哲学なんて知らないはやくん

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カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑦

第二章 ④ [Ⅳ, 430-440

 

意志の第三の実践原理:自律へ

目的自体の原理は純粋理性から発現する。

☞あらゆる理性的存在者にかかわる:普遍性+主観的目的を制限する:客観的目的

*実践的立法の根拠は客観的には法則としての規則の普遍性にあり、主観的には目的自体としての理性的存在者がその主体である目的にある。

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「ここから意志の第三の実践的原理が、意志と普遍的実践理性とが一致する最上の条件としての実践的原理が帰結するのであって、普遍的に立法する意志としてのすべての理性的存在者の意志という理念が帰結するのである。」(Ⅳ, 431)

「意志自身の普遍的立法と両立することができないすべての格率は、この原理に従って退けられる。したがって意志は、たんに法則に服従させられるのではなく、意志が自己立法としても、そしてまさにそれゆえにはじめて法則に(この法則について意志自身が創始者として見なされうる)服従させられると見られなければならない、というような仕方で服従させられるのである。」(Ⅳ, 431)

定言命法が命ずることができるのは、ただ次のことだけである。つまり、自分自身を普遍的に立法する者ともみなしうるような自らの意志の格率にもとづいて、すべてをなせ、ということである。」(Ⅳ, 432)

☞たんに普遍的法則に従うのではなく、自らが立てた法則に従う(=自己立法)

 

ポイント;定言命法の目的自体の原理から自律の原理へ

目的の設定は各人が自由に行うことであり、それは自分自身の自由で理性的な意志から生じる必要がある。また、彼らが目的自体として絶対的な価値をもつのは、たんに主観的な目的をもつだけでなく、それを普遍的法則あるいは客観的目的によって制限することができるからである。つまり、目的の設定を強制されるとしても、それは外的にそうされるのではなく、自分自身の理性的な意志が強制の原因にならなければならない。それゆえ、自分自身が自分を拘束する法則の立法者でなければならない。

 

定言命法の方式としての目的自体の役割

議論としては唐突に導入されたように感じる目的自体の概念であるが、それは当然カントがきまぐれに導入したのではない。では、どのような役割を担っているのだろうか。普遍的法則の方式からの論証を詳しくみることで、ある程度は明らかになる。

・カントが普遍的法則の方式で示したこと

定言命法はいかなる経験的な主観的諸条件に基づいてはならないということ。これだけでは定言命法があらゆる理性的存在者にあてはまるということは未規定のまま。

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あらゆる理性的存在者という観点を導入するために、カントは目的という概念を持ち出す。

*しかしここで導入される目的は、仮言命法のように、その実現がめざれるような目的ではなく、手段としてのみ扱うことを抑止する消極的・否定的なものとしての目的であり、その目的が示すものが、理性的存在者なのである。

 ☞「ここでは目的は実現されるべきものではなく、自立している目的として、それゆえたんに消極的なものとしてみなされなければならない」(Ⅳ, 437)

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ここにおいて、普遍的法則の方式で「経験を捨象した普遍的形式としての法則」が、目的自体の方式で「目的自体としてのあらゆる理性的存在者」が、取り出され、これを結合したものとして普遍的に立法する意志を前提する自律の方式が形成される。

 

定言命法と感心の排除

道徳法則は定言命法として人間に意識され、無条件的であるため、それは経験的な関心を排除する(=普遍的に立法する意志としての自律は関心を明確に排除する)。

☞もし関心によって制約されるなら、それはすべて他律になってしまうから。

☞普遍的な法則を立てるなら、いかなる関心によっても規定されてはならないことが明確に含意されている。

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定言命法が存在するなら、それに服従する意志は関心によって規定されてはならない。

それゆえ無条件的に服従すべき普遍的法則を意志が自ら立てる自律がなければならない。

*「最上位にある意志」=みずからの格率を通じて普遍的法則を立てる意志

 

自律の発見 (, 432-433)

カントは道徳性の原理がこれまで発見されなかったのは、それらがすべて他律であったからだと考えた。つまり、これまでは義務づけるのは他のものによってでしかなされず、自分が自分を義務づけるということに気づいていなかった。しかしそれは関心に条件づけられるため、真の意味で義務とは言えないのだ。

 

目的の国へ

・目的の国とはいかなる国か

☞様々な理性的存在者が、「理性的存在者のすべてが自分自身と他のすべてを決してたんなる手段としてではなく、いつも同時に目的それ自体として扱うべきである」(Ⅳ, 433) という共同の法則によって体系的に結びついている状態のこと。

*この国のあくまで理想である。

*目的の国の成員はすべて普遍的に立法する者としてみなされる。

 

ポイント:定言命法の総括として導入される目的の国という概念

目的の国はカントが提示する定言命法の方式の中で最も包括的なものだといえる。道徳的行為の形式(=普遍的法則)と実質(=目的自体)のどちらにも言及しているからである。

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目的の国の方式は普遍的法則の方式と目的自体の方式を統合したものである。

☞普遍的法則の方式では、道徳的行為は一つの形式(普遍的法則)をもつことを認めた。

☞目的自体の方式では、道徳的行為は実質としてたくさんの対象を、すなわち目的をもつことを認めた。

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目的の国の方式では、一つの共同の普遍的法則の下で完全な体系(=国と呼ばれるゆえん)に統一された、目的自体としての理性的存在者の共同体に到達した。

・目的の国は自律の原理から直接導かれる

☞あらゆる理性的存在者は、自らの格率を通じて自分自身を普遍的法則の立法者とみなすよう命じられている(=意志の自律)。

☞自分で自分に課したものでありながら、それでいて客観的であるような共通の法則の下での、理性的存在者の統合された体系の概念(=目的の国)につながる。

 

立法的成員としての道徳性

道徳性はすべての行為が立法に関係することにおいて成り立ち、立法は各成員の意志によってなされる。そこで彼らの意志の原理はこうである。

☞「彼の意志の原理はつぎのようなものである。いかなる行為も次の格率以外の格率に従ってなされてはならない。その格率とは、それが普遍的法則ともなることと両立しうる格率であり、したがって、意志が自分の格率を通じて自分自身を同時に普遍的に立法する者と見なすことができるような格率である。」(Ⅳ, 434)

*しかし彼らの格率は必ずしもこの原理と一致しないため、この原理による行為の実践的必然性は強制としての義務である。

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道徳性によってのみ、理性的存在者は目的の国の立法的成員であり、またそれゆえ目的自体でありうる。(Ⅳ, 435)

 

★まとめ:なぜ理性的存在者が目的それ自体なのか

あらゆる理性的存在者は、ある法則に服従しながらも自らを同時に普遍的に立法する者とみなさなければならない。このことが理性的存在者を目的自体として考える根拠であると考えられている(Ⅳ, 434)。

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理性的存在者がたんに自ら目的を設定する主体であるということだけでなく、自ら普遍的法則を立法し、それに従って主観的条件を制限することができるというところに、理性的存在者が目的それ自体と呼ばれる根拠がある。

 

尊厳と価格

「目的の国においては、すべてのものは価値をもつか、あるいは尊厳をもつ。」(Ⅳ, 434)

価格

☞等価物を想定できる、代替可能な価値

(市場価格、感情価格=空想価格)

尊厳

☞等価物を想定できない絶対的で内的な価値

普遍的に立法する者である目的自体としての人格、あるいは道徳性をそなえる人間性のうちに存する。

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「自律が人間およびすべての理性的存在者の尊厳の根拠なのである。」(Ⅳ, 436)

 

道徳の原理を示す三様式(①普遍的法則・②目的自体・③自律)

この三つの語られ方は、「同一の法則をあらわす」ものである。

①格率の普遍性という「形式」にかかわる

②目的という格率の「実質」にかかわる

③上の二つを統合した「あらゆる格率の全面的な規定」にかかわる

*格率の道徳的判定の際には、「つねに厳格な方法によって行われる方がよいし、「それ自体が同時に普遍的法則となりうるような格率に従って行為せよ」という定言命法の普遍的方式を基礎とする方がよい。」(Ⅳ, 436)

*三つの仕方で表現されたのは、「道徳法則を人々に近づきやすく」して「その行為をできるだけ直観に近づける」ために有効だからである。

 

善意志は無条件に善い、という出発点に戻る

善意志=「端的に善い意志とは、それが悪でありえず、すなわち意志の格率が普遍的法則になるとしたときに、決して自分自身と矛盾することができないような意志のことである。」(Ⅳ, 437)

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「格率の普遍性を君が同時に法則として意欲できるような、そうした格率に従っていつでも行為せよ。」(Ⅳ, 437)

*つまり、端的に善い善意志とは、定言命法に従う意志として無条件的に善いのである。

 

目的設定の主体としての人間

「理性的本性は自分自身に目的を設定するということによって、他の本性から区別される。」(Ⅳ, 437)

*「善い意志」の文脈で言われる目的は、相対的なものではありえないから、残るのは「自存的な目的」である。

自存的な目的…決して単に手段としてではなく、同時に目的と見なされなければならない。

☞この目的は「あらゆる可能な目的の主体そのもの」としての理性的存在者である。

*この目的の主体は善意志の主体でもあるから、他のものに制限されない絶対的なものだから。

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目的自体の方式と普遍的法則の方式は根本においては同じである。

☞「自分が自由に設定した相対的目的を達成するための手段の行使を、そのような行為の根底にある格率が、普遍的法則として妥当するよう制限されること」は、「あらゆる手段の行使に際して、目的の主体としての理性的存在者自身が、決してたんなる手段としてではなく、つねに同時に目的として行為のあらゆる格率の基礎に置かれなければならない、と制限されること」は同じことを言っている。

 ☆ここから以下の二つのことが帰結する。

一), あらゆる理性的存在者は、たとえ法則に服従していても、目的自体として、同時に自らを普遍的に立法する者とみなすことができなければならない。それはまさに、普遍的立法への自分の格率の妥当性が、理性的存在者を目的それ自体として際立たせるからである。

二), すべてのたんなる自然物にまさって、すべての理性的存在者は尊厳(特権)をもつということは、理性的存在者の格率をつねに自分自身の視点から、さらに同時に法則を立法する存在者としてのすべての他の理性的存在者(それはそれゆえ人格ともよばれる)の視点から採用しなければならない。

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目的の国が可能となる。

☞「すべての理性的存在者は、自らの格率を通じてつねに普遍的な目的の国における立法的成員であるかのように行為しなければならない。」(Ⅳ, 438)

*目的の国は、「格率すなわち自ら課した規則」によって成立し、「自然の国」との類比で考えられる。

☞ここにも自己立法的な契機が見られる。

 

目的の国はいかにして成立するか

定言命法に合致した格率が普遍的に実行されるとすれば、現実に成立する。

*しかしそれは人間において期待できることではない。

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そうだとしても「単に可能的であるにすぎ目的の国の普遍的立法者としてもつべき格率に従って行為せよ」という定言命法は依然として成立する。

定言命法は実際にそれが達成されるかによって、その効力を失わないから。

*人間は感性的存在であるがゆえに、目的の国が実現できないのが現実ではあるが、そのことが逆説的に、人間の尊厳と崇高性を示す。

 

カント道徳理論の諸概念の定義的説明

道徳性…意志の自律に対して行為がもつ関係。意志の格率による可能的な普遍的立法に対して行為がもつ関係

許される行為…意志の自律と両立しうる行為

許されない行為…意志の自律と一致せぬ行為

神聖な意志…意志の格率が自律の法則と必然的に一致する意志

責務(拘束性)…絶対的には善とはいえない意志が、自律の原理に対してもつ依存性[道徳的強制]

義務…責務にもとづく行為のもつ客観的必然性

 

人間性の尊厳はどこに存するか

義務を遂行する人に崇高性や尊厳を見出すのは、たんに彼らが道徳法則に服従しているからではなく、道徳法則を立法するという点にある。

☞「その人が道徳法則に服従している限り、その人についての崇高さはないが、しかしその人がまさに道徳法則にかんして同時に立法するものであり、それゆえそれに従属しているというかぎりにおいて、崇高なのである。」(Ⅳ, 440)

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立法する意志としての可能な理念的意志が尊敬の対象であり、人間性の尊厳は、それによって自らが普遍的に立法することができるという点に存する。