哲学なんて知らないはやくん

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メンデルスゾーン『形而上学における明証性についての論文』抄訳(第5章「道徳論の基礎における明証性」)

道徳論の基礎における明証性

 

人間が試みるすべての正しい行為において、人間は暗黙のうちに次のような理性による推論をしている。

 

Aという特性が見出されうる場面は、Bという義務を行うことを要求する。

 

目の前に生じている事例はAという特性をもっている。それゆえ…等々。この理性による推論の大前提は、私たちがある時に採用した一つの格率であり、一つの一般的な人生規則である。そしてそれは、現在の事例を機に自然と思い起こすに違いない。小前提は現在の状態の正確な観察に基づいており、それが大前提の主題や必要とされるAという特性と完全に一致するという確信に基づく。

 ここでは数学と同様に、理論的なものと実践的なものが分離されているため、それによって道徳論は教えることと遂行することの二部門に分かれている。前者(教育部門)は、個別的に生じる事例における大前提としての役割を果たす一般的な人生規則を提示し、後者(実践部門)は、生じた事例における一般的な原則の適用と遂行を教える。それゆえ私は、この学問の明証性がどこまで及んでいるのか、幾何学の基礎における明証性とどのように関係しているのかを探究しなければならない。

 道徳論の一般的な原則を幾何学的な厳密さと説得力をもって証明できるということを証明することは難しくない。マルクス・アウレリウスが言うには、「私たち人間に認識能力が共通しているとすれば、私たちは理性的な被造物として、理性をも共通している。もしそうであれば、私たちは、何をすべきか、あるいは何をすべきでないかを私たちに指示する理性による根拠も共通しており、その結果、私たちは法則も共通している。」私の考えでは、この結論ほど明確で説得力のあるものはないだろう。異なる事物が似たような規定を持っているならば、それらはその規定から生じる結果も共通していなければならない。人間は共通の判断力をもっているが、それは異なる主題の中である程度区別されているだけであり、したがって、善悪についての概念や判断はすべて同じ根拠に基づいており、その洞察力の程度によってのみ互いに異なる。しかし、もしそうであるならば、何をすべきか、何をすべきでないかを決めるための一般的な根本規則もあり、この一般的な根本規則が自然の法則である。

 同じ見解はまた、私たちがこの一般的な自然法則の知識に到達することができる歩きやすい道を示している。人間が何をしていて何をしていないのか、人間の様々な傾向性や情念[Leidenschaft]、喜ばしいこと[Ergötzung]や不安にさせること[Beunruhigung]などは観察されるだけだが、それらすべてが最終的にはその中で一致するもの、すなわちこの大きな多様性の中にどこにでも見いだされうる規定というものは抽象される。この我々すべてが切望するところの最高善 (summum bonum, quo tendimus omnes) は、人間のすべての欲望や願望が最終的に目指すところであり、これは決して見失ってはならない指針であり、人間の行為の迷宮の中を確実に導いてくれる手引きである。

 人間の何千もの欲望や願望、情念や傾向性に共通しているものは何か。それは、人間はすべて自分や他の被造物の内的な状態や外的な状態の維持や改善を目指しているということである。最も悪質な傾向性や最も恥ずべき欲望さえも、それ以外に最終目的はない。ただ、それらはすべての他の意図よりも利己的な自己を優先したり、内的な状態を犠牲にして外的な状態を改善しようとすることによって、真の利益の代わりに見せかけの物を置くか、ふさわしい割合を見誤るだけだ。野心的で利欲を求める人は、他のあらゆる意図よりも、自分の外的な状態や名誉、能力の改善を優先しているため、他のいかなる意図においても悪徳ではなく、しばしばこの恥ずべき欲望のために心身や友人や母国を犠牲にする。それは快楽に溺れた人と同じ性質を持っている。そんな人は、自分の魂の完全性よりも、あるいは自分の外的な状態の利益よりも、感性的な喜びを不当に優先させる。それゆえ、人間のあらゆる悪徳な欲望も有徳な欲望も、最終的には、内的あるいは外的な状態の、自分あるいは隣人の、真なる完全性かあるいは見せかけの完全性(維持と改善)だけを目指している。このことから、一般的で実践的な格率が、すなわち自然の第一法則が生じる。それはこうである。「あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態をふさわしい割合で、できる限り完全なものにせよ。」この一般的な源泉がみつかったなら、そこから、自分自身に対する義務、隣人に対する義務、そして神に対する義務を導き出すことができる。というのも、神に対する義務を観察することが、私たちの魂をより完全なものにする最も近い、最も確実な、いや、何と言っていいか、唯一の方法であることは、非常に簡単に証明することができる。ここに、この一般的な自然法則から幾何学的な厳密さをもって論証されうるすべての実践的な哲学の特別な部門への道が見られる。

 人は、自発的な存在のたんなる解明から、同じ自然法則をアプリオリに証明することができる。自由を与えられた存在者は、様々な対象や対象の表象の中から自分の気に入ったものを選ぶことができる。この気に入ること [Wohlgefallen] の根拠は、それが好む対象において知覚する、あるいは知覚すると思っている完全性、美しさ、秩序である。完全性の下では、私はまた、利益と対象が私たちに約束してくれる感性的な喜びも理解している。なぜなら、両方とも私たちの内的な状態あるいは外的な状態の完全性に属するからである。完全性、美しさ、秩序の考察は私たちに快を与えるが、不完全性、醜さ、無秩序は私たちに不快感を与える。したがって、秩序、美しさ、完全性は動因[Bewegungsgrund]を与えることができ、それによって自由な存在者の選択が規定される。これらの動因は、自由な存在者に物理的な強制を課すものではない。なぜなら、自由な存在者は気に入ることに従って、内なる有効性から選択するからである。しかし、それらには道徳的な必然性が伴っており、それによって、自由な精神にとって、不完全性や醜さ、無秩序さのうちに気に入ることを見出すのは不可能になる。

 義務づけとは、行為すること、つまり何かをしたり、しないでおくという道徳的な必然性以外の何ものでもない。というのも、自由な存在者には物理的な強制力が成り立たないので、何かを意欲したり意欲しなかったりすることは、動因によってそうするきっかけとなる場合以外に、他の方法では義務づけられえない。しかし、動因は道徳的な必然性を引き起こす。それゆえ、すべての義務づけは、何かをしたり、何かをしないでおくという道徳的な必然性である。——ところで、すべての自由な存在者は、十分に説得力のある動因に従った選択に規定されるよう道徳的に強制されるので、彼はまた、完全性、美しさ、秩序の規則に従った選択へ方向づけることへ、あるいは同じことだが、自由な存在者は、彼にとって可能な限りの完全性、美しさ、秩序を世界にもたらすことに義務づけられている。このことから、自然の義務づけが直接的に帰結する。あるいは、先に述べた自然法則は、他の理由から次のようになる。あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態を、適切な割合で、できる限り完全にせよ。

 他方で、この一般的な自然法則が神の意図と一致していること、そして、私が被造物、私自身、あるいは他のより完全なものを作るたびに、神の模倣者となり、創造の大いなる最終目的に従って生きていることは、反論の余地のない理由から示されうる。最も賢明な意図がなければ行為できない神が世界を生み出したと想定されるやいなや、引き合いに出された自然法則は神の意志でなければならないということよりも厳密に証明されうる文はユークリッドの中にもない。最も賢明で善良な存在者は、被造物の完全性以外の意図を持つことができるのだろうか。それゆえ、私たちはこの意図に従って自分の自由な行為を適合させるべきだということ以外に、何かを意欲することができるだろうか。——少なくとも、接線が一点以上の点で円に触れることと同じくらい不可能である。

 しかし、私は創造主の意志に従って自分自身を快適にするよう義務づけられているのだろうか。そうである、私たちの哲学者は答える。神は、あらゆるものの完全なる所有者であり、ゆえに神は無から生み出す。私たちは神の所有物であり、神のしもべである。それゆえ、私たちに法則を課し、自身の気に入ることを指定し、違反者を反逆者のように処罰する、抗しがたい(圧倒的な)権利が神には与えられる。私たちは従わなければならない、完全に降伏しなければならない、神の前に私たちの意志を完全に破壊しなければならない。——この答えは謙虚なものだが、問いにはふさわしくない。権力から直接的に権利を推論することはありえない。神は、肉体的知性において、被造物を手段として自分が意欲することをなすことができる。ここから、神が道徳的にもそれを行うことができるということ、それを行うことが許されているということ、それを行う権利があるということは、どのようにして導かれるのか。私はまだこれらの概念がどこで連関しているのか理解していない。創造物は神の所有物?——まあそうだ!ただ、ここから結論することは、たとえ他の人が権力を持っていたとしても、自分の創造物をどのように利用するかを自分に指令する権利はないということ以上ではない。しかし、彼(神)自身が権利を持っているという数学的な証明はどこにあるか。自分の所有物を用いて自分が意欲することをするための道徳的な権威があるか。誰も否定できないことは、それゆえにまだ許されていない。檻の中で鳴く鳥を絞め殺すことは誰も正当には阻止できないが、だからといって許されるのだろうか。

 ここでまだされるべき小さな歩みは、次のような推理から構成されている。すなわち次のことが証明される。神が最善のもの以外を意欲することはできないこと、そして、権利とは完全性の規則に適ったものを行うための道徳的能力以外の何ものでもないこと、である。さて、結論はつねに幾何学的な証明のように的確に連関している。私たちは神の被造物であるがゆえに、神の所有物でもある。もし私たちが神の所有物であるならば、神は私たちの力を利用し、神がよいと思うものを利用する権利を持っている。なぜなら、神がよいと思うものが最善のものだからである。それゆえ、神は私たちのために法則を指定する権利、すなわち道徳的能力を持っている。というのも、神の所有物である私たちに神が指定する法則は完全性の規則に適っているからである。さらに、この罰自体が完全性等に寄与する場合は、これらの法則の違反者を罰する権利を持っている。

 神の所有物である私たちには、所有者の意志に従うことと、その法則に従って生きることの二重の道徳的必然性(義務づけ)がある。第一に、それらはそれ自体として最善だからであり、それ以外のことを神が指定することは不可能だからである。この概念からどのように義務づけが発生するかは、すでに上記のとおりである。第二に、神が神の法則の違反と遵守に連結して与える罰と報酬は、私たちに従順をより良いものと考える動因を与え、それゆえに神の支配に服従する動因を与える。動因は、それによって自発的な存在者が動かされうる唯一の動機であり、最も賢明な立法者自身は、自発的な存在者がその法則を取り入れることに傾く動因と法則を結びつけること以外に、自分の法則を導入しそれを拘束力のあるものにする手段を持たない。それゆえ、自然法則や神の法則を取り入れるために私たちを結びつけるものは、その内的な卓越性と、最高位の存在者が私たちの最善なものへとそれらと結びつけることがよいと考えた恣意的な罰と報酬以外には何もない。

 これに基づいて、実践的な哲学の体系を特に困難なく確立することができる。私たちの行為は、それが完全性の規則に合致したものであるか、どちらがより完全か、神の意図に合致したものであるか、そうでないかという点で善か悪かである。それゆえ私たちは、あれをなし、これをなさないということに義務づけられる。——徳は善い行為への習性であり、悪徳は悪い行為への習性である。——徳を務め、悪徳を避けよ!——よい行為への義務づけは、私たちがそれなしで実行することができない手段に対する権利を与えてくれる。もし他のあらゆる人間が同じ手段に対する同等の権利を持っていたとしたら、カンバーランドによって明確に切り離されるように、自然の法則は矛盾したものになるだろう。それゆえ、必然的に特権が存在し、この特権は理性的な根拠から決定されうる。これらの理性的な根拠は、個々の事例の量に適用されうる限り、自然の権利の法則を構成し、これらの法則の総体は自然法と呼ばれている。一般的な自然法則から、私たちはこれらの特権を認識し、それにふさわしい人に与えられなければならないよう義務づけられていることが証明されうる。それゆえ、私たちは自然の正義に義務づけられる、すなわち、すべての人に対して、その人にふさわしい権利を与えなければならない。上で述べたように、正義が賢く適応された善性によって説明されようとするならば、それに対する義務づけは他の根拠によっても示されうる。というのも、私たちは自分の内的な状態をより完全なものにし、賢明で善良なものにするために義務づけられているからである。

 ここでもまた、私たちの概念の驚くべき実りある実例が見られる。私たちの義務、権利、責務[Obliegenheit]の全体系は、自発的な存在者の唯一の説明から発展することができ、私たちのすべての傾向性、欲望、情念は、この一般的な源泉から流れており、私たちのすることなすことは、幾何学的な論証がその前提と連関しているように、それがこの基本的な概念に連関しているときには、正当である。しかし,ひとはまた,真理のすぐれた合致を賞賛している。私たちには、基礎をなしている三つの異なる格率をもっている。1) そこですべての人の傾向性が一致しているものを検討する。2)自分を自発的な存在者として認識する。3) 自分を神の所有物として認識し、3つの基本的な格率はすべて次の共通の結論につながる。自分と他者を完全にせよ。そして、無限に多くの基本的な定義、あるいは正しい経験を予め述べておくことができ、ときには短くときには長い道のりの中で私たちを同じ結果へ導いてくれる。この素晴らしい調和によって、ひとは真理を認識する!自然のように、真理は無限に多くの展望、無限に多くの視点を示すが、それらはすべて、そのもとで全体が描写されている大きな絵画の中で一致している。すべてを見る目には、自然のすべてが一つの絵画であり、すべての可能な認識の総体であり、一つの真理である。

 それゆえ、道徳哲学の概念は、理論的な体系を形成するのに十分な実り豊かさと首尾一貫性があり、また、この理論の中で、私たちは、唯一の普遍的な自然法則から、私たちのすべての特別な義務、権利、責務を展開することができるのである。確実性は、形而上学の基礎で約束されているものと同じものであろう。哲学一般が事物一般の性質の学問であるとすれば、特に道徳哲学は、自発的な存在者が自由意志を持っている限りでの、自発的な存在者の性質の学問以外の何ものでもない。しかし、私たちが見てきたように、自由は実り豊かな概念であり、その発展は私たちをすべての義務や責務の認識に導くことができる。それゆえ、理論的な道徳哲学の教説は、確かな根拠に基づいて議論の余地なく示すことができ、その中で支配的な確実性は、形而上学における事物一般の性質を発展させることができるのと同じ確実性である。——それに対して、この学問における証明は、形而上学の基礎や自然の神々しさに比べて、はるかに納得のいかない、理解しにくいものになるだろう。前の節で示されたように、すべての哲学的学問において完全な確信が困難と結びつかざるを得ないということ以外に、道徳論に関して、この学問が形而上学の基礎の上に築かれているということが加わる。人は、神、世界、そして人間の魂についての教説をよく理解しなければならず、道徳哲学において唯一の光を約束することができる前に、そのことを確信しなければならない。もし私が、神、隣人、私自身について、そしてそのうちで私が被造物、副被造物としてかのものとともにある道徳的な結びつきについて、真の正しい概念を持たなければ、私が神、自分自身、隣人に対する負い目をどのようにして理解することができるだろうか。それゆえ、実践的な哲学は形而上学の真理を基礎に置いているので、その明証性を得るのはより難しいに違いないということは容易に理解できる。

 それはあらゆる他の実践的な学問と同様に、遂行される道徳論と関係している。すべての実践的な理性推論は、私たちには経験によって知られるほかない現今の場合の性質を小前提に基礎として置く。それゆえ、結論の真理は、大前提が数学的な正しさを持っているとしても、それにもかかわらず、それによって小前提が疑う余地のないものとされるところの経験の確実性に依存している。そして、経験が小前提の正しさを完全に確信させるほどの真理の根拠を十分に含んでいなければ、結論は弱い部分に続くことになり、ほとんど真ではありえない。

 実践的な道徳論には同じ事情がある。それは常に望ましい程度の確実性を持つことはできない経験が基礎に置かれなければならない。しかし、この機会に際して、次のような考察が無視されてはならない。第一の源泉から直接流れてくる普遍的な自然法則がある。これは私たちの外的な行為よりも心情の傾向性に関係している。それは、私たちが愛するもの、私たちがそれから背を向けるべきもの、そして自然法則に委ねるもの、私たちのすることなすことを適合させることを指令する。この性質について、普遍的な自然の法則は次のようなものである。創造主を崇拝せよ!徳を愛し、悪徳を避けよ!情念を支配し、欲望を理性に服従させよ!これらの自然の指令はすべて、最高度の確信を伴う遂行の推論に変えることができる。私は理性的な被造物だから、創造主を崇拝し、徳を愛し、悪徳を嫌悪しなければならない。私の欲望は幸福の道から私を脇道にそらすかもしれない。私の情念は目標を越えることができるので、私は情念を理性の支配に服従させなければならない。これらのあらゆる実践的な理性推論は、幾何学的な厳密さで証明することができる。その理性推論の大前提には、それについていかなる例外も生じないような普遍性がある。推論の遂行は、より高次の義務にとって邪魔になることはない。なぜなら、その遂行は本来、それに基づいて私たちのあらゆる義務が導きだされるところの源泉だからである。私はどんな時代でも、そしてどんな可能的な事態においても、自分の創造主を崇拝し、徳を愛することなどに義務づけられており、この世のどんな出来事もこの責務から解放されることはない。——この理性推論の小前提は内的な感官の経験に基づくものであり、それは確信を伴うものである。私は理性的な被造物である。私は幸福を切望する。私の欲望と情念は、自己自身に委ねてしまうと、私を不幸にする。これらすべての命題は、確かに最終的には経験に基づくものである。しかし、疑う余地のない経験については、最も的確な理性推論と同じくらい間違いようのないものである。

 しかし、もし人が、特別な場合に何をすべきか、何をすべきではないかを私たちに指令する派生的な自然法則に降りてくるならば、この間違いようのなさは、遂行において徐々に取り去られていき、あらゆる蓋然性の段階を経て、疑わしいという点にまで降りていく。というのも、まず第一に、現今の場合の性質は、真理の根拠を十分に含むことはめったにない経験にこの点で依存している。ある行為の道徳的な善さ、私たちのすることなすことの価値や無価値は、無数の付随する事態や偶然の出来事だけでなく、確実性をもって予見されうるとは考えられないこれらの行為の結果や作用にも依存している。ほんのわずかな思いがけない偶然が、私たちのすべての希望を挫折させ、もっとも有害な作用についての最善の意図を断念させる。私たちが気づかなかった事態と、あらゆる事態の立場を正確に考慮できることは、どれほど稀なことなのだろう!ということは、現今の場合の性質を全く異なる形にすることができる。現実の出来事の原因、結果、状況、偶然性を最も完全な確実性をもって洞察することができるのは、すべてを見通す目だけである。死すべき存在[=人間]はこの場合において、ばかげた蓋然性の誘導に身を委ねるしかない。さらに、目の前に生じる場合において遂行へともたらされるべき大前提あるいは一般的な人生規則にとって、高次の義務はときおり邪魔になることがあり、その場合にはその義務の義務づけがなくなる。私たちは、善いことをするだけではなく、最善のことをすることに義務づけられているのであり、より高次の自然法則にとって邪魔になる派生的な自然法則は、それに席を譲らなければならない。このような高次の義務と低次の義務の衝突は、私たちの実践的推論の大前提を形成する人生規則が特別であるほど気にかかるものであり、また衝突は、もっとも鋭い注意から逃れるような事態によって引き起こされうる。最も賞賛に値する行為、最も功績のある仕事は、まさにその時に私たちがその義務づけがより重要であるところの高次の義務を逃すならば、罪になりうる。なぜなら、すべての外的な行為は、それが生じたことによって、同時に生じたかもしれない他のあらゆる行為を除外するからであり、私たちに何かをするように命令するすべての法則は、まさにその時に、それによって逃れられる私たちの義務が私たちにとってより重要なものを要求しないという条件のもとで理解されなければならないからである。機会、時間、事態からして、何が自分がなしうる最善の行為なのかを確実に洞察していると自慢できる死すべき存在がいるだろうか?そのような場合、確実性を待っているということは、永遠に未定のままでそこにあるということであり、決して遂行へ移ろうとしないということではない。実際、多くの場合、機会は非常に緊急であり、その時点は非常に決定的であるため、蓋然性の根拠を明確な概念に従って十分に吟味する時間さえ与えられていない。良心と幸せな真理感覚(Bonsens)は、私がこの言葉を許可されている場合には、ほとんどの事柄において、理性の場所の代わりにならなければならない。そこでは、私たちがそれを捉える前に、機会が私たちにむき出しの首を向けている。良心とは善と悪を区別する習性であり、真理感覚とは、不明確な推論によって真と偽を正しく区別する習性である。それらは、美醜の領域において趣味があるところのそれらの区域にある。遅々とした批判が徐々にしか際立たせないことを、熟達した趣味は即座に感覚する。理性では骨の折れる熟考なしには明確な推論において解決できないことを、まさに良心がすばやく決断するように、真理感覚は判定する。

 この内的な感情、善と悪、真と偽の感覚は、不変の規則に従って、すなわち正しい原則に従って、しかし、一定の訓練を通して私たちの気質に吸収され、私たちにおいていわば体液と血に変換された原則に従って作用する。それが不明確な認識に基づいているとしても、またしばしばたんなる蓋然性に基づいているとしても、欲求能力に対するそれらの作用力は、それでも習性がなければ確信はするが動かない、教えてはいるが心を動かさない、もっとも明確な理性推論の作用力よりもはるかに激しく燃えるように生き生きとしている。——このことをはっきりさせるために、前節の最後に述べた実践的な確信と理論的な確信の違いについて、より詳しく考察したい。

 私たちは、その命題の真理の根拠がわかるとすぐに、その命題に同意を与える。これらの真理の根拠が完全な論証に近づけば近づくほど、また、それをより明確に認識すればするほど、私たちの同意はより信頼できるものとなる。最後に、ある命題の証明を、私たちがその真理をもはや疑うことができなくなるほど明確に洞察したとき、私たちは完全に確信する。——これが理論的な同意であり、知性の確信である。

 心、あるいは私たちの欲求能力の総体は、それとは全く区別される種類の同意を認識しており、実践的な同意と呼ばれるに相応しい。ある真理を確信している人は、まさにその時点でそれを疑うことはできない。しかし、理論的には義務づけを確信していても、それにもかかわらずそれに反して行為することができる。カルテスは全く根拠がないわけではなく、次のように主張しているようである。raro peccatur defectu theoreticae cognitionis officii sui, sed defectu practicae, hoc est, defectu firmi habitus assentiendi officio suo.

 あらゆる論証的真理が私たちの欲求能力に同じ強固さを引き起こすわけではない。多くのものは、心を動かさずに知性を確信させ、力、生命、そして有効性はないが、明確な認識を与える。それに対して他の真理は、より少ない確実性でより多くの心を動かし、欲求能力において移行する有効で生き生きした認識を生み出し、活動的な決意を駆り立てる。その原因はここではよく知られている。私たち人間は理性以外にも、私たちのすることなすことを規定する中できわめて重要である感官や想像力、傾向性や情念をもっている。私たちの理性の判断は、私たちの下層の魂の力の判断と必ずしも一致しているわけではなく、それらが互いに争うときには、意志において必然的にどちらか一方の有効性を弱めなければならない。真理の同意が実践的になるのは、理性を基礎においているときであり、下層の魂の力が打ち勝つか、あるいはそれらの利益を完全に受け取るかのいずれかのときだけである。後者の場合において、理解しやすいように、理性と想像力、精神と心情が調和して私たちを行為へと駆り立てるためには、心ははるかに決意しなければならない。その場合に限って、すなわち理性根拠がすべての想像力の反対表象を抑制するとき、認識は命を吹き込まれ、行為し始める。

 倫理学は、それによって下層の魂の力と理性との一致を維持するための手段を私たちに提供する。これらの手段は、主に以下の4つの主要部分に還元することができる。1) 動因を積み上げること。多くの説得力のある根拠は、唯一の確信ある動因よりも、より多くの重みをもつことができ、より簡単に心情を動かすことができる。そしてそれらがこれと結合するとき、それらは最も快い満足の源泉である知性と心情の幸福な一致を生み出す。数学者はある一つの証明で満足している。なぜなら彼は知性をもって証明するだけで、たんなる思弁的な同意を強要するしかないからだ。一方、雄弁な人は、根拠の上に根拠を重ね、四方八方から心に突撃し、すべての蓋然的な根拠を自分に有利に利用しようとする。なぜなら、彼は心情を動かし、欲求能力を受け取ろうとしており、知性だけでなく、感官や想像力にも同時に作用しなければならないからである。2) 訓練。私たちはある種の根拠を考え、そして私たちは同じ動因から行為を起こせば起こすほど、行為が心に残す印象はより生き生きとして、下層の魂の力に影響を与えやすくなる。この訓練を行為がたやすくなるまで続けると、私たちは何かをすることの習性が身についたと言うことになる。習慣と訓練は私たちの心情の中で独断的に統治しており、その助けによって、私たちは最も手に負えない傾向性に打ち克ち、最も頑固な情念を理性のくびきのもとに置くことができ、あるいはむしろ、その傾向性と情念の助けによって、私たちは理性の指令とともに一つの同じ目的を持つものを生み出すことができる。3) 快適な感覚。理性根拠が美しさと優美さに支えられているとき、想像力は同意するように刺激されやすい。完全性は理性の動機であり、快適な感覚は想像力の誘惑物である。この点に、道徳論における美術と学問の有益さは基づいている。理性根拠は、徳の素晴らしさについて知性を確信させ、美術は想像力の同意を強要する。前者はそれを尊敬に値するものとし、後者はそれを快適にする。前者は幸福への道を示し、後者はそれに花をふりかける。もし彼が自分の使命に忠実であり続け、徳が現実にそれから約束されうる利益を得るならば、世界の賢者の目には、ヴィルトゥオーゾ[=卓越した技量をもつ人]はどれほど偉大なのだろうか。4) 最後に、想像力を理性に一致させるという第四の主要な手段は、観察的な認識であり、すなわち、普遍的な理性根拠が実例によっていわば感性的な概念に変換される場合である。すべての理論において、範例は説明の役割を果たすだけで、私たちが普遍的な定理を明確に理解するとすぐに余計になるが、遂行において実例はつねに格率よりも有益である。感官をかきまぜ、想像力を揺さぶるので、実例は心の同意において強い影響力をもつ。——この点に、歴史の有益さと、道徳論におけるエソップ寓話が基づいている。

 今や、実践的な道徳論の原則が私たちのすることなすことに相応しい作用をもたらし、徳への永続的で不変の進んだ意欲 [Bereitwilligkeit] を遂行すべきであるときに、必要なものを見ている。それらは、快適な感覚の暴力によって活気づけられた実例によって支えられ、訓練によって一定の有効性を維持し、最終的に習性に変換されなければならない。このようにして、道徳論における私たちの最も高貴な目的であるところの心情の確信が生まれる。精神はつねに自己の前に蓋然的な証明だけを見ているかもしれない。そう、精神はこの蓋然性自体を明確に解釈していないかもしれない。ただ真理感覚で次のことを理解しているかもしれない。これはつねに認識の生命を妨げるものではない、と。それにもかかわらず、感官は生き生きと動かされ、想像力は燃え上がり、心は習慣、実例、優美などによって、最も確固として不変の同意に強制されうる。そこからは、快い安心と満足が生じる。精神の冷たい確信からよりもずっと。

 これらの考察は、論証的な道徳論の有益さ懐疑のうちに引き出すことを意図したものでは決してない。むしろ、神とその属性についての教説に関して、前章の最後に思い起こされたことがここにも妥当する。どんな種類の認識にも価値がある。疑念が生じ、敵対者が否定され、徳の理論的な敵が恥をかかされるような場合には、厳密な証明を頼りとする以外に手段は残っていない。そう、多くの幸運な天才は、その神的な調和に魅了されるために、道徳的真理の体系をそのあらゆるわずかな結びつきとともに、関連の中で明確に生き生きと直観するのに十分な精神の高揚と強さを持っている。そのような状態では、最もそっけない認識は精神と生命に到達し、前述の手段、感官、想像力の助けを借りずに理性の高さにまで跳ね上がり、魂のすべての能力は徳を愛することへ活性化される。このような崇高な感激 [Begeisterung] を持つことができる者は誰でも、もっとも厳格な理性の指導の下で、自分の傾向性の主人となり、情念の荒々しい嵐を知恵の助言に従って統治し、心情と精神の間には、恐怖も希望も苦痛も歓喜も邪魔することのできない、最も優雅な融和をもたらすことができる。——このような神的な熱狂 [Enthusiasmus] をもつことができる死すべき存在はほとんどいない!思弁的な根拠に自分の心情が動かされず、自分の想像力が熱中させられないことに自分の中で気づいた人は、あらゆる困難に満ちた扱いにくいことを避け、上述した説得の手段によって自分の心情を調和のとれた状態に誘い込もうとする。そしてそもそも、これらの考察から、数学的な確実性が必ずしも実践的な転換に要求されないこと、そして、たんなる蓋然性が思弁的な理性推論よりも、しばしば心に激しく生き生きとした作用をもたらすことが明らかになっている。蓋然的な認識は、心情を調和のとれた状態にさせる手段によって支えられている場合が多い。

 以上が、形而上学の様々な諸部分における明証性についての私の考えである。当初は特別な章で私以外の考え方を扱うつもりだった。世の賢者の中には、数学の基礎に見出された優れた明証性の根拠を、数学的方法だけに置きたがる人もいる。それゆえ彼らは、同じような考え方を導入することで、哲学的な学問の中においても、同じような明証性を得ることを望んだのである。この希望がほとんど成功しなかったことは知られている。しかし、数学の優位性が考え方においてだけ求められるという前提それ自体がいかに根拠のないものであるかは、上記の私の考察からも明らかである。それゆえ私は、より広く論じられた上述の章で詳述し、より正確に数学的方法の有益さを規定しようとした。しかし、内的な確信へ至る方法は必ずしも要求されないし、特に数学的な考え方の応用が乱用によってほとんど愚かしいものになってしまっているので、私は必要もなしにこの論文をより拡大しようとはしない。