哲学なんて知らないはやくん

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カント倫理学研究の紹介:ラウデン「カントの徳倫理学」

Louden (1986) Kant’s Virtue Ethics

今回紹介するラウデンの論文は、カント倫理学が徳をどのように問題にしていたのかを、義務論倫理学の体系を守りながらも積極的に論じているバランスのよい論文である。最近翻訳が出版されたオニールの『理性の構成』に所収されている「美徳なき時代におけるカント (Kant after Virtue)」に中心的に展開される格率解釈の批判的検討も含んでいる。ラウデンもオニールの解釈の方向性には同意し、カントが行為者のあり方を問題にする徳倫理学的視点を十分に有していたことを主張するが、カント解釈としての注意点をより強く意識しているような印象である。オニールの格率解釈を読んだ読者なら、一度目を通しても損はない。

 

格率を読み直す:オニールの格率解釈の検討

カントの徳倫理学的解釈の一つの議論は、格率概念を読み直すことから生じる。この戦略をとる論者には、オニールやヘッフェなどがいる。格率は「意志の主観的原理」と定義されるものであり、ある特定の時間と場所において行為者によって採用されるものである。それゆえ、格率は行為主体の意図や関心と結びつかなければならない。通常の格率理解によれば、個々の行為に対して格率があると考えられている。しかしオニールはこれを退け、行為者にとって根底的な意図 (underlying intention) として格率を解釈する。この解釈を支える二つの論証は次のようなものである。(1)私たちは特定の意図は意識しているが、カントがしばしば主張するように、私たちは行為の本当の道徳性を知ることはできない。これは、格率と特定の意図が同じではないことを示している。(2)私たちは時々、意図をもたずにぼんやり行為することがあるが、カントによればすべての行為には格率があるため、すべての行為は道徳的評価に開かれている。これもまた、格率と特定の意図との違いを示している。

このように、特定の意図ではなく根底にある意図として格率を解釈することは、徳の観点からカント倫理学を読む強力な根拠となる。というのも、根底的な意図は私たちがどのような人間でどのような生を送っているかということに直接結びつくからである。

しかしこの解釈には二つの問題点がある。

(1)オニールが使う「根底的な意図」という表現は曖昧である。また、オニールが言うところの、格率の採用はどのような人間であるか、あるいはどのような生を送るかを反映するという考えと、格率は長期的ではなく、自由に変えることができるという考えは調和しない。どのような人間になるか、という点には長期的なプロセスが必要であり、根底的な意図が長期的な意図から離れれば離れるほど、格率と徳は結びつきにくくなる。この奇妙に見えるオニールの根底的な意図と長期的な意図との区別は、おそらくカントのテキストにさかのぼることができると思われる。それは人間の徳は習慣ではない、という主張である。カント的な徳は、「新しい誘惑がもたらす変化に対して十分に守られている」道徳的な心術である。カントが徳は習慣ではないと考えた背景には、罪悪感を抑圧するための合理化や自己欺瞞を見抜いていたことがある。とはいえ、長期的な習慣が必然的に機械的な習慣になるわけではない。それゆえ、オニールの区別には十分な根拠がない。

(2)オニールの「根底的な意図としての格率」は、カントが挙げる格率の例と一致しない。カントの挙げる例では、非常に具体的であり、発生しないかもしれない限定された状況にのみ適用される格率がある。カントによると、格率は短期/長期的な意図の両方を意味する可能性がある。カントの格率は、個別的な行為も、人生の経過も、どちらも道徳的評価に開かれているのである。どちらの評価も倫理学には必要である。

 

同時に義務である目的としての自己の完全性

カントの文章の中には、根底的な意図と人生に関わる格率の基本的な例がある。それが『徳論』での目的の格率である。すべての行為は目的をもち、目的の選択は行為主体にとって自由になされる。目的は欲求や傾向性の対象でもある。しかし、ある目的をもつように強制されることはないため、あくまで目的は自分で選択しなければならない。つまり、目的の採用は傾向性ではなく、実践理性の権限のもとに置かれる。そこでカントの立場は、同時に義務である目的がある、というものである。カントによれば、同時に義務である目的があると仮定しなければならない。もしすべての目的が偶然的なものであるならば、すべての命法は仮言的なものになるからである。

カントが『徳論』で示す「同時に義務である目的」は二つある。自己の完全性と他人の幸福である。義務としては自己の完全性の方がより基本なものであり、これは道徳的性格にも直接的につながる。自己の完全性の促進として主張されている最も重要なものは、自己の意志をもっとも純粋な徳の心術へと陶冶する義務である。カントによれば、徳は善意志への人間の接近であり、接近でしかありえないのは、人間はつねに法則に反しうる傾向性をもっているからである。

すなわち、徳を発展させる義務は自己自身に対する義務である。ここで最も重要なことは、自己の道徳的性格を発展させることが、カントの義務論の要だということである。自己自身に対する義務がなければ、いかなる義務も存在しないからである。

カントの主な主張は、法的な義務、道徳的な義務、どんな義務であれ、すべての義務の基本となるものは、自分自身を拘束する概念であるということである。同時に義務である目的に関するカントの議論を検討すると、徳がカントの倫理学の中で優越的な位置を占めていることが顕著に明らかになる。私たちの最優先の実践的使命は、すべての行為の基礎としての自分の性格の中に徳の状態を実現することである。このような自己自身に対する義務を果たすことなくして、他の義務を果たすことはできない。それゆえ徳は、カントにとって倫理の中心であるだけでなく、法論を合わせた全体の道徳理論においても優先されるべきものである。

しかし、注意すべきは、徳それ自体は道徳の最上原理ではないということである。徳も概念的には道徳法則に従属するものである。個々の行為も生き方も評価するのは紛れもなく道徳法則であるため、道徳法則の優位は揺らがない。

カントの倫理学において徳は、よく考えられているものよりはるかに重要であるが、それにもかかわらず、カントの倫理学が徳の倫理学であると断言するのは大げさである。行為者と行為の両方の視点の重要な側面は、カントの倫理理論に存在している。カント倫理学は個別的な行為だけでなく、人生のあり方(生き方)についても評価しようとする道に開かれている。そして、どのような人間であるかは重要であるが、それでもカント倫理学における道徳的人格の概念は法則への服従という観点から評価される。

道徳的価値をもつのは義務に基づく行為のみと言われるため、通常の理解では、カント倫理学は徳の倫理的立場を支持しないように思えるが、そうでもない。カントの義務に基づく行為の概念が意味するのは、特定の規則のために特定の行為を実行するということではない。すべての行為が道徳法則と調和する性格の顕現である生き方を目指して努力することである。

また、カントへの厳しい批判の焦点は、理性主義と道徳的動機づけの問題である。ここからは、徳に基づく行為における感情の役割に対するカント的立場を中心に展開する。

一般的には、行為主体が本当にそうしたいと思う(道徳的な)行為が賞賛に値すると考えられる(助けたいと思ったから助けた、という行為など)。ここで「~したい」という意味を明確にする必要がある。そのためにまず、反カント主義の主張を確認する。彼らによると、徳に基づく行為は少なくとも時には利他的な感情や欲求に動機づけられる。カント的な義務に基づく行為は、すべての自然的な感情や欲求を排除する。したがってカント倫理学は徳に基づく行為が入り込む余地はない、というものである。

厳格な意味で徳に基づいて行為するとは、理性的に行為することであると考える点でアリストテレスとカントは一致している。しかしアリストテレスは実践的選択について、欲求によって動機づけられた理性と、理性を通じて作用する欲求の二つを道徳的選択の要因と考えていた。では、カントは徳に基づく行為を理性に加えて欲求にも基づいて行為することだと考えるだろうか。

上記のように、カントは感情の敵として考えられることが多いので、カントのテキストに認められる感情の意義を問うことさえ無駄に思われるかもしれない。カントは法則に対する尊敬感情を「アプリオリな感情」として認めているが、やはり自然的な感情はなんら積極的な役割をもたないのか。しかし、カントの道徳的動機づけの理解における感情と自然な傾向性の役割は、しばしば想定されているよりも厄介なものである。通常の解釈では、自然な感情には、何ら積極的な役割はないということを意味していると解釈されることが多いが、カント倫理学においても、理性だけで徳を達成するには不十分である。感情は意志の規定根拠ではなくとも、徳の心術のうちに様々な感情があるはずである。アリストテレス的に言えば、それは理性によって訓練された感情である。これらの感情は、尊敬感情に比べれば二次的ではあるが、道徳的で徳のある生活を送る上では不可欠な要素である。

カントは『基礎づけ』で、義務の行為を例示する際に、行為者が義務に反対する行為(例えば、他人の苦しみに対する同情よりもむしろ反感を感じる)を実行する傾向性を持っていた場合、行為者が義務が要求するのと同じ行為を実行する傾向性を持っていた場合よりも、ある行為が義務から実行されたかどうかを正確に判断する方が簡単であるということを示している。もちろん、傾向性が動機として排除されているように見えても、何が最終的に行為者を動機づけるのかを確実に決定することはできない。カントは、私たちの道徳的意図は、私たちにとって不透明なままであると主張している。同様に、カントは第二批判において、利他的な感情を道徳的行為を動機づける上で道徳的法則と「協力」するものとみなすことは「危険」であると述べている。その理由は、法則への尊敬から行為することに加えて、義務と同じように行為したいという自然な欲求がある場合には、行為の真の動機を見極めることがますます難しくなるからである。とはいえ、感情を行使することは確かに危険かもしれないが、真の有徳な人生を目指す人間には、情動の適切な育成が必要である可能性を排除するものではない。そしてカントは明らかに彼の後の著作(『徳論』や『宗教論』)で、感情は道徳的動機で果たすために必要かつ肯定的な役割を持っていることを主張している。それゆえ、感情の敵というカント理解はひどい誤解である。

カント立場はこうである。確かに道徳的選択のための最も重要なことは、感情ではなく、理性でなければならない。しかし、感情が理性に逆らうのではなく、理性とともに働くように感情を訓練することの意義は認める。傾向性が規定根拠となる場合に道徳的価値はないが、しかしだからといって、理性と調和する感情さえも道徳的価値を台無しにするわけではない。むしろカントはそれをよいことだと考えている。

カントの見解では、徳に基づいて行為することは、理性を通じて感情を鍛錬することを含意し、その結果、理性が命令する外的な行為と同一の行為をしたいと思うようになるために、理性によって感情を訓練することを必要としている。しかし、カントが警告しているように、このような方法で感情を鍛えると、自分の行為の動機を評価することがより困難になる。徳の陶冶には、そのリスクを冒すことが必要なのである。

感情と徳についてのカントの立場は、アリストテレス的な徳倫理学と矛盾するものではない。それはアリストテレスの見解に著しく近いものであり、大きな違いは、カントがアリストテレスよりもはるかに、道徳的であるという自己欺瞞の危険性をずっと意識していたことである。