選択の自由とは何か
カントの自由は「善への自由」である、という主張を明らかにするためにある授業で書いたものです。ブログは字数制限がないので、少し好きに書き増やしました。内容はソクラテスと任意の登場人物ハヤクンとの対話形式にしました。論駁されるハヤクンをお楽しみください。
登場人物
ハヤクン
アテナイのある公共の広場において
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ソクラテス 君はとてもよい人だと評判だが、例えばどんなことをしたのかね?
ハヤクン 例えば先日私は困っている人に手を助けました。その時はかなり時間に追われていたし、助けないということもできましたが、それでも助けることを選んだのです。なんと立派なことでしょう!
ソクラテス うん、確かに立派に聞こえるね。なぜそう言えるのだろう?
ハヤクン それは私がめんどくさいという気持ちからではなく、助けるべきだという義務感からそれをしたからです。正直、見なかったことにして自分の用事を済ませたいという気持ちもありましたが、それに打ち克ったのです。つまり、この時私は自由にどちらも選べたはずなのに、あえて善いことをしたというところに、価値があるのです。
ソクラテス うむ。これはなるほどハヤクン、君は自由に善いことも悪いことも選べたことに立派の根拠があると言うのだね?
ハヤクン そうです。
ソクラテス そうすると、君はめんどくさいという気持ちに流されて助けないことも自分で選べたことになるね。
ハヤクン そうです。私には確かにその選択肢もあったはずです。
ソクラテス でもしかしその場合、君が本当に選んだと言えるかね。確かに見かけの上では君は選んだよ。でも実はふつふつと湧き上がってくる欲望に流されただけであって、選んだわけではないと思えるのですが、ちがいますか?
ハヤクン いや、そうだとしても流されることを選んだと言えるのです、ソクラテス。
ソクラテス それならば、その流されることを選んだ、というのはどういうことだろう。君は自分で決意して欲望を抱いたのかね。
ハヤクン いえ、それは自然とわき起こるものです。
ソクラテス それでは、君は厳密には自分ではないものに行動を決定されてしまったと言えるのでないかね。
ハヤクン そうかもしれません。しかし自然とわき起こる欲望は私のものでないとしても、それをまさに選んだときは私の意志の働きではありませんか?
ソクラテス いや、どうしてそう言えるだろう。君はどうしても欲望に流されることも自分で選んだと言いたいようだね。君がとった行為を決定したのは何かを考えてみたらどうだろう。自分が決心しているように見えるが、それはまさに動物と同じように自然の摂理に反応的に動かされていると言えないかね。
ハヤクン それは、認めます。
ソクラテス ところで、真に自分で選ぶということは、自分がとる行動をまさに自分で決めるということではないかね。
ハヤクン それはあなたの言う通りです。
ソクラテス では、君がふつふつとわき起こる気持ちに流されたことを君は自分で選んだと言えると思うかい?
ハヤクン たしかに、言えなくなってしまいます。しかし、あのとき私は確かに悩みました。悩むということは選択をしていると言えませんか?
ソクラテス つまり君は、あのとき悩んだということに選択の余地があったことを認められると、そう言いたいのだね?
ハヤクン そうです。
ソクラテス なるほどしかし、それはすべきことを選ぶか、流されてすべきことを選べないかの瀬戸際に立たされているということなのではないだろうか。
ハヤクン たしかに、そう考えられます。どちらを選ぶかではなく、選ぶか選べないか、という悩みだったのですね。
ソクラテス そうだ。したがって、自分で自由に選ぶというのは、その時に何をすべきかを選ぶことにほかならないということになりませんか?
ハヤクン そうなります。しかしそうすると、すべきことを選べない人は自由ではないのでしょうか。
ソクラテス でも、その時何をすべきかは頭の中にあったのでしょう?
ハヤクン 確かに考えることはできています。ただ実際にそれができないことが多いはずです。
ソクラテス いや、実際にできなくても、選ぶことができると自覚できれば、それは自由の徴になるのだよ。
ハヤクン なるほど。では自由は観察できないのですね。
ソクラテス そうだね。つまり、君はすべきことをしたという点のみで自由に選択したと言えるのであって、欲望に流されることを自由に選択することはできないのだよ。とはいえ、現実はそうすべきことを選択できないことが多いのに、それを選択したことが立派であることは変わらないはずだ。