哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

誕生日を祝うことの存在論的意味

[Initium] ergo ut esset, creatus est homo, ante quem nemo fuit.

始まりが存在せんがために人間は創られたのであり、それ以前には誰も存在しなかった。

 

人間は幸か不幸か、この世界に誕生する存在です。私も含め、これを読んでくれているみなさんも、数年前に生まれたという事実は確かでしょう。その瞬間には自分は立ち会えませんが、その事実を否定することは誰にもできません。私たちは確かに、この世界に生まれたのです。

 

唐突な書き出しに、こう思われることでしょう。人間がかつて生まれたなんて当たり前のことで、いきなり仰々しく言いなおして急にどうしたんだ。ああそうか、お前は今日が誕生日だから、祝ってほしいんだな、と。はっきり申し上げておきますが、その通りです。しかしそれだけではありません。私は確かに22回目の誕生日を迎えました。誕生日というのは、ただプレゼントをもらったり、ケーキを食べたり、おめでとうと言われて嬉しい、ということに限るのでしょうか。まあ、それだけかもしれませんし、普通に考えたらそうでしょう。しかし、私にはこの「誕生日を祝う」ということに、かなり強烈な存在論的意義を感じないではいられないのです。昨年も同じテーマで自分の誕生日に文章を書きましたが、その意義深さにはますます気づかされています。私たちがこの世界に生まれること、そしてそれを祝うこと。今年もまたつらつらと、この意味について考えてみたいと思います。これはただたんに誕生日を祝ってほしいという陳腐な願いを最大の動機とした、気分屋的文章ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。

 

さて、冒頭に書かれているのはアウグスティヌスの『神の国』第12巻にある言葉であり、アーレントがしばしば引用する一節です。アーレントはこれを、世界に始まりをもたらすために人間が創られた、ということを示すものとして読んでいます。アーレントの哲学は「始まり」の哲学といってもよいほど、この「始まり」を重要視しています。というのも、アーレントは人間がこの世界に誕生することが、人間の複数性の存在論的根拠であると考えているからです。しかしアウグスティヌスの文脈で考えると、これは必ずしも一人ひとりの人間がそれぞれ固有な存在として誕生することを述べるものではなく、神による人間の創造の理由が述べられる箇所です。ここでアウグスティヌスは、古代の円環的時間論(プラトンの『ティマイオス』に端を発する)を批判し、神の創造から直線的に時間は流れていると解することで救済の意味を守ろうということを意図しているのだと思います。しかしアーレントは、アウグスティヌスが意図しているところをたんに勘違いしたのではなく、こう読むことで、この世界に子供たちが次々と誕生するというごく日常的な出来事の中に、新しい始まりの可能性を見出そうとしているのだと思います。アーレントアウグスティヌス解釈は発展しているものですし、一概にこうだということはできませんが、少なくとも『人間の条件』で出生と始まりを結びつけられて論じられているときには、一人ひとりがユニークな存在としてこの世界に誕生し、迎え入れられること、ここに複数性を見出すことが考えられています。

 

このように、アーレントの哲学には「始まり」への強いこだわりがあります。人間は始まりの存在であるからこそ自由で唯一な存在なのです。では、アーレントが始まりとして考えていた事柄はいったいなんでしょうか。それは、いわば純粋な自発性です。カントの超越論的自由と重なるところもあるかもしません。その自発性は、『人間の条件』の活動様式でいえば「活動action / Handlung」に含まれるものです。そこで論じられる始まりとは、例えば完全に他から切り離されて自分から何かを起こす奇蹟のようなものではありません。アーレントの行為論において何かが始まるということは、私の実存を超えて存続する私を取り巻く世界の持続性を断ち切ることなく、まさにその世界の中で、人々の間で何か新しい出来事がもたらされることなのです。その最も原初的な契機が「出生」であり、この出生に私たち人間の始まりの根拠を見いだすことができるのです。アーレントの言葉を少し引用します。

「活動の能力は存在論的にはこの出生にもとづいている。いいかえれば、それは、新しい人びとの誕生であり、新しい始まりであり、人びとが誕生したことによって行ないうる活動である。」(『人間の条件』志水訳、385-386頁)

新しいことを始めることができるのは、人間が生まれたということに基づくのです。そしてこの誕生という出来事は、複数性の根源的な条件であり、ある人間が他ならぬその人であるという唯一性の根拠なのです。それゆえ、複数性の間に生きる人間の存在を捉える時間的条件は、誕生という始まりから捉えられるべきだとアーレントは考えているのだと思います。これは、人間存在の本来性を死という終わりから捉える、アーレントの哲学における師であるハイデガーとの思想的対決があるように思われます。

 

確認したように、出生によって人間は世界の中に新たな可能性をもちこむわけです。出生によって新たな人間が世界に到来し、世界はそれを迎え入れる必要があります。世界は、誕生によって既存の関係が破壊され、そして再構築されていく変化の可能性に晒されながら存続していくのです。人々の間で何か新しいことを始めること、これがある種、人間の自由の存在論的根拠であり、唯一性の根拠でもあることはわかりましたが、誕生したという事実があればそれでいいのでしょうか。ここまでの話では、新しい始まりをもたらしたという過去の事実しか論じられていません。これでは、必ずしも私は新しく始めることができる自由な存在であることを自覚して生きることはできません。この自覚は人生において非常に貴重なものだと思っています。不可避的に時間に規定される中で、自由を実感する余地を心に残すことは、人生において支えとなるはずです。そこで私たちが考えなければならないことは、誕生という瞬間をたんなる点で終わらせないということでしょう。私たちがそれをたんなる点としてではなく、線として考えることができれば、人生において何度でも始めることができるはずです。ではいかにして始まりは時間的な拡がりをもちうるでしょうか。

 

そこで重要なことは二つあります。一つ目は「想起する」ということです。人間は過去の出来事をたんに過去としてではなく、想像力によって現在に何度でも反復することができます。つまり、誕生の瞬間を想起することで、私たちは一人ひとりがユニークな存在として世界に迎え入れられたことを反復することができるのです。二つ目は、世界に迎え入れられたことに、そして新たな関係性へと導かれたことに感謝することです。この二つによって、私たちはいつでも自分の存在自体が始まりであることを捉え返すことができ、人生において何度でも新しく始めることができるのだと思います。そう、これはまさしく「誕生日」という契機です。誕生日は一年に一度、自分が誕生した事実を反復し、感謝することがもっとも自然になされる日なのです。私たちが自由であることを誕生日は思い起こさせてくれるのです。

 

しかし、これはたんに個人的なことだと言えます。私が私の誕生を捉え返すことでしかないからです。しかしアーレントの前提でもあるように、私たちが新しく始めることができるのは、あらゆる人々の間で自分の行為が反復し、その帰結が予測不可能であることに一つの根拠があります。ここには、自由であるとともに、自分の行為が自分の手から離れた途端に全くコントロールができないという不自由さを感じる根拠でもあります。それゆえ、人間は過ちを犯してしまうことを避けられません。しかし私たち人間は、始まりを背負った自由な存在である以上、その過ちを赦し、また新たに始めることを決意できなければなりません。この「赦し」を与えることができるのは、同様に始まりを背負った他者たちです。自分たちが宿命的に背負わざるを得ない過ちを赦し合うことで、互いに新しい始まりをもたらす存在として関係し合っていくことの誓いになるのです。これは、「他者の誕生日を祝うこと」そして「他者に誕生日を祝われること」ではないでしょうか。こうして、私たちは過去の過ちや後悔を反省しつつも、未来へ向けてまた新しく始めるための関係を存続させていくことが可能になるのだと思います。

 

なぜ赦しが大事なのかについて、もう少し述べておきたいと思います。それは端的に言って、人間として生きていくために必要なことだからです。もし赦されることが全くないとしたらどうなるでしょう。私たちは自由の根拠であるはずだった、点としての始まりに永遠に囚われ、自由を捨て、その呪縛から決して立ち直ることのできない受難者となってしまいます。過去の呪縛から逃れられないということは、未来への志向性を失うということです。そうなってしまえば、人間は人間として生きていくことができているでしょうか。私にはそうは思えません。それゆえ、互いに赦すことが非常に大事なことなのです。

 

ここまででごたごたお話したことを今回のテーマに戻って簡潔に示すとこうなります。ある一人の人間(私)は、誕生日というカレンダー的行事によって自分が確かに生まれたという事実を反復し、そのことに感謝することで、自分の人生を絶えず新たに始めることができる存在者としての根拠を得ます。そして私と同様に、新しく始めることができる他者たちとの間でそのことを承認し合うことで、私たちは過去の点としての始まりに線として拡がりをもたせることができ、何度も新しく始めることができるのです。この始まりの相互承認の契機が、他ならぬ誕生日を祝い、祝われることなのです。

 

少しおおげさにまとめます。誕生日を祝うことの存在論的意味はこうです。

忘れ難い過去の後悔と不確かな未来への不安の間で揺れ動く人間をその鎖から解放し、現在に生きる自由な存在としての自覚をその都度捉え返していく一つの契機となる営みである。

 

いかがだったでしょうか。言い過ぎ感は確かにありますが、重要なことでもあるような気もしています。というわけで、私は確かに22年前に誕生したという事実を想起し、私を取り巻き、迎え入れてくれた世界に感謝します。その世界は、家族、友人、恩師……、そしてここまで読んでくれたあなたです。そして私の誕生日を祝福し「おめでとう」という言葉をかけてくれた人々に心から感謝します。その言葉が、私を自由にするのです。そして私も同じように、愛すべき友人たちの誕生日を祝うことで、彼らとの関係を存続させていく誓いとしたいと思います。