哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

アニメde哲学!想いを繋ぐということ―鬼滅の刃―

「私は永遠が何か…知っている。永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ。」

 

みなさんお待ちかね(?) アニメde哲学!シリーズ第3段です。「鬼滅の刃」連投です。

今回も前回と同様、鬼滅の刃のお館様こと産屋敷耀哉のセリフから、「想いを繋ぐ」とはどういうことなのか、ということについて考えてみたいと思います。前回は永遠とは何か、さらには時間とは何か、という非常に根本的で難しい哲学的問題を扱いましたが、今回は「永遠とは人の想い」であり、それを繋いでいく、という観点から探ってみます。テーマ的には「世代間倫理」の問題などにも接続されうる興味深い問題だと思いますが、そこらへんの倫理的問題には立ち入らず、時代を超えて想いを繋ぐということに着目します。そこで注目するのはハイデガーです。ハイデガーと言えば『存在と時間』で、非常に難解な哲学を構築した現代で最も偉大な哲学者の一人ですが、彼はかなりこの問題について、特に時代性、歴史性という観点から重要な視座を提供してくれています。

 

ハイデガーの世界概念

ハイデガーの哲学を使ってこの問題に立ち入る前に、ハイデガーの前提をある程度おさえる必要があります。そこで注目するのが、「世界」という概念です。普通に世界と聞けば誰もがわかる概念だと思いますが、わざわざ取り出すということは特別な意味があるということです。いわゆるグローバル化とか国際社会、あるいは地球、というものとはニュアンスが違います。それはハイデガーの基本的な実存についての着想である「世界内存在」という概念を理解するためには必須の前提です。これを理解することで、時代を超えた想いの繋がり、過去と出会い未来へ託すことの意味がわかります。『存在と時間』を基本的なテクストとして、できるだけ噛み砕いて説明したいと思います。

 

ハイデガーがいうところの「世界」とは、現にそこに在るものというニュアンスが一番簡素なものかと思います。それは私たち人間(ハイデガー的には現存在Dasein)が、すでにつねに出会うものであり、気づいたら関係を結んでしまっているものを意味しています。「世界内存在」というのも、存在してしまったその瞬間から様々なものたちと意味連関のネットワークの中に投げ出されてしまっている人間存在を言い表しています。つまりハイデガーの言う世界とは、私たちが具体的な関係性の中に坐する「場所」のことだと言っているのだと思います。ハイデガーの定義的な文章はこうです。

 

「現事実的現存在が現事実的なものとして〈生活〉している当の〈場〉」

(“sondern als das, »worin« ein faktisches Dasein als dieses »lebt«”)

 

こう言われると途端にわかりにくくなりますね。ハイデガーの嫌なところです(ハイデゲリアンに怒られる)。しかしまあ、事実として生活している場所、つまり私たちが他のものたちと関係しているまさにその場所こそが、世界だと言ってよいだろうと思います。私たちは世界と関わることを避けられませんし、人間である以上依拠せざるを得ないものだというのは、ハイデガーの鋭い指摘です。ハイデガーは言います。

 

「現存在は、存在するかぎり、何らかの出会われる〈世界〉にそのつどすでに差し向けられて依拠してしまっている。現存在の存在には本質からして、このような依拠性が属している。」

(“Dasein hat sich, sofern es ist, je schon auf eine begegnende »Welt« angewiesen, zu seinem Sein gehört wesenhaft diese Angewiesenheit.”)

 

このように、世界内存在として描きだされる人間、現存在は、つねになんらかの物と出会っています。私たちの生活を構築する意味の連関として出会われるものは、具体的な道具的な物や他者などを思い起こしていただければと思います。このような世界というものは、私たちが存在する以前から在り、存在をやめたあとも在ることが多いはずです。そして私たちは本性上物に出会い、それに依拠します。ということは、その物との出会いこそが、世代を超えた他者との出会いであり、想いの継承と言えるのではないでしょうか。それをハイデガーは「今日の脱現在化 Entgegenwärtigung des Heute」と呼びます。さて、これはいったいどういうことでしょう。

 

〇世代を超えて繋ぐということ

ハイデガーはある一人の有限な現存在の人生を時間的に超えて、過去から存在している物がみずからに刻み込んでいるある種の歴史を語ることで、世代を超えた他者との対話が可能になることを暗示しています。そのことを「今日の脱現在化」と呼ぶわけですが、その意味は、過去から存在している既在の物を反復し、時代を超越し現在を断つこと、です。ハイデガーは過去が現在的であることを、ギリシアの神殿を例にとって説明しています。

 

「過ぎ去ったものは、取り戻しようもなく以前の時代にぞくしている。つまりそれは、往時の事件にぞくしていたのである。それにもかかわらず過ぎ去ったものは「いま」目の前に存在しうるのであって、たとえばギリシアの神殿の遺跡がそうである。「過去の断片」が遺跡とともになお「現在的」なのだ。」

(“Das Vergangene gehört unwiederbringlich der früheren Zeit an, es gehörte zu den damaligen Ereignissen und kann trotzdem noch »jetzt« vorhanden sein, zum Beispiel die Reste eines griechischen Tempels. Ein »Stück Vergangenheit« ist noch mit ihm »gegenwärtig«.”)

 

非常に分かりにくいと思うので、誤解を恐れずパラフレーズすると、そのうちに歴史性を刻み込んでいる何かしらの物と出会うことで、現在に存在しているはずの人間が、その物がもつ歴史に引き込まれ、現在を断ち切り過去と出会う、ということです。わかりやすくなりませんでしたね。反省します。少なくとも、過去を断ち切るのではなく、現在を断ち切って過去と出会う、というポイントが伝わってくれれば幸いです。

 

ハイデガーの哲学をヒントにして私が思ったのは、歴史を語り継ぐ人々とそれを支える歴史性を帯びた物との出会いが、時代を超えた想いの継承である、ということです。

 

〇鬼殺隊の想いの継承

鬼殺隊は千年間の間、無惨を一度も許すことなく存続しています。彼らが想いを繋いできたのは、ひとえに無惨という存在に、彼が送り出す鬼たちとの遭遇を介して間接的に出会うことで、鬼に殺されてきた多くの人たちの無念や、大切な人を殺された悲しさが途切れることなく、絶えず「新しく」出会われたことだと思います。人が長い時間を超えて想いを繋ぐということは簡単なことではありません。出会った記憶から目を背けることを許されないからです。多くの仲間の死を超えて、一堂に会し、語り継ぐことをやめなかった鬼殺隊の強さは、私たちが歴史との出会いを避け、過去を忘却しないために学ばれるべきものだと思います。

 

ハイデガーからの引用は、日本語に訳すと余計意味が分からなくなる印象があるので、ドイツ語の原文も併せて記載しました。