哲学なんて知らないはやくん

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カント倫理学研究の紹介:Denis "Kant’s conception of virtue "

デニスのこの論文はCambridge Companion to Kant and Modern Philosophy (2006) に所収されているもので、カントの徳概念について学ぶ者にとっては必読文献の一つといっても過言ではないと思っています。基本的なところが非常に明瞭に説明され、無視されがちな側面にも十分な注意が払われており、私も大いに勉強させられました。カント倫理学についての優れた研究であることは間違いないと思うので、部分的に、かつ簡単にですが紹介させていただきます。

 

まず、デニスはカントの徳についての説明を以下の六つに整理する。

①道徳法則への尊敬から自らの義務を遂行する心構え [Gesinnung] 。この心構えは、道徳法則が命じるように行為する主観的原理である格率を暗に示しており、道徳法則への尊敬を反映している。

②徳はカントの著作や講義録において、意志の強さとして描かれている。

③徳は戦いを伴う対立を前提とする。この戦いは「VS傾向性」ではない。戦いになるのは、人間の意志が神聖ではなく、必然的に道徳法則と一致するわけではないからである。徳に対立するのは自己愛や傾向性ではなく、自己愛を優先させようとする性癖、すなわち根本悪である。

④徳は神聖ではない理性的存在である人間の特徴である。

⑤徳は内的自由に基づく自己強制である。

⑥現象的徳(行為の適法性からみた義務に適う行為の習性)と本来的徳(行為の道徳性がゆえに義務に基づいてそのように行為する確固たる心構え)は区別される。

 

まとめると、カントの徳は次のように理解されうるとデニスは言う。

・ 神聖な意志を持たない理性的な存在が、道徳への最上のコミットメントを表現する形式

・自らのすべての義務を果たすために自分の傾向性を支配するために継続的に陶冶された能力

・その陶冶と行使が道徳法則への尊敬によって動機づけられている能力

 

次にデニスは悪徳とたんなる徳の欠如の区別を取り出す。 

・徳の欠如…義務における弱さ(道徳性へのコミットメントをもつが、それをなす決意がない)。それゆえ、不完全義務を履行しない。

・悪徳…道徳法則の軽視(=あえて道徳法則に反して行為しようという性癖)。それゆえ、たんに不完全義務を履行しないのではなく、それに積極的に違反する。

 

またデニスは、有徳であることと善意志を持つことの区別を強調する。 

善意志をもつことは、たんに道徳的格率を道徳的理由に基づいて採用することであり、そこに強さ(=徳)の問題は生じない。しかも、善意志は悪徳とは両立しえないが、徳の欠如とは両立しうる。しかし、善意志は徳にとって必要条件となる。つまり、善意志をもちながらも徳をもたないことは考えられるが、善意志をもたなければ徳はもちえない。徳は善意志を行為において実現するための強さを意味するのだから、両者は概念的には区別されるが、本質的には関連しているのである。

 

では、徳をもった行為者とはどのような存在なのか。

デニスは、カントの徳概念の理解のためには、有徳な行為者の動機づけの構造を検討しなければならないとして、いったん動機づけの問題に移る。有徳な行為者は、自らの最上格率において法則への尊敬を自愛の原理に優先させる仕方で動機づけられる。つまり、道徳法則への尊敬によって動機づけられる必要があるわけだが、これは定言命法に従うことを含んでおり、自己や他者における理性的本性への尊敬を意味する。

しかし人間は、理性的本性を尊敬するという観点だけでは、他者や世界に実際に応答することはできない。『宗教論』によれば、人間には三段階の素質、すなわち、動物性の素質、人間性の素質、人格性の素質がある。

人格性の素質が道徳的に重要なのは明らかだが、3つの素質は全て善であり、道徳法則の遵守を促す。しかし、動物性の素質と人間性の素質は腐敗しやすい。ほとんどの徳のための戦いは、3つの素質を調和させる努力なのである。実際、具体的な徳や悪徳に目を向けると、人格性だけでなく、人間性や動物性を持つ存在としての自己や他者をいかに尊敬するかが問題となることが分かる。カントにおいても、自己自身への義務は、シラーが批判したような修道士のような禁欲的生活ではない。カントはむしろそれを否定している。傾向性を排除することは全く目指していない。自己の完全性の義務は、自らの自然的能力の陶冶を伴うのであるから。

 

しかしカントは無感動と自己支配を主張するとき、情動的な動物的側面を非難しているように見える。確かにカントは無感動を賞賛するが、それは情動を抱くことへの反対ではなく、怒りのようなつかの間の感情によって意志を規定されることへの反対である。また、自己支配は無感動以上に包括的である。自己支配を促すことでカントは、自分自身から感情や傾向性を取り除くことを勧めるのではなく、それらの感情を道徳性と両立しうるように、あるいはそれを支えるように、使用することを勧めている。

 

デニスは、カントが感情に与える重要な役割を3つに区別して説明している。

①義務を果たすため役立つ(例えば同情)。

同情は、他者のニーズや欲求を理解するための手段として、それゆえ他者の援助を容易にする動機として、役立つ。

道徳感情、良心、人間性への愛、尊敬。

これらをもつことは義務ではないが、これらは道徳的に役に立つので、陶冶することは義務である。

③義務の遵守に伴う快活な心や、義務の遂行に喜びを感じること。

カントは徳と戦いを結びつけるが、有徳な行為者が義務を憎んだり、義務を果たすことによって苦しむことは否定する。

 

それゆえカントにとって徳は、動物性と人間性の道徳的に役立つ側面を促進することも含む。有徳な情動、感情、傾向性は心の平静さ同様、徳の源泉ではないが、徳に向けての補助道具である。

 

デニスは具体的な徳についてもカントが論じていることを指摘する。

カントが言うには、客観的にはただ一つの徳(格率の道徳的強さ)であるが、主観的には複数の諸徳がある。具体的な様々な諸徳は、道徳的義務の遂行を容易にするために必要とされる。

徳の義務として挙げられるのは自己の完全性と他人の幸福を促進することであるが、具体的な徳は数多くあると考えられる。それは、意志が徳の唯一の原理から導かれるさまざまな道徳的対象が考えられるからである。

 

デニスの論文では、特に他人の幸福を促進する徳の義務(愛の義務)について深められる。

他者の幸福の不完全義務を促進するものとして陶冶する義務があるものは、親切、同情、感謝である。

親切…見返りを求めずに困っている他者を助けること

同情…他者の感情を積極的に共有することと、他者の感情やニーズを理解するために自己の自然的な同情的感情を陶冶することの両方

感謝…見返りを求めずに親切に対して感謝すること

 

親切は直接的に他者の必要性に対応し、同情は役立つように援助する。カントは愛の義務に反対するものを悪徳と明確に呼ぶ。

さらにカントは、直接的な倫理的義務に対応する徳と悪徳に加えて、徳と呼ぶことはできないような特質についても論じている。これらは、間接的に道徳性を促進することもある心構えを含んでいる。その一つは「社交的徳」と呼ばれるものである。社交的徳は真の徳ではないが、徳を装飾することに結びつき、そのような徳に優雅さを添わせることは徳の義務である。

 

最後に、カントがカント以前の徳概念の批判を行っていることが取り上げられる。

アリストテレス批判

カントは、徳をたんなる習慣として、そして中庸として考えることは違いであると主張している。徳がたんなる習慣だとしたら、新たな誘惑がひき起こしかねない変化に対して準備ができていないことになる。

そして徳は両極端の悪徳の中間でもない。カントにとって、徳とは、道徳的格率とその格率に基づいて行為する際の決意の強さを意味する。悪徳は、道徳法則に反して行為することを選択することを意味する。徳も悪徳も、それぞれ別の格率をもつため、程度の問題ではないのである。 

ストア派エピクロス派への批判

またカントによれば、古代の哲学者は、徳と幸福、そして人間の善の関係を誤解している。カントは、『実践理性批判』で、エピクロス派とストア派について言及し、両者とも、神なしで自分の自由だけを通じて最高善を達成することができると考えたのが間違いであったと主張している。エピクロスは人間の幸福を徳の手段として誤解し、ストア派は徳が幸福を構成すると誤って考えた。しかし、カントはストアの理念に多く同意しているところもある。

 

デニスは、近代の道徳哲学者へのカントの批判も取り上げるが、それらの批判は徳よりも義務に向いているため、今回は省く。

 

今度、義務づけの思想について、カントとその周辺についてもまとめてみたいと思います。この方面での研究を誰かにやってほしい(人任せ)。