哲学なんて知らないはやくん

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カント倫理学研究の紹介:Timmermann「カントのMitleidenschaftについて」

ここでは、Timmermann (2016) の „Kant Über Mitleidenschaft“を紹介する。これはKant-Studien,107 (4), pp.729-732に収められた短い論考である。Mitleidenschaftというドイツ語は、翻訳者たちは見過ごしてきた馴染みがない表現 (ungewöhnliche Ausdruck) であるが、注意深い母語話者 (wacher Muttersprachler) ならば躓いてしまうと指摘し、その用例としての異例さを指摘している。鋭く珍しい切り口で、こういう研究もあるのかと勉強になったので、紹介させていただきたい。

 

『徳論』第34節における同情の議論の中で、カントは二度、彼の著作のどこにも登場しないMitleidenschaftという珍しい言葉を使用している。これまで、このことの重要性は気づかれていない。カントはなぜこの言葉を使ったのだろうか。


カントが『徳論』の中でMitleidenschaft (日本語にすると「ともに苦しむこと」くらいだろうか) を使用するのは、他者に対する同情の間接義務を扱う34節であるが、そこでカントは他者と共にしている感情の二つの異なったあり方を区別している。カントは両方とも「人間性 (Menschlichkeit)」と呼んでいる。第一に、「実践的」な人間性である。それは自由で「同情的 (teilnehmend)」であり、「お互いの感情を共有する (mitteilen) 能力と意志」が存する。この人間性だけが道徳的に必要である。第二に、「情感的 (ästhetisch)」な人間性であり、「自然が与える喜びや苦痛の共通の感情に対する感受性」である。それは実践理性に基づかないので、カントに言わせれば自由ではない。彼はそれを mitteilend (ここに合う日本語だと伝播的?) と呼んでいるが、それは熱の伝導や伝染病のように自然に広がっていくからである。このため、「Mitleidenschaft (ともに苦しむこと)」とも呼ばれる。カントがこの言葉を使うのは、ストア派の賢者の例を出すときである。

 

その異例の表現 [=Mitleidenschaft] は、ほとんど翻訳者の注意を引かなかったが、注意深い母語話者ならその言葉につまずくに違いない。その言葉は今日では「~に損害を与える in Mitleidenschaft ziehen」すなわち何かや誰かを傷つけるという意味でしか使われていない。ではカントの時代ではどうか。グリムの辞典を見ると、「共通の苦しみ、あるいは苦しみの感情 (das gemeinsame leiden oder das gefühl des leidens)」とある。なお、辞典の中では、その用例としてカントが引用されている。当時、損害を与えるという意味は、人格に対してのみ使われていたようだ。

 

ではなぜカントは『徳論』の第34節でわざわざ Mitleidenschaft を使用したのか。その理由は、人間同士の心の状態の伝染が起きている場面を知っていたからである。カントは、医師であるミハエリス (Michaelis) の話を『人間学』で紹介する中で、人間の「想像力」の役割について語っている。そこでカントは、痙攣している人を見ると自分も似たような痙攣を感じたり、あくびが移ることを例として挙げている。ある種の精神的な錯乱状態にある人は周りの人々に感染することを、医師ミハエリスの話を引き合いに出して紹介しているのである。

 

このミハエリスの話を念頭に置いていたため、34節でカントは熱の伝導や伝染病を引き合いに出しながら、想像力を介した苦しみの感染を論じているのである。しかしその語をほとんどの箇所で使用しないのは、Mitleidenschaft は、あくまで人間の感情状態を機械的に伝達すること (mechanische Übertragung des Gefühlszustandes eines Menschen) であり、それは理性とは関係しないどころか、それを損なうことさえあるからである。それゆえ、カントはあえて Mitleidenschaft という表現を避けるのである。