である私たちにおいては、理性は、義務の表象だけで働くのではなく、正確には、私たちが感情を陶冶し、感情に基づいて行為するように導くことによって働くということになります。確かに、感情だけでは道徳的な行為を導きはしないが、理性によって適切に陶冶されるならば、私たちのような不完全な存在者が道徳的価値のある行為をするための手段に、理性が私たちに課す目標(カントの言葉では意志の自律ですが)を達成するために理性自身が用いる手段そのものになるのです。

 

【参考文献】

カントの著作はアカデミー版のページ数を示した。なお、略称として用いたのは、Gr=『道徳の形而上学の基礎づけ』、MS=『道徳の形而上学』(徳論の形而上学的基礎)である。シラーについては、Friedrich Schiller, Sämtliche Werke,Band 5—Philosophicshe Schriften, Vermischte Schriften, Winkler Verlag Muenchenを用いた。略称としては、AW=『優美と尊厳について』である。

二次文献については主に以下を参照した。

Henry E. Allison (1990) Kant’s Theory of Freedom. Cambridge, Cambridge University Press. [ヘンリー・E. アリソン『カントの自由論』城戸淳訳、法政大学出版局、2017年。]

Anne Margaret Baxley (2007) “Kantian Virtue” in Philosophy Compass 2/3, pp.396-407.

Lara Denis (2006) “Kant’s conception of virtue” in Cambridge Companion to Kant and Modern Philosophy. Cambridge University Press. pp.505-532.

Robert Louden (2011) Kant’s Human Being : Essays on His Theory of Human Nature, Oxford University Press.

Paul Guyer (2019) Kant on the Rationality of Morality, Cambridge, Cambridge University Press.

千葉建 (2015) 「カントの徳倫理学と感情の問題」『哲学・思想論叢』33号、筑波大学哲学・思想学会、pp.29-42。