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カント倫理学研究の紹介:Herman「道徳的判断の実践」

Barbara Herman, The Practice of Moral Judgment. Cambridge, Haward University Press, 1996, pp. 73-93より。

ハーマンのこの論文は、格率の普遍化テストを意味あるものにするためには、状況に対する感受性が行為者に内面化されていなければならないと主張する点で非常に示唆的である。それを構造化するものを「規則rule」という名称を当てて、打ち出した点は批判的に検討する必要があると思うが、少なくともカント倫理学を格率の倫理学として見る際には、ハーマンが開いた方向を無視できなはずである。以下で、少し雑ではあるが順に見ていきたい。

 

カント倫理学に対する批判として、道徳的判断において規則が果たす役割に向けられることが多い。カント倫理学は極端な厳格主義、個人主義をとり、道徳的な感受性を欠いているというものだ。この批判に対して、カントに忠実な仕方で応答することがハーマンの意図するところである。

 

カントにおける道徳的規則の役割に対する批判としてよくあるのは、個別的特徴を捨象しているというものである。行為が意味あるものとなるのは個別的な諸特徴によるのに、道徳的規則を適用することで均一化し、規則に関連する環境だけを選び出すよう指示する。つまり、道徳的判断を規則と結びつける難点は、個人や状況に関する細部の個別的な事実を無視することになってしまうということである。 

そこで、ハーマンは道徳的規則と道徳的判断との間に重要な区別を設けることで、こういった批判を退けようとする。まず第一に指摘されることは、定言命法はそれ自体で道徳的規則ではない、ということである。定言命法は義務を直接課すのではく、行為の主観的原理である格率に対するものである。

定言命法を判断の原理として用いるためには、まず格率がなければならない。つまり行為者は、自分がしようと意図していること、その理由、目的を適切に記述する必要がある。格率は、人や環境にかかわる個別的なものを含む。しかし格率に含まれる事実は、行為者によって判断されるため、格率を記述するためには関連性の規則(道徳的規則ではない)が必要となる。

行為が格率を通じて定言命法によって評価されるには、行為を適切に記述できる、ある種の独立した道徳的知識が必要となる。カントの道徳的行為者は道徳的に無知ではいられない。定言命法を用いる前に、道徳的問題を提起する自分の行為の特徴を知らなければ、その行為を吟味することはできないからである。もし行為者が無知であれば、行為の格率を評価する道徳的判断がどのように機能するのかは理解できない。

この問題に対して、行為記述は無限の仕方で可能であり、そのほとんどが道徳的問題を提起する行為の側面を除外する、と考えられるかもしれない。格率を評価する道徳的判断ができる機械があるとして、「AがBの鼻を殴る」という出来事に対して道徳的判断を下す際には、この傷害行為が道徳的に問題含みであることを知っていなければならない。しかし、全ての道徳的に問題含みである特徴の一覧表をもった機械を想定したとしても、カント的な道徳的行為者にはなれない。カント的な道徳的行為者は、たんにその状況が道徳的カテゴリーに「当てはまる」かどうかだけを判断するわけではないからだ。彼は自分がしていることが道徳的な吟味を必要としていることに気づき、道徳的記述の下で自分の行為を意図しなければならない。

道徳的判断のためには、全ての日常的な行為がその俎上にあげられるわけではない。道徳的行為者は、道徳的吟味の手前で一般的に許されること/許されないことを分類することができるため、なんでもかんでも定言命法によって決まりきったように手続き的に判定するわけではない。

カントが『基礎づけ』で挙げる例に対する分析は、行為者がその行為の理由をもっており、その理由は彼にとって充分なものであるが、その行為が道徳的規範に反するように思われるとその行為者が理解している時に、道徳的判断の必要性が生じる、ということを示している。定言命法の手前で、自分の行為が道徳的に吟味する必要があることを知っているのだ。

それゆえ、カント的行為者が道徳的判断に先立って必要とする事前の道徳的知識を一種の道徳的規則として考えるのは有用である。このような規則を「道徳的なせり出しの規則 (rules of moral salience)」と呼ぼう。道徳教育の要素として獲得されることによって、この規則によって行為者は道徳的特徴を備えた世界を知覚し、道徳的判断を可能にする。

とはいえ、道徳的なせり出しの規則はそれ自体では道徳的な重要性をもたない。どこで道徳的判断が必要になるかを行為者に理解させる役割をもつだけだからである。それらの規則は子供のときに社会化の一部として獲得されることが多い。道徳的なせり出しの規則が十分に内面化されるとき、行為者は世界の道徳的特徴に対して敏感になる。道徳的なせり出しの規則(以下、RMS)は道徳的感受性の構造を構成するのである。

確かに定言命法の手続きはRMSなしに機能しうる。しかし、定言命法の通常の使用は、自分の格率が吟味される必要性があることを知らなければならないし、そのためには行為者な自分の行為と環境にある道徳的な特徴を知っておかなければならない。

 

RMSの導入によって、カント倫理学への批判に応えることができる。ハーマンは義務の衝突と道徳的な知覚と感受性の問題について触れているが、紹介するのは後者の問題に限定する。

 

感受性の不在について、問題を含んでいるイメージは次のようなものである。例えば親切において、困っている人のニーズに対して敏感でなければならないので、道徳的な原理のみではそれは不可能である。ある人が苦しんでいるということ、そして苦しみが何を意味するのかを正しく理解できないのなら、どれほど正しい原理を持っていても親切の実行はなしえない。カント的な行為者には、原理ばかりで感受性がないという批判が示唆されている。しかしこの考えは、ハーマンによれば誤解に基づく。カント的な行為者だって、他者の苦しみを理解できない場合、親切をしそこなうことになるだろう。他者援助は同時に義務である目的であり、目的を意欲するということはそのための手段も意欲することになるため、 カント的な行為者は他者の苦しみを認識するためにできることをしなければならないし、それゆえ苦しみを認識する能力を発展させるためにできることをしなければならない。しかし、感受性の不在という批判は、そのような感受性を自発的にもつことができるものではない、というものであろう。

このとき想像されているのは、道徳的原理を持ちながらも感受性が乏しいがゆえに何も出来ていない人である。しかしRMSの位置に注目すれば、そのようなイメージは変わる。RMSは道徳教育において本質的核心を与える。RMSが充分に学ばれるのであれば、自分が遭遇する具体的な状況における道徳的に意味のある要素を特定することができる。重要なのは、RMSによって行為者が苦しみを道徳的に意味ある何かとして認識することが可能になることで、その結果、人を助けるという道徳的判断が可能になるということだ。RMSを学ぶということは、あれこれが道徳的であるどうかを学ぶということではなく、道徳的な特徴を認識し、それらに応答することを学ぶことである。

ハーマンの主張によれば、カント的な道徳的行為者はそもそも判断すべきかどうかを理解するための方法を別に持っていなければならない。道徳的な行為者であるためには、RMSによって記述される、ある状況がもつ道徳的に意味のある特徴の観点から状況を知覚するための訓練が必要である。そのような道徳的行為者の鋭敏さは、有徳であることの証拠でもある。

 

最後にハーマンが取り組むのは、RMSの内容に関わる問題とその解決による道徳的判断の客観性に関わる問題の二つである。

道徳的判断が道徳的知覚に依存しているなら、さらに道徳的知覚がRMSによって決定されているなら、RMSの変化は道徳的判断に影響を与える。RMSが道徳教育によって発展すると考えられるなら、それは共同体固有の価値を反映するものになる。

ここでの探求の方向性は次の三つである。

 

(1):RMSはどこから生じるのか。RMS定言命法から独立した道徳的価値の源泉を表すのか。

(2):何が妥当なRMSなのか。

(3):RMSの変化には何が関わるのか。どのようにして変化するのか。道徳的進歩の方向を規定する方法があるのか(カントはあると考えていた)。

 

(1)で問題となっているのは、RMS定言命法の関係である。これまで述べられてきたように、RMSは記述的な道徳的カテゴリーを与えるだけで、定言命法の手続きによって判定される格率の定式化をかのうにするものであった。それならば、RMS定言命法とは独立した源泉をもつように思われる。しかし、RMS定言命法から独立したものだとすれば、カントの道徳理論は形式的な手続きと直観的ないし慣習的手続きが混ざった統一性のないものとなってしまう。

しかし、RMS定言命法から独立しているとしても、それが道徳法則からの独立まで意味しない。なぜか、順に見ていこう。

定言命法は道徳法則を表現する方式である。『基礎づけ』によれば、定言命法には三つの方式があり、それは「道徳性の原理を表象する」ものである。第二方式である目的自体の方式は、道徳法則が受容されることを保証するために、道徳法則を「直観に近づける」とカントは言う。つまり、カントの主張によれば、行為者を道徳法則の受容へと引きつけるのは、自分自身と他者を尊重することであり、それ自体が道徳法則の解釈となる。この『基礎づけ』でのカントの戦略が、RMSの問題を解決するモデルを提供する。

RMSによってハーマンが示そうとすることは、定言命法の方式をさらに実践的に用いることによって、どのようにしてRMSがその源泉を道徳法則のうたにもつことができるかを理解することができる、ということである。RMS定言命法から導出はされないが、たんに任意的で慣習的なものではない。

実践理性批判』において、道徳法則は理性の事実として示される。道徳法則の意識が人間の日常的な道徳的意識に内在しうるのは、この事実による。ここでハーマンが注目するのは次の二つである。

 

①この主張は人間の道徳的経験に対する感受性の強さを主張している。

②この事実は私たちに道徳的行為者の構想を提示する。

 

道徳法則から生じる自己と他者の構想によって、目的それ自体としての人格という構想の基礎が与えられる。そのような人格の構想とは、そのうちに何かがあり、それゆえ彼を不当に扱ってはならないという構想である。このような道徳的行為者としての人格の構想によって、自分の行為が他の理性的存在者に影響を与える道徳的行為者として、私たちに許される行為はどのようなものか、という問いが課される。他者の間に存在する道徳的行為者としての自分自身の構想が、日常的な道徳的意識に現れる道徳法則の側面であり、ハーマンの考えでは、この側面が前手続き的な道徳的規則(RMS)のための基礎を与える。

ハーマンによれば、RMSとは道徳法則の対象である人格への尊敬を規則の形で解釈したものである。RMSは少なくとも三つの問題について行為者に事前の指示を与える。(1):誰が目的それ自体なのか。(2):何が目的それ自体にとっての行為者の条件なのか。(3):何が合理的な主張と制約の徴なのか。この三つが、定言命法の手続きによる判定に対して適切な格率を定式化するために、行為者が知らなければならない事柄である。その答えは、理性の事実としての道徳法則の経験から生じる目的それ自体としての人格の構想を根拠にもつRMSとして現れる。すなわち、RMS定言命法の産物ではないがわその役割において道徳法則の産物である。

 

当然、RMSには過失もありうる。事実、誰が目的それ自体かを決定することは歴史的にも誤ってきた(黒人差別など)。その場合には、新たな事実が新しいRMSを生み出すだろう。それゆえ、RMSは批判にも改善にも開かれているのである。ハーマンは人種差別や性差別について、その誤りが訂正されてきたことにその根拠をみている。RMSの改変によって、それ以前には明確にみなされていなかった状況や人に対して、行為者は道徳的に敏感になる。

しかしそれでは道徳的進歩へと開かれた一方で、相対主義の亡霊を甦らせることになる。道徳的判断に必要なRMSが誤りうることを認めてしまえば、道徳的判断の妥当性が揺らぐ。しかし誤ったRMSに基づいてなされる判断は、義務違反ではない。人間は全知ではないのだから、道徳性の要求をし損ねることはある。不完全な知性をもつ人間にとっては、道徳的判断におけるある程度の相違に対して寛容でなければならない。欠陥のあるRMSをもつせいで、道徳的な吟味に導かれることがなかったとしても、それはRMSのレベルの誤りであって、道徳的判断そのものの相対性を認めているわけではない。

道徳的に際立った事実に気づけないことと、道徳性が共同体によって相対的であることは別である。また。私たちは誤ったRMSを避難することもできる。例えばナチスの党員は、目的それ自体としての人格が誰であるかを見誤ったが、彼らはそのことを全く理解できなかった立場にいたわけではない。確かにそれはナチスという境界の外にある、文化を超えた判断であるがゆえに用心深くなる必要がある。しかし、それが彼らを免責することにはならない。RMSに対する客観的な制約に関するこの結論と、文化的差異を超える道徳的判断の限界とを要約すると以下の三つになる。

 

  1. 一. RMSの妥当性の基準は他の文化と道徳的実践への批判を可能にする。
  2. 二. ある文化の中にいる者は、定言命法の手続きや道徳法則に関連する基礎的な構想へと訴えかけることによって、自分自身のRMSを批判することができる。
  3. 三. すべてのRMSが同じではない。人間の共同体の様々な環境を前提すれば、道徳法則によって課される課題を解決するための様々な戦略が可能であるべきであり、時には適切であるべきである。

 

RMSを道徳的判断に関するカントの理論に導入することで、道徳性が客観的な基礎をもちながらも、文化に基づくある種の道徳的差異に寛容であるための積極的な理由をもちうることが可能になる点で、魅力的である。

 

ハーマンがこの論文で主張してきたのは、道徳的判断についてのカント的な説明は、RMSによって補われる必要があるということである。『基礎づけ』での常識的な道徳意識や理性の事実の解釈のうちに、この説明を指示する根拠があるとハーマンは考えているが、それはテキスト解釈として充分な証拠であるとまでは言おうとはしていない。道徳的判断についてのカント的説明が、道徳的なせり出しの規則もしくはそれらにきわめて似た何かがない限りうまくいかないだろうということを言おうとしているのである。