哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

無思考が招く悲劇、思考が招く混乱

 

「吟味のない生活は、人間の生きる生活ではない」([1])

 

はたして、自分で考えるとは何であろうか。私たちはしばしば日常的に「自分で考えろ」と言ってのけるが、それは誰の目にも明らかな事柄だろうか。いや、そもそも思考は目に現われないではないか。計算処理が早ければいいのか?予定をきちんと立てられればいいのか?他人に気を遣うことができればよいのか?おそらく何か、もっと根本的な何か〈思考〉というものがあるのではないか。今回は軽くそのことについて〈考えて〉みようと思う。

 

自分で考える勇気がない現代人?          

正直、自分で考えるのはめんどくさい。リスクもあるしできれば避けたい。そうは思わないだろうか。代わりに考えてくれる人がいればいいではないか、と。

◎僕らは未成年状態?

自分の頭で考えることを嫌がり、他人に考えることを任せ、自分は思考放棄。それをカントは「未成年状態」と呼んだ。

 

未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである。この未成年状態の原因が悟性の欠如にではなく、他人の指導がなくとも自分の悟性を用いる決意と勇気の欠如にあるなら、未成年状態の責任は本人にある。([2])

  

未成年状態とは厄介なのだ。その状態に慣れてしまい、自分で考えることをしてこなかった人はその居心地の良さにどっぷりつかってしまう。

私たちがカントの言う未成年状態であると断定できるわけではないが、それに近い雰囲気は感じないだろうか。未成年状態を抜け出すためには、抜け出させるためには…。

➤自分で考えることは、自分で考えることでしか学べない。

➤自分で考えよ、対話せよ、勇気をもて、と個人に訴えたとして、その一歩が出るだろうか。その一歩は彼らにとっては大きな危険を伴う歩みである。

➤おそらく自由を与えなければならない。(誰が?という問題)

 

そもそも考えるって何だ?            

自分で考える勇気、などと言ってきたが、考えるという営み自体が何かよくわからなくなってきた。おそらく答えなど出ないが、少しだけ。

◎思考と対話の同一性?

考えるということの一つの条件というか、そこに必ず伴うことは「自分自身と徹底的に向き合う」ということだと思う。

 

ではまず、〈思考〉と〈言表〉とは同じものではないかね。違う点はただ、一方は魂の内において音声を伴わずに、魂自身を相手に行なわれる対話(ディアロゴス)であって、これがわれわれによって、まさにこの〈思考〉という名で呼ばれるにいたったということだけではないか?([3])

 

誰かに向けられ声に出されるのではなく、自分自身を相手にして沈黙のうちになされる対話が思考である、とプラトンは言うわけである。ちなみにカントも似たようなことを述べていたようだ。「考えるとは自分自身と語りあうことであり……、また心のなかで(再生的構想力によって)自分に耳を傾けることでもある。」([4]

 

自分自身と徹底的に対話することができずして、すなわち自分で考えることができずして、私たちは他者と真剣なコミュニケーションをとることができるだろうか。雑多な日常会話、世間話なんかはいいとして、政治的討議、善悪の判断が絡む場面ではどうだろう。判断の伝達は、個々人の思考と連続している。他者に判断を伝達し、コミュニケーションが成り立つためには、自己内対話的な思考によって判断を形成することが必要条件となるのではないか。

 

◎自分と向き合う孤独と不安

しかし、考えるとは孤独である。そして徹底的に考えるということは、あらゆる価値が宙ぶらりんにならざるを得ない。その不安の中、思考停止せず、何か既存の強く大きいものに頼らず、自分の目と頭で考え抜くことができるか。これが難しく、また重要なテーマであろう。例えば森岡正博は『宗教なき時代を生きるために』において、次のように道を探究することを表明している。

 

生と死や「いのち」や存在の問題に目隠しをする唯物論の社会、社会主義の社会に異議申し立てをしつつも、それらの問題に対する解答をけっして宗教の「信仰」には求めず、そしてどこまでも思考放棄せずに、自分の目と頭と身体とことばを使って自分自身でそれらの問題を考え、追求し、生きていくという道である。([5]

 

次に、〈考える〉という営みとその不安について深めておきたい。

 

考える危険と考えない危険?           

おそらく私も含め、考えないこと、思考停止することの危険ばかりを強調することになる気がするので、ここで一つ冷静になろう。〈自分で考える〉万歳!ではそれこそ思考停止である。

 

◎思考は特効薬ではない

これはひとまずアーレントに語らせるのがよいだろう。

 

思考の麻痺には二重の意味があります。第一にこの麻痺は、立ち止まって思考することに、他のすべての活動を中断することに固有の麻痺です。そして思考した後では、わたしたちが思考せずに自分のしていることに熱中していたときには、疑問の余地のない自明のことと思われたことも、もはや確実なこととは思えないという意味で、別の麻痺をもたらすのです。([6])

 

思考とは基本的に「何の役にも立たない」ものだ。すぐに成果物を生み出すわけではない。むしろその営みは、自己破壊的である。([7]) それゆえ一見すれば、思考なんてしない方が幸せな生を送ることができるようにも思えてしまう。

それゆえ、みんなが自分で考えるようになればきっと社会がよくなるし、今までわからなかったことが明らかになるのだ!と無批判にみなしてはいけない。私が思うに、成果を期待する思考はきっと思考停止へと導く。あらゆる事柄を吟味の渦中へと引っ張り出し、その嵐が去った後に残るのは困惑である。

 

◎思考は時として崩壊を防ぐ

だから思考なんてしない方がましだ!と叫ぶことは、むしろ当然の態度とも言えよう。では、思考をしない危険は…?またもやアーレントに語らせよう。

 

人々を吟味の危険から隔離してしまうと、それがどんなものであっても、その時代にその社会で定められた行動規則にしたがうように教えることになります。([8])

 

思考をやめてしまえば、モラルの崩壊を招く恐れがある。考える重荷に耐えられなくなって、自分で考えることを放棄し、何か大きなカリスマ的存在にもとに彼らが結集してしまえば、悲劇が起きる可能性がある。もちろん絶対ではないが、その怖さは歴史が物語っている。

だからといってそれこそ何も考えずに一人ひとりがしっかり考えなければならないと声高らかに叫ぶだけでは自己陶酔である。そもそも思考とは何か、この問題から問い直す必要があるのかもしれない。

 

 ([1]) プラトンソクラテスの弁明』(『プラトン全集1』田中美知太郎訳、岩波書店、105頁。)

 ([2]) カント『啓蒙とは何か』(『カント全集14』福田喜一郎訳、岩波書店、25頁。)

 ([3]) プラトンソピステス』(『プラトン全集3』藤沢令夫訳、岩波書店、153-154頁。) 同様の主張は『テアイテトス』(『プラトン全集12』330頁)にもある。なお「言表」と訳されているのはロゴスである。

 ([4]) カント『人間学』(『カント全集15』渋谷治美訳、岩波書店、119頁。)

 ([5]) 森岡正博『宗教なき時代を生きるために』法蔵館、62頁。

 ([6]) アレント『責任と判断』中山元訳、筑摩書房、322頁。なお、同様の記述が『精神の生活 上』(203頁)にも見られる。

 ([7]) 「思考活動は、また、いささか自己破壊的である。」(アーレント『精神の生活(上)』佐藤和夫訳、岩波書店、103頁。)

 ([8]) アレント『責任と判断』中山元訳、筑摩書房、325頁。