哲学なんて知らないはやくん

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義務論はカント独自のものか? ——17-18世紀のドイツ思想のコンテクストとしての義務論

カントといえば義務論、義務論といえばカント。これがいまだに倫理学の教科書の鉄板である。しかし、カントの義務倫理学は、カントがゼロから編み出した独自の思想ではない。倫理学における義務づけの思想は、18世紀ドイツにおける自然法論、とりわけグロティウスやプーフェンドルフらの義務論の影響下で形成されたものである。義務論としての倫理学は、カントが大いに影響を受けたヴォルフやバウムガルテンらによっても展開されていたが、現代ではカント倫理学の専売特許のように語られることが多い。しかし、それだけではカント解釈としてもやはり限界がある。ここでひとつ、カントの思想形成を追うために、彼の時代にさかのぼって文脈をとらえる作業が必要であると思われる。内容にはほとんど踏み込めないが、ざっくり振り返ってみることで読者の関心を少しでも引き起こせたら幸いである。

 

◆プーフェンドルフ

プーフェンドルフによれば、法とは上位の者が服従する者に対して行為を強制させる義務づけの命令である。今回は国法についてはスルーして自然法だけを見るが、この法概念は一貫している。プーフェンドルフの観察によれば、人間は自分勝手な存在だが、自分だけでどうにかしていけるほど力もないので、社会性を養ってそれを保持すべきである。これが自然法である。さて、問題なのはこの「べき」という義務づけの根拠である。それは一言で言えば神である。プーフェンドルフの自然法がもつ義務づけについてはさらに細かく分かれていくが、今回は省く。また、完全義務と不完全義務の区別を最初に持ち出したのはおそらくプーフェンドルフであり、これがヴォルフやカントに多大な影響を与えたことは疑いようがない。カントが義務論を展開する土壌は、17世紀の自然法理論にあったことは倫理学史上確かだと思われるが、その影響力の大きさとは裏腹に、現代の教科書的な倫理学説でプーフェンドルフはほとんど顔を見せない。ちなみにプーフェンドルフについては邦訳が出版されている。『自然法にもとづく人間と市民の義務』を参照。

 

◇ヴォルフ

ヴォルフの倫理学は、完全性を求めることを倫理的規範として規定している。ざっくり言えば、より完全であればあるほど善いということだ。ちなみに、物事の完全性は理性を働かせればわかるという。とはいえ人間の理性は有限なので、できる限り完全なものにすることが限界である。それゆえヴォルフは、『ドイツ語の倫理学』§44において、完全性をもちうるのは神だけであり、人間は「より大きな完全性に向けた妨げのない進歩」があると述べている。実践的に求めるべきである完全性を目指し、それへと接近していくことが義務づけられているというのが、ヴォルフの思想である。この義務づけをヴォルフは「自己自身に対する義務」として位置づける。道徳性の原理としての完全性によって拘束されているというヴォルフの倫理学は、義務づけの根拠をもっぱら神に求めた自然法理論 (特にプーフェンドルフ) との対決がある。ここから、義務づけの根拠を神から離して、自己拘束の可能性を切り開いたのはヴォルフにおいて確認される。その展開が十分なものかは検討の余地があるとしても、カントはこの上に自らの義務論的な倫理学を築き上げたことは間違いない。

 

🌳バウムガルテン

バウムガルテンにとって、「実践哲学とは信仰なしに認識されうる人間の義務づけ (obligationes) についての学」であった。(『第一実践哲学の原理』§1)

 

☆資料

形而上学』§723(私訳)

自由とより密接に結びついているものは、広い意味での道徳である (§787参照)。それゆえ、自由な規定は道徳的規定であり、自由な行為における習性 (habitus, fertigkeit) は道徳的な習性であり、道徳的規定の法則は道徳的な法則である。 道徳哲学と道徳神学はこれらを教え、それらから生じる状態は道徳的状態である。それゆえ、道徳的に可能なものとは、(1) 広い意味では、自由によってのみ、あるいはそのような自由な実体においてのみ行うことができるものであり、(2) 狭い意味では、すなわち道徳的に許されるという意味では、道徳的法則に従って規定された自由によってのみ行うことができるものである。 道徳的に不可能なものとは、(1) 広い意味では、自由な実体における自由を理由にして行うことができないものであり、(2) 狭い意味、あるいは道徳的に許されないという意味では、道徳法則に従って規定された自由によって不可能なものである。したがって、道徳的必然性とは、その反対が道徳的に不可能なものである。(1) 広い意味では、その反対が自由によってのみ、あるいはそれが自由である限りの実体においてのみ不可能なものであり、(2) 狭い意味では、その反対が許されないものである。 道徳的必然性とは義務づけ (obligatio, verpflitung) である。 意に反する行為に対する義務づけは、道徳的強制 (coactio, zwang) であろう。

 

義務づけによって必然になった行為が義務であり、そのような道徳的な必然性は自由の根拠である。その点で、自由と必然性は矛盾するものではない。例えば上で全文を訳しておいた『形而上学』§723や、実践哲学の著作である『第一実践哲学の原理』§11あたりには、道徳的な必然性は自由の反対ではないことが明記される。バウムガルテンによれば、自由な規定が道徳的に必然化するには、動因によって駆り立てられる選好の大きさによって決まる。義務づけには、動因の強さによって強弱があるため、原理上義務づけは衝突しない。衝突しているように見えても、より強い義務づけが真の義務づけである (§23)。バウムガルテンの見解では、人間は善を行わないことよりも、善を行うことにより強力な動因が連結されているため (cf. M 665)、「善をなせ」という義務づけが生じる。

 

メンデルスゾーン

メンデルスゾーンは、「何をすべきか、何をすべきでないかを決定するための一般的な基本規則」としての「自然の法則」を道徳の原理とする。メンデルスゾーンによれば、自然の第一法則は、「できる限りの完全性を求めること」である。ヴォルフと基本図式は同じである。ここから、自分自身に対する義務、隣人に対する義務、そして神に対する義務を導き出すことができるという。また、義務づけとは、行為すること、つまり何かをしたり、しないでおくという道徳的必然性を意味し、それは物理的な強制とは区別される。自由な存在者は物理的に強制されず、強い動因によって動かされる。それは完全性を求めるということであるが、これは人間の自然本姓に適っているため、義務づけは自然なものであるともいわれる。ここからも、やはり義務づけないし道徳的必然性と自由は対立しないという考えは、当時の道徳論に定着していたことがわかる。

 

☆まとめ

自由が道徳法則による義務づけの必然性と関連するという義務論的発想は、カントの時代のドイツの倫理学的言説においてはむしろ定番であったといってよい。ではカントの独自性はどこにあるのか。長い道のりになりそうなので、それはまた別の機会に探究することにしたい。