哲学なんて知らないはやくん

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カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑥

第二章 ③ [Ⅳ, 420-430

 

定言命法の内容

格率が法則に合致しなければならない、という必然性のみ

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「格率が普遍的法則となることを、格率を通じて君が同時に意欲することができるような格率にのみ従って行為せよ」(Ⅳ, 421)

*この定式化によって、義務の概念の意味するところが分かる。

=「君の行為の格率が君の意志によって普遍的自然法になるべきであるかのように行為せよ」(Ⅳ, 421)

*これは『実践理性批判』の「純粋な実践的判断力の範型論について」にも述べられている。そこでは普遍的自然法則は格率が道徳的原理に従って行為しているかどうかを判定するための範型である、と指摘されている。

 

定言命法と格率の関係

注で指摘されている通り、格率とは主観的な原理であり、客観的原理である法則と対比的に論じられている。

格率……実際に主観が従っている行為の一般的な意向や方針を表現している

法則……理性が完全に意志を規定する理性的行為者が必然的に行為する仕方を表現している。つまり、人間のような不完全な理性的存在者に対しては行為「すべき」仕方を表現している。

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いわば格率は普遍的法則となりうる候補であり、定言命法は適切な格率を指令するものである。しかし、命法が格率になるというわけではなく、あくまで二階の原理として機能するだけである。

 

義務の分類(『道徳の形而上学』の方が詳しい)

①自分自身に対する完全義務:自殺の禁止

②他人に対する完全義務:嘘の禁止

完全義務のポイント

・より狭い拘束性をもち、厳密で例外を許さない義務

・その格率を普遍化テストにかけたとき、思考することができない(そもそも成立しない)=内的不可能性

③自分自身に対する不完全義務:自分の能力の開化

④他人に対する不完全義務:他人の援助

不完全義務のポイント

・より広い拘束性をもち、従わなくても責められない(=功績的義務

・その格率を普遍化テストにかけたとき、意欲することができない

[カントのこの説明はそこまで納得いくものでしょうか…?(特に自殺の禁止)]

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「私たちの行為の格率が普遍的法則となることを意欲することができるのでなければならない。これが行為一般の道徳的判定の基準である。」(Ⅳ, 424)

 

自分を例外化する人間

私たちが義務違反をするときの心理的カニズム

☞自分の傾向性の利益のために自分に勝手に例外を許す。

*「理性の見地」からすると、これは矛盾している

(→自分を含めた理性的存在者が必然的にすべきなのにそれに反しているから)

*「傾向性の影響下にある意志の見地」からすると、これは矛盾していない

(→そのもとではすべきことに反する可能性を示しているだけだから)

☞この見地でのみ道徳を語ると、普遍性は認められなくなり、道徳は退廃する。

 

義務の論証へ?

ここまでで、「義務はただ定言命法においてのみ表現」されることが明らかになった。

*義務の概念が意義をもつことを認めるなら、という譲歩付き

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しかしまだ定言命法が「現実に行なわれていること」「絶対的に…命令する実践的法則なるものが存在すること」「この法則を守ることが義務であること」をアプリオリに証明することはできていない。

注意:道徳の原理としての義務を人間本性の特殊な性質から導き出してはならない。

☞客観的原理はあらゆる理性的存在者に妥当する実践的必然性をもつから

*特殊な性質から導かれるのは個々の行為者の格率まで

 

困難な立場に立たされる哲学

「天に掛ける何か、あるいは地に支える何かがない」(Ⅳ, 425)

☞何の支えもなしに、自分自身[哲学]だけで自らの純粋性を示さなければならない。

 

経験的なものは道徳に対して有害である

「経験的なものはすべて道徳性の原理の添加物として、まったく原理に役立たないだけでなく、道徳の純粋さにとってさえもきわめて有害である。」(Ⅳ, 426)

☞道徳の価値というものは、偶然的なものしか提供できない経験的なものに影響されず、ただ理性によってのみ示される。

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「したがって問題は、「理性的存在者が自ら普遍的法則として役立つことを意欲できる格率に従ってつねに自分の行為を判定することは、すべての理性的存在者にとって必然的な法則なのだろうか」ということになる。もしこのような法則が存在すれば、それは(完全にアプリオリに)すでに理性的存在者一般の意志の概念と結びついていなければならない。」(Ⅳ, 426)

☞この存在を認めるには、経験から独立した探究である道徳の形而上学へと進まなければならない。

 

目的自体とは何か

「意志は、ある法則の表象に適合して自分自身で行為を規定する能力として考えられている。……ところで、意志に自己規定の客観的根拠として役立つものは目的であり、そしてこの目的は、もしそれがたんに理性によってのみ与えられているのだとしたら、あらゆる理性的存在者に対してひとしく妥当しなければならない。」(Ⅳ, 427)

*カントの前提:理性的行為者の意志は常に行為者が眼前に立てる目的に向けられている。

☞目的は意志を規定する根拠であるが、それが主観的なものであるなら、同時に手段も意志される。それは「実質的目的」であり、相対的な目的である。

*しかしこの目的は、仮言命法の根拠にしかなりえない。

そうだとすれば定言命法の目的は?

☞行為は目的をもつのだから、定言命法が行為を命ずるものである以上、その関係は存在しなければならない。

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傾向性に仕える相対的な目的ではなく、理性によって与えられた絶対的な目的が存在しなければならない(何かにとって、つまり手段として善いのではなく、それ自体で善い、つまり目的自体でなければならない)。

定言命法の根拠としての目的は「それが現に散在していることがそれ自体で絶対的な価値をもち、それ自身が目的自体として一定の法則の根拠であることができるような法則が存在するとすれば、その法則のうちに、そしてそのうちにのみ、定言命法の可能性の根拠が、すなわち実践的法則の根拠が存することになるだろう。」(Ⅳ, 428)

 

・人間および一般にすべての理性的存在者は、目的自体として存在しており、それによって他の選択意志を制限できる。

「理性的存在者の本性は人格をすでに目的それ自体として、すなわちたんに手段としてのみ使用されてはならないものとして際立たせており、したがってその限りにおいてすべての選択意志は制限される。」(Ⅳ, 428)

☞手段としての相対的価値を越えた人格のうちに絶対的価値を見出す。「人格は客観的目的である。」(Ⅳ, 428)

定言命法の原理の根拠は、理性的存在者が目的自体として存在していることである。

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「君の人格や他のすべての人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんなる手段としてのみ扱うことがないように行為せよ」(Ⅳ, 429)

*手段として用いること自体を禁じているのではない

☞これをまた義務の4つの実例を持ち出して説明している(Ⅳ, 429-430)。

この例からは、人間性を目的自体として扱うことは、各人がそれぞれ自由に自分で目的を設定する主体と認め、その目的を妨げず、むしろ促進することを意味していると読み取れる。ここから目的自体として絶対的な価値をもつ人格の根拠として、目的設定を行なう主体である、という主張が取り出される。

 

定言命法の方式としての目的自体

・行為の目的は行為の根拠である。

☞理性的存在者は定言命法の根拠であるため、その目的でもある。

なぜ、理性的存在者が定言命法の根拠なのか。

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理性的存在者が存在するがゆえに、定言命法が存在しうるから。

(理性的存在者のみが、普遍的法則の形式性の制限のもとでみずから目的を設定することができる)

 

・ポイントのまとめ

定言命法は理性的存在者としての人間に源泉をもつため、この存在者の理性的意志は相対的な目的に従属するべきではなく、むしろそれ自体が一つの目的なのである。

 

普遍的法則の方式との関係

定言命法の唯一の定式である「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」と目的自体の方式は別の形で表現したものである。ということは、この方式から導き出されるはずである。

 

論証

・普遍的法則の方式

☞あらゆる人にとって普遍的法則でありうるような格率に基づいてのみ行為するよう命じる。

*当然この法則は他の理性的存在者の意志も考慮にいれなければならない(=私は他の理性的存在者も同様の法則に基づいて行為しうるという仕方でのみ行為するよう命じられている)。

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それゆえ、私は理性的存在者(自分も含む)をたんに欲望の満足のための手段として用いるべきではない。(=同時に目的自体として用いよ)

 

解釈に困る箇所:目的自体の概念の唐突さ

カントによれば、定言命法仮言命法と違って意欲の対象として前提される目的がないため、行為へと促す目的が予め前提されない。強いて言えば、定言命法を基礎とする行為はその行為自体が目的である。つまり、定言命法が命じる行為には、目的が前提されてはいけないわけだが、アリストテレス以来、カントも行為には目的が置かれなければならないことは前提している。少なくともその行為をする理由を必要とし、明文化できる理由とまでいかなくとも、それを実行する価値があったという何らかの漠然として感覚がないと人間は行為に動かされない。ここからも、定言命法を基礎とする行為がいかにして可能であるか、という問題が切迫した問題であることが読み取れる。この「定言命法は目的を前提してはならないが、しかし行為には目的がなければならない」というジレンマを解消するために、手段としてのみ考えられてはならないような自存的な目的として目的自体という概念がいささか唐突とも思える仕方で導入されている。