哲学なんて知らないはやくん

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シラーの倫理学:カントとの対決

最近、シラーの『優美と尊厳について』を簡単な訳注つきで全訳しようと試みています。そんなことをしているうちに、ちょっとシラーの倫理学を若干真面目に紹介したくなりました。引用とかしっかりページ数を示していないのは、今回の紹介の内容上のいい加減さがにじみ出ていますが、真面目には書いたのでご容赦ください。

シラーのSpiel概念:特に『人間の美的教育について』

シラーのSpielは遊戯と訳され、調和や自由を含意する語である。これについて掘り下げるために、三つの衝動(Trieb)について取り上げる。それは素材衝動(Stofftrieb)、形式衝動(Formtrieb)、遊戯衝動(Spieltrieb)の三つであり、前二つの衝動の間に遊戯衝動がある。これらの特徴を三者の官憲を念頭に置いて列挙すると次のようになる。すなわち、素材衝動は、受動的で質料的であり、自然法則に強制され、感性的本性に発する。形式衝動は、能動的で形式的であり、理性の法則に強制され、理性的本性に発する。遊戯衝動は、上の二つの衝動を結合し、強制がなく自由である。まとめるとこうなる。

 

素材衝動

受動性:質料的:自然法則による強制:感性的本性に発する。

形式衝動

能動性:形式的:理性の法則による強制:理性的側面に発する。

遊戯衝動

上の二つの衝動を結合:美を対象とする:強制なし=自由

 

このように、シラーにとっては遊戯衝動は、感性から発する衝動と理性から発する衝動の結合であり、それによってあらゆる強制から解放され、自由になる。それを表現しているシラーのいくつかの言葉を以下に引用したい。なお、引用はすべて『人間の美的教育について』からである。

 

「しかし、自由を排除するものは自然的[物理的]必然性であり、受動を排除するものは道徳的必然性である。両衝動[素材衝動と形式衝動]は、前者は自然法則に、後者は理性の法則によって心を強制している。したがって、両衝動がその中で結合してはたらいている遊戯衝動は、心を道徳的に、そして自然的に同時に強制するだろう。それゆえ、遊戯衝動はすべての偶然性を廃棄し、またすべての強制も廃棄するから、人間を自然的にも道徳的にも自由のうちへ置き入れるだろう。」

「かの二つの必然性の統一から、第一に真の自由が結果として生じる。」

「自由はこの二つの性質の協働のうちにあるのみである。それゆえ、感情によって一方的に支配された人間、あるいは感性的に緊張した人間は形式によって解放され、自由になる。法則によって一方的に支配された人間、あるいは精神的に緊張した人間は、質料によって解放され、自由になる。」

 

 シラーは遊戯衝動によって、感性と理性が緊張関係を超えて、互いに調和する可能性を指摘したいのである。確かに感性と理性という対立的な軸を基本に人間を考えるのはカント的であり、シラーも道徳性というのは理性の法則という厳格な規範に求めなければならないと考えていたようだから、ほとんどの部分でカントの枠組みを抜け出していない。しかし、遊戯衝動による調和という観点をもち出した途端、基本的なところでカントから離れることになり、そこにシラーの倫理学の独自性がある。では次に、カントとシラーの決別を意識しつつ、本稿の主題であるシラーのカント批判について取り上げる。

シラーのカント批判:特に感性の道徳的意義をめぐって

シラーにとって自由は感性的側面と理性的側面の調和であった。しかし、カント倫理学の立場に立てば、この両側面の調和ということは直接的には論じられない。特に『道徳の形而上学の基礎づけ』に代表される批判期の立場では、行為が道徳的であるのは、その行為が義務に基づいたときのみであると強調するからである。シラーが批判するのはまさにこの点であって、カントが徹底して理性に対して感性、あるいは傾向性(Neigung)を対立させて考えた、その厳格さであった。そこでシラーは、カントに抗して感性に道徳的意義を積極的に認めようとする。シラーは次のように述べる。「カントの道徳哲学において、義務の理念はすべてグラツィア[優美の女神]を後ずさりさせ、陰鬱で修徳禁欲的なやり方で、道徳的完全性を求める弱い悟性を簡単に誘惑してしまうような、一種の厳格さをもって説かれている。」(『優美と尊厳について』)カントに抗するシラーという視点について、次のアリソンのまとめが参考になる。「シラーがみずからに定める課題は、カントによる道徳生活の過酷なまでに非情な描像を改めるために、人間本姓の感性的で情緒的な側面が道徳生活において果たすべき本来の役割を強調することである。」(アリソン『カントの自由論』)このように、感性と理性の対立関係を乗り越え、両者の調和を求めたシラーであるが、その調和の実現は紛れもなく先ほど取り上げた遊戯衝動であり、その調和が実現された個人をシラーは「美しい魂」(schöne Selle)と呼んだ。「このように美しい魂においては、感性と理性、義務と傾向性とが調和している。」(『優美と尊厳について』)

 

 感性に道徳的意義を認めるシラーと認めないカントという対立軸がはっきりしたところで、次に自由、あるいは自律(Autonomie)という観点から両者の違い再度検討したい。前述のように、シラーにとっては遊戯衝動によって実現される強制からの解放が自由であったのだから、一言でいうと、「Spielそのものが自由である」ということになる。一方カントは、自由は道徳法則による意志規定によって自然必然性から解放されること、すなわち(カント的な意味での)自律そのものを意味する。つまり、自律と自由は交換概念であり、自由の理念と自律の概念とはしっかり結合していて、ほどき離すことができない。カント的な自律はこのように、感性的側面から解放され、理性的側面に規定されることを指すが、両者からの解放を目指すシラーにとっては、理性的側面に規定されているのなら、それは他律になってしまうと考えるだろう。なぜなら、その主体は感性的側面からみれば強制されているのであるから、理性の法則からの解放さえも自由の要件とするシラーにとっては自由ではないからだ。つまり、シラーにとってはカント的な自律はもはや他律となってしまうのだ。

 

 さらにこの点から、シラーは道徳的な行為やその動機づけだけでなく、それを行う感性的人間の性格にまで言及していることが垣間見える。というのも、美しい魂をもった優美な人間像を求めるシラーにとっては、行為を行う人間の善さにまで言及していると考えるのが自然だろうからだ。実際にシラーは行為者の道徳性にまで論を進める。「すなわち人間は、個々の道徳的行為をなすことへと規定されているのではなく、道徳的存在であることを規定されているのだ。」「美しい魂にあっては、個々の行為が本来道徳的なのではなく、全性格がそうなのである。」(『優美と尊厳について』)この点に注目すると、シラーはカントがしたように、道徳性の規範を理性の法則に求めることに同意しつつも、さらに行為者自身が道徳的生格を形成する可能性まで論じていたことがわかる。この立場を「義務論的徳倫理」と名づけてることができるだろう。

 

*シラーからの訳は基本的に私の訳出です