哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

カント倫理学は義務論だったのか

最近、「功利主義」「義務論」「徳倫理学」という規範倫理学の立場を使って、古典的立場を戦わせるような構造や、道徳的な問題を解決する思考実験によって「君は何主義かな」みたいなやり方に疑問を抱いています。そこで、現在定番となった競合する立場に古典的立場を当てはめようとすることによって、それぞれのオリジナリティが歪まされるのではないかと考え、そういった図式そのものに疑問を投げかけることを研究の一つとして取り組んでいます。その道中、ブログのような軽い媒体で吐き出すのもいいかなと思い、久々に投稿しました。もしあれば、リアクションなどお待ちしております。では本編へ……。

 

カントは『道徳の形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』) において、「経験的で人間学に属するすべてのものから完全に純化された純粋な道徳哲学を一度作り出すこと」を主眼として道徳哲学の批判を行う。それは、「経験的部門を合理的部門から常に入念に分離し、……実践的人間学よりも道徳の形而上学を先に立てる」必要があるからであり、両者を混同することなく、純粋な道徳哲学の理念が探究することが目指される。経験的な人間学にまったく頼ることなく、あらゆる理性的存在者に適用されうる道徳の原理を探し出すことが、『基礎づけ』の課題であり、その末に自己立法的に道徳法則に従って行為するという意志の自律が見出される。自律は意志の性質であると同時に定言命法で命じられる内容でもあり、人間とってそれらは義務として要求されることになる。それゆえ、カントの倫理学において道徳的な行為は「義務」によって命じられるのだから、「義務論」としてラッピングされるのが常である。

 

この図式はあまりにも定番になっているため、「うんうん、そうだよね。カントは義務論だよね。」という感じで簡単に片付けられる。しかし、よく考えてみると、それはカントが理念として提示したかった倫理学とは相容れない見解ではないだろうか。というのも、義務の概念には強制が含意されるため、その内容を説明するためには、克服されるべき障害が前提されなければならないからである。それは人間が感性的存在者であるがゆえの経験的な制約であり、それゆえ義務論には必然的に経験的な要素が入り込まざるを得ないのである。実際にカントは、義務の概念をはじめて『基礎づけ』で導入する際に、「義務の概念は善い意志の概念をある主観的な制限と傷害のもとではあるが含んでいる」と述べている。それゆえ、経験的なことから完全に浄化されているような合理的な道徳哲学は、義務の概念を含みえないのである。

 

このことは、カント自身が自覚していたことでもある。『純粋理性批判』では、義務概念には快や不快、傾向性など経験的要素が含まれるがゆえに、そのような道徳哲学は超越論的哲学には属さないことを示している。では、カントが『基礎づけ』で意図したような、純粋な道徳哲学とは義務論ではなかったのか。おそらくそうであろう。

 

しかしこれは、義務が経験的な人間学に属する概念だということではないため、その点は注意する必要がある。「義務の概念を経験的な概念として論じていると結論づけてはならない」とカントは断言している。義務に基づく行為が経験によって確証されることはないからである。経験によってのみ知られる人間の特殊な事情を扱うのが人間学の課題であるが、義務の概念はそこにはない。少なくとも、人間の特殊な本性を分析することから義務の概念が出てくるわけではない。道徳法則の適用を考える際には、経験的な人間学の力を借りなければならないが、道徳法則の拘束力を与え、義務という法則に従うという行為の必然性を説明するために、人間学は不要なのである。カントは『基礎づけ』の序文において、以下のように述べている。

 

すべての道徳哲学は完全に実践的認識の純粋な部門に基づいており、人間に適用されても、人間についての知識(人間学)から少しも借用することなく、むしろ理性的存在者としての人間にアプリオリな法則を与えるのである。もちろん、この法則は経験によって研ぎ澄まされた判断力を必要とするのであって、これは、法則がどのような場合に適用されるかを識別するためであり、また、法則を人間の意志に受け入れさせて、実行への力を得させるためである。

 

義務は、人間学に基づかなければ導入されえない概念ではないし、経験に依存する概念でもない。義務は「あらゆる経験に先立って、アプリオリな根拠によって意志を決定する理性という理念のうちに存しているからである。 」それでも、道徳法則に従う行為の必然性が、自然的な傾向性をもつ人間にとっては義務としてあらわれるほかない、ということである。義務という概念によってしか、人間は道徳的行為の必然性を認めることはできず、必然的に経験的な概念をすべて捨象することはできない。それゆえ、厳密には、義務は純粋な道徳哲学には属さないのである。

 

つまり、カントが『基礎づけ』で意図していた道徳哲学の理念は義務論ではなかったと言える。もちろん、義務がカントの倫理学の中心概念であることは疑いなくそうであるが、少なくとも、カントの倫理学全体を義務論としてのみ位置づけることによって、カントの構想を歪ませてしまいかねない。それなのに我々は、『基礎づけ』を参照しながら、カントが提示する倫理学を義務論という言葉で片づけていたのである。