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Allison (2020) "Kant's Conception of Freedom: A Developmental and Critical Analysis" 書評

アリソンの最新著作の見取り図を提供することを目的にちろっと書いてみました。カント研究をしている、あるいはしていこうと思っている人たちの一助にでもなれれば幸いです。タイトルには「書評」なんてかっこつけて書きましたが、評するなんてたいそうなことはできていません。でも紹介程度にはなっていると思います。

Henry E. Allison, Kant's Conception of Freedom: A Developmental and Critical Analysis, Cambridge University Press, 2020

 

アリソンのこの著作は、その名の通り「自由」という概念をカント哲学の発展史的に読み解く非常に大きなものとなっている。カント哲学全体を年代順に追っていき、遺稿や覚え書き (Reflexionen) まで注意を払っているのはもちろん、ヴォルフ学派や道徳感覚派、ルソーなど、カントに影響を与えた理論の解説も充実している。500ページを超える大著だが、全10章から成る本著は、いわゆる批判期以降とそれ以前が、ちょうど5章ずつに分けられていることから、バランスもよい。しかしやはり、アリソン自身が述べているように、カントの自由概念はかなり遅い時期まで発展しており、特に決定的な転回とされている『純粋理性批判』や『道徳形而上学の基礎づけ』が発表される1785-1788年が内容的にもかなり重厚で、難解なものとなっている。アリソンの記述では、前批判の自由概念は、こう言ってよければ、批判期以降に到達する自律の発見までの揺れ動く準備段階という位置づけのようにも見える。なお、アリソンはカントの自由についての著作として、1990年にKant's Theory of Freedom(邦訳は『カントの自由論』法政大学出版局,2017年)を発表しているが、およそ30年の時を経て発表されたKant's Conception of Freedomは、そのたんなる増補改訂版ではない。発展史的なアプローチのもと、内在的な変化、外在的な影響を可能な限りすべて視野に収め、徹底した体系的な方法がとられ、アリソンの真骨頂とでもいえるものである(しかしアリソン自身が言っているように、政治哲学的な文脈は扱われない)。

 アリソンの試みとして一貫しているのは、自由概念の発展を「形而上学的」な道のりと「道徳理論的」な道のりという大きな二つの路線から考察していることである。しかし当然、この二つの路線をしっかり歩こうとしてみれば、それらが密接な関係にあり、時には決定的な影響を与えあっていることがわかる。アリソンはそれらの関係に厳密な注意を払い議論を展開するため、本著はかなり複雑で長いものとなっているようだ。しかしアリソンが序論で言うように、「カントの自由意志に関する思想の発展を分析するには、それぞれの路線に沿ったカントの見解の発展と、それらの間の関係を考慮することなしには不可能である。」ここまで包括的な試みは、おそらくいまだかつてなかっただろう。

 自由概念が形而上学と道徳理論の二つで大きな問題となるのは、特に『純粋理性批判』で取り組まれた第三アンチノミー以来、「絶対的な自発性」としての「超越論的自由」と「選択意志 [Willkür] が感性の衝動による必然性から独立していること」としての「実践的自由」の二つの自由観(当然、これらは独立しているわけではない)から明らかなことである。超越論的自由が前提されなければ実践的自由は成立しないということがカントの見解であったことはよく知られているが、その関係は必ずしも明確ではない。そこでアリソンがとる解釈方法は、形而上学的な読み方ではなく、概念的な読み方をする、というものだ。私には、著作全体をとして、アリソンは「概念的に」ということで多くの解釈上の問題を解決しようとしているように見える。その是非については、まだ私の判断の及ぶところではないが、少なくともアリソンによればその方法によって、超越論的自由の客体としての実在性を擁護するのではなく、実践的自由の思考可能性を概念的に拓くための規制的な能力が超越論的自由に認められる。この見解は、カントの議論からしてももっともなものだと思う。

 また、実践的自由については、カントによるそれの定義にも登場しているが、選択意志が感性的な衝動から独立することが可能であるかが問題となる。何度かカントも言うことだが、感性に触発されはするが、必然化されないということが重要である(必然化されてしまう選択意志は動物的とも形容される)。アリソンも述べているが、ここで想定されているのは「心理学的決定論者 [psychological determinist]」に対する異論である。これはカントの道徳理論においてもっとも重要な点の一つである。その理由は、「すべきこと(Sollen=当為)」が可能となるための「概念的な」余地を作るためであり、それは「理性の原因性 [causality of reason]」とも呼ばれるものである。ここで重要なのは、「べき」を指定する規範的な力の源泉は理性の実践的能力であり、それは感性的欲求と対立してもなお働くということである。しかしこれは行為者の欲求的側面がまったく理性的な選択に関与しないことは意味しない。これはアリソンが1990年以来、カントの自由論の核心にあると主張している「取り込みテーゼ [incorporation thesis]」で説明されることでもある。アリソンの代名詞的解釈とも呼べる「取り込みテーゼ」はそのまま維持されているようである。

 さて、本書のような発展史的アプローチによる新たな発見としては、特に批判期以前に揺れ動いていたカントの自由観が、当時の他の理論の影響をどのように受けていたかという視点が興味深い。特に初期のカントは、ヴォルフやバウムガルテンを通じてドイツに定着していたライプニッツ的な両立論 [compatibilism] (=自然(人間本性を含む)と自由、あるいはライプニッツ的に言えば自由と恩寵の領域の間に対立があるのではなく、あらかじめ確立された調和がある、という見方)に与していたようであり、クルージウスの無差別均衡の自由 [liberty of indifference] という見解と対立していたということである。しかしカントは最終的には、自由の両立論的見解が維持できないことに気づくことになる。ライプニッツ的な見解との決定的な訣別が生じたと思われるのは、1769年に「大きな光」を得たと述べている、この時期である。この光は、感性と悟性の認識能力として対等に区別するという着想であったといわれている。

 この光は上記のように認識論的なものであるから、一見すると自由概念には関係ないように思えるかもしれない。ここでの決定的な意義は、空間と時間を感性の形式と定めたことにあり、それによって1770年の『就任論文』以来、可感界(感性的世界)と可想界(叡智的世界)の区別がなされたことが重要である。この形而上学的区分が、のちのカントの「超越論的観念論」へとつながったことは言うまでもない。カントがアンチノミーの解決に超越論的観念論を鍵として持ち出すのだから、この見解が自由概念の発展にもたらす影響は小さいものではない。しかしこの段階では、叡智的世界の理論的認識の可能性を認めていることから、「前批判期」的な見解と呼ぶことは正当なことである。さらに、ヴォルフ学派の合理的心理学によれば、人間の意志はこの叡智的な領域に属すると考えられており、魂の不死性を証明することを目的としていたことから、人間の自由意志の問題が直接的に登場してくる。カントは、自発性[spontaneity]という概念をめぐって、ヴォルフ学派の見解から離れていくことになる。アリソンによれば、これは自由意志の問題が、自発性の自由(ヴォルフ学派)と無差別均衡の自由(クルージウス)の間に設定されたという伝統的な対比を反映したものである。カントはヴォルフ学派に与して、十分な理由という不可侵の原理に反するという理由で後者を否定したが、自発性を絶対的または無条件の観念と、相対的または条件付きの観念の2つのタイプに区別する必要性を主張して、ヴォルフ学派とも訣別した。この自発性についての発見が、その後もカント哲学の中に維持される重大な転機であった。

 さらに、カントの自由についての考え方には、もう二つ重要な変化がある。一つは認識論的なもので、叡智的自由の理論的認識の可能性を否定し、帰責可能性のために実践的自由が維持されるというものである。2つ目の大きな変化は、1785年の『基礎づけ』で初めて明確に定式化された、自律の発見である。この概念によれば、理性的存在者の意志は、先行する出来事によって因果的に決定されないだけでなく、行為者自身の実践理性に由来する道徳法則によって自己立法的に決定される、というものである。

 

章立ては以下のようになっている。

  1. Kant’s Writings of the 1750s and the Place in Them of the Free Will Issue

本章では、基本的に形而上学的な話がされる。特に、クルージウスに反対してヴォルフ学派の両立論に与していたカントの立場が扱われる。対立する両方の立場ともにアリソンの解説がそこそこ充実している。

  1. Kant’s Theoretical Philosophy in the Early 1760s and Its Relation to His Conception of Freedom

まだ形而上学的な話が続く。依然としてヴォルフ学派に与するカントの立場が維持されている。最後には意志の自由についてのバウムガルテンの見解と、それを教科書にしていたカントの議論も紹介される。

  1. Kant’s Moral Philosophy in the Early 1760s

道徳理論路線になる。ハチソンの道徳感覚とヴォルフ・バウムガルテンの完成主義的な義務づけの道徳理論の間でカントがどのような立場をとろうとしていたかが扱われる。前批判期は道徳感情の理論に傾倒していたと評価されることが多いが、アリソンはカントが完全に傾倒していたわけではないことを指摘している。それはバウムガルテンらの義務づけの思想との間で揺れ動いていたからであり、アリソンも「カントの立場が不安定な中途半端なものであることは容易に理解できる」と述べている。

  1. Kant’s Dialogue with Rousseau Supplemented by His Dreams of a Spirit-Seer

本章では、ルソーとの出会いが印象的に描かれる。意志の自由についての自律的着想の源泉はルソー体験にあり、アリソンはこの時期にカントがヴォルフ的な両立論から離れていくことを指摘している。

  1. From the “Great Light” to the “Silent Decade”: Kant’s Thoughts on Free Will 1769–1780

本章で中心的に取り上げられるのは、時期的にも「沈黙の10年」と呼ばれるものである。批判期へ移行するこの時期のカントの考えの変遷を追うのは難解なことのようで、アリソン自身も苦労している。この章だけで独立して本書の第2部を成すとアリソン自身も述べているように、かなり長いし複雑である。感性的世界と叡智的世界の区分が形而上学的な物ではなく概念的なものであると考察されるのは本章である。アリソンは、この沈黙の10年の間に、超越論的自由の重要性に気づき、その点では『純粋理性批判』で公表される見解に達していたことを指摘する。

  1. Kant’s Account of Free Will in the Critique of Pure Reason

見てわかるように、ここからが批判期以降のカントである。まず、第三アンチノミーとその解決策としての超越論的観念論がアリソンによって説明される。複雑すぎるのでざっくりいうと、自由と自然必然性をいかにして調停するかが中心的な論点である。個人的には、『方法論』の規準章における実践的自由の議論が興味深い。そこでは、あまり注目されることが少ないように思われる『基礎づけ』以前の道徳的動機づけの問題が扱われている。

  1. From the Critique of Pure Reason to the Groundwork

本章では、『基礎づけ』での自由論、すなわち自律の発見が中心的な議論となる。その前にシュルツ書評から始まる本章だが、やはり『基礎づけ』第3章における道徳法則の演繹についての議論が目を引く。アリソンは基本的には、『基礎づけ』での道徳法則の演繹にカントは失敗しており、のちに『実践理性批判』で有名な「理性の事実」を導入することで解決しようとする、という考え方をとっているようだ。しかし、ここについては未だに研究者の間でも明確なコンセンサスはないので、注意深く検討する必要がある。

  1. The Fact of Reason and Freedom in the Critique of Practical Reason

本章では、60ページにわたって『実践理性批判』の道徳理論が論じられる。とりわけ謎めいているように見えるのは(これはアリソンが、というよりもカントがそうなのかもしれない)、やはり『基礎づけ』から『実践理性批判』への展開である。道徳法則の演繹が破棄され、「理性の事実」を設定してそちら側から自由を演繹するという姿勢がカントの道徳理論に一貫しているというが、どこまで『基礎づけ』以前の議論が流れているのかは複雑かつ長編な記述ゆえにここでまとめるのはほぼ不可能である。

  1. The Critique of the Power of Judgment and the Transition from Nature to Freedom

本章では、『判断力批判』での自然と自由の間の溝をいかにして超えていくのか、という移行の問題が重要である。ポイントとなるのは、反省的判断力と目的論的世界観が、カントの自由論の核心にいかにして関わっているのか、という点だろう。加えて、本章ではカントの道徳理論の中で、感情的側面が肯定的な仕方で働いていることを『道徳の形而上学 徳論』を中心に展開されている箇所もある。

  1. Kant’s Final Thoughts on Free Will

本章は、カントの最終的な考えとされるが、特に『単なる理性の限界内の宗教』と『道徳の形而上学』における自由意志に関するカントの考えが中心である。悪をどのように論じうるか、という古くはラインホルトによって提起された問題に対するカントの立場が取り扱われる。つまり、根本悪の議論が大半である。アリソンによれば根本悪のテーゼも「概念的な」ものとして処理される。例えば、Allen Woodはこの点におおいな不満を抱いているようである。少なくともアリソンは、最後に自由と人間本性あるいは自然との対立ないし葛藤についての考察をもって、カントの自由概念の後期著作における到達点を論じる。