哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

アニメde哲学!:我愛羅と悪の思想

アニメde哲学!シリーズ記念すべき第一回です。勝手にシリーズ化しました。第一回は私が大好きなNARUTOからです。ぜひ、最後までご覧ください。

 

まずは今回注目する我愛羅という人物のセリフから

「己にとって大切な者が必ずしも“善”であるとは限らない、たとえそれが“悪”だと分かっていても人は孤独には勝てない」

 このシーンは、サスケ奪還編で我愛羅がリーと君麻呂の戦いへ参戦し、リーを助けた後での会話での一言です。単行本では24巻に収録されています。中忍試験でのリーと我愛羅の戦闘を覚えている人も多いでしょうから、この2人は何かと縁がありますね。ちなみに私はNARUTOの中では我愛羅推しです。

 

さて、このセリフはどのような文脈で出てきたのでしょうか。それは君麻呂が大蛇丸に対して、いわば妄信的で依存的な尊敬を向けていたことが背景にあります。ところで、大蛇丸といえば料理する人みたいな認識が最近はありますが、潜影蛇手は調味料を入れる術ではないですよ。また、砂漠葬送は我愛羅の術ですが、これもビールの缶をつぶす術ではないですね。砂漠葬送に関してはめちゃくちゃ怖い術です。「血の雨を降らせてやる」という術なんでね…。まあ話を戻します。

 

リーもガイ先生に絶大な信頼を寄せています。我愛羅がリーとの会話で、ガイを「あのお節介やき」と言ったところ、リーはガイ先生を侮辱したとして怒りをあらわにします。それを見た我愛羅は非常に冷静に、自分が崇拝する人の名誉が傷つけられたと感じると、その人が大切であればあるほど自分も傷つくと分析します。そこで出てくるのがこの言葉です。もう一度引用します。

 

己にとって大切な者が必ずしも“善”であるとは限らない、たとえそれが“悪”だと分かっていても人は孤独には勝てない

 

これは誰よりも孤独であった我愛羅が放った言葉だからこそ、ものすごい重みがあります。我愛羅の生い立ちについて話すとキリがないので詳細は省きますが、里の皆からはバケモノと忌み嫌われ、自分が唯一信頼を寄せていた育ての親と言っていい夜叉丸に殺されそうになります。彼の額に刻まれた「愛」の意味を考えざるを得ません。「愛」については別の機会に譲るとして、今回のテーマは「悪」です。我愛羅は非常に深い問題提起をしています。悪だと「わかっている」のに、孤独であるがゆえに、その悪を行ってしまう、そういう人間の姿を描き出しているのです。

 

ソクラテスの命題にこういうものがあります。

 

「悪と知りながら、自らすすんでそのようなことを行う者は誰もいない。」

 

これは我愛羅とは全く違う悪の理解です。ただ、このソクラテスの命題は非常に奇妙に思えます。なぜなら、悪いとわかっていても悪いことをしてしまうのが人間であるような気がするからです。このソクラテスの考え自体を深めるとまた厄介な議論になるので、ここではとりあえず「それを悪だと知っているならしない」という思想があるということだけでいいです。(一言コメントすると、この「知っている」ということがポイントだとは思います。)

 

しかし我愛羅によると、悪だとわかっていても「孤独」によって人間は悪をしてしまう、さらに文脈に従えば、「自分を認めてくれる大切な存在が悪だとわかっても、孤独になる方を選べない」ということではないでしょうか。孤独が悪を二次的な問題にしてしまうのです。そこではもはや、正不正が背後に退いているのです。なかなか深いでしょう?

 

自分が信じる存在が悪だとわかっていても、人は悪をしないことよりも一人ぼっちにならないことに強く動機づけられるということです。みなさんはどう思うでしょうか。いや、そんなことはない!と思う人もいるでしょう。しかし、これは人間の悪の一つのあり方を鋭く見抜いているように私には思えます。

 

悪をするという状況を考えたとき、最もわかりやすいのは、それを利己心から行っているときです。他人を蹴落としてでも、どんなに迷惑をかけてでも、自分さえよければいい、こんな感じのメンタリティです。西洋哲学でも、やはり人間の悪の問題は基本的にその人が悪い心性をもっているから、という図式で語られる方が多かったと思います。

 

しかし、我愛羅は違います。その人が悪い人でなくても、むしろどんなにいい人だと周りに思われている人でも、「孤独」には勝てないのです。(当然、孤独を恐れることで悪をなす方に強く動機づけられるその人の心性が悪なのである、と言うこともできるでしょうが、この「孤独」には特別なニュアンスが込められているような気がします。)

 

このような我愛羅の悪の思想を見た時、私はある哲学者を思い出しました。ハンナ・アーレントです。アーレントは「悪の凡庸さ」という有名な概念を提示し、大論争を巻き起こしました。直接我愛羅と繋がるわけではもちろんありませんが、非常におもしろい問題だと思います。

 

アーレントは『全体主義の起原』において、人が孤独[1]であることによって自己を喪失し、その中でアイデンティティを確認するには、自分が信頼して、さらに信頼されていると実感できる同輩たちの存在しかないと述べています。さらに孤独は、「見捨てられていること」に転化すると危険だと述べるわけですが、ここが一見ピンとこないでしょう。アーレントによると「孤独」の中では実は一人ではないと考えているのです。というのも、孤独のなかにある人間は、自分自身とともにあることが出来ているからです。自分自身とともにあることができる人は、思考することができます。いや、むしろそれが思考の本質であるとアーレントは言うでしょう。このとき、他者の存在は確かに欠けており、自分は自分の中へといわば引きこもっていますが、他者からの呼びかけでかけがえのない私として現象することができます。ややこしくなってきたのでポイントだけ振り返りますと、このときはまだ、思考が可能であることが重要なのです。しかし「見捨てられていること」へ転化してしまうとどうなるのでしょうか。

 

「見捨てられている」と感じた人間は、自分という足場さえ失ってしまいます。そうすると、それが善であるか悪であるかという思考によっていったんその価値を宙ぶらりんにすることなどせず、手当たり次第確からしい必然性にしがみつこうとするのです。これはのちに、アイヒマン裁判を契機として発表された『イェルサレムアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』における「完全な無思想性―これは愚かさとは決して同じではない―、それが彼[アイヒマン]があの時代の最大の犯罪者の一人になる素因だった」という衝撃的な分析との連関で考えると興味深いです。この点に関心がある方は、まず映画「ハンナ・アーレント」をぜひご覧ください。

 

これらはアーレントが描きだした全体主義の支配構造のごく一部を恣意的に引き出したものですので、厳密に言えば我愛羅のセリフとは何のつながりもないかもしれません。しかし、NARUTO全体のストーリーを考えてみると、そんなこともないように思えます。我愛羅と同じように、主人公であるナルトも、里の皆からバケモノと恐れられ、誕生とともに両親と死別し、まさに「見捨てられていること」状態ではなかったでしょうか。しかし彼は、師であるイルカ、カカシ、自来也、彼らだけでなくたくさんの仲間たちの間で自分という基盤を失いませんでした。そして師たちによって正しく導かれました。しかしそのとき手を差し伸べてきたのが、ナルトの力をただ利用したいだけの強力な存在だったら…?それが悪とわかっていても、いや悪かどうかなんてもはやどうでもよくなるのではないでしょうか。

 

我愛羅が描きだした悪の深層は、自身が誰よりも孤独だったがゆえに、これほどまでに説得力をもちつつ、示唆的であるように感じます。その後の我愛羅の成長・変化、そしてその経験を踏まえた深い洞察力と鋭いセリフを考えると、NARUTOの世界において彼ほど哲学的な人物はいないのではないかとさえ思います。これは私が推しているがゆえの肩入れかもしれませんが。

 

第一回「アニメで哲学!」はいかがだったでしょうか。最初なのでけっこう真面目な感じでまとめ上げましたが、これからはもっといい加減になるかもしれません。アニメのすばらしさと深さ、哲学のおもしろさが少しでも伝われば、私は満足です。

 

[1] アーレントは孤独といっても、lonekinessとsolitudeを分けているため、厳密にテキストとして扱いときには注意して読まなければならない。