哲学なんて知らないはやくん

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カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑨

『基礎づけ』第三章の議論の構造 (Ⅳ 446-463)

 

まずは、参照されることも多いSchöneckerの解釈を軸にまとめる。

Schönecker, Dieter (1999) Kant: Grundlegung Ⅲ: Die Deduktion des kategorischen Imperativs, Freiburg/München: Verlag Karl Alber.

 

『基礎づけ』第三章において解釈上の鍵

☞純粋な理性的存在者(=神)と感性的かつ理性的な存在者(=人間)との区別。

 

自由と道徳法則の同一視

第三章の記述では、自由と道徳法則は直接に結び付けられている。ここでの意図は、自由な意志とは必然的に道徳法則に従う意志である、ということなので、純粋な理性的存在者についてのみ語られている。

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よって、この同一視は人間の意志が道徳法則に従うべきであること、すなわち定言命法の可能性はまだ論じられていない。

 

観点の転換(Perspektivenwechsel

感性的かつ理性的な存在者としての人間に議論がシフトするのは、「道徳の理念にともなう関心について」からである。

☞Schöneckerはここを観点の転換と呼び、印象的に議論の転換を示唆している。

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ここで、人間は道徳法則へ必然的に関心を持つことが示されることで、人間の理性的存在者たるゆえんが確認される。また、物自体と現象の区別が人間に導入され、二世界論的 (感性界と知性界) な人間像が示される。これによってカントは、人間は感性的な関心をもちながらも、同時に知性界の道徳法則に関心をもつことが、矛盾しないことを示すのである。『純粋理性批判』の超越論的観念論の適用に見える。

 

知性界の存在論的優位

Schöneckerは、この二世界論に優位関係を見出す。まず彼は、人間は感性界と知性界の両方に属しておきながら、なぜ知性界の法則に従うべきなのか、という問題提起をする。

☞これをSchöneckerは「知性界の存在論的地位の優位性」と呼ぶ。

 

次に世界を代表するカント研究者であるAllisonの議論の一部を紹介する

Allison, Henry E. (1990) Kant’s Theory of Freedom, Cambridge University Press.

 

『基礎づけ』第三章での演繹

『基礎づけ』第三章では第一章と第二章で到達した道徳性の最上原理を正当化することが目的であり、そのためには演繹が必要であるため、演繹が試みられる。

しかしこの試みは一般的に失敗と考えられており、厄介なことに何の演繹がいかにして失敗しているのかについては研究者の間でもほとんど意見が一致していない。

 

隠れた循環 (, 450)

①私たちが自らを自由であると信じるかぎり、自らを道徳法則のもとに立つものであると信じなければならない

②私たちは自らを理性的行為者として、すなわち意志をそなえた理性的存在者としてみなしうるためには、みずからの意志を自由なものとしてもみなさざるをえない

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①と②をつなぎあわせると、自らを理性的存在者とみなすなら、自らを自由なものとしても、それゆえ道徳法則のもとに立つものとしても見なさなければならない。カントによれば「自由と意志の自己立法は両方とも自律であり、したがって交換概念であり、そこからまさにそれゆえに、一方が他方を説明したり、他方に根拠を与えるために、もたらされることはできない」のである(Ⅳ, 450)。そしてカントは私たちが理性的存在者であるという主張を、それにさらなる裏付けをせずに断定的に述べている。

このまま論を進めようとすると、「自由から自律へ、そして自律から道徳法則へ、という私たちの推論にはひそかな循環が含まれていたのではないか、すなわち私たちはおそらく後で道徳法則を再び自由から推論するために、自由の理念をたんに道徳法則のために根底に置いたのであって、したがって、道徳法測についてはまったく根拠を与えることはできない」(Ⅳ, 453) と言われることになる。ここに道徳法則が先か自由が先か、隠れた循環がある。

 

循環を避けるための二世界論

この循環を避けて演繹を完成するには、理性的存在者が2つの世界に属すると想定する必要がある。

・感性界(Sinnenwelt)に属する

 ☞受動的で因果的に制約された存在者である

・知性界(Verstandeswelt)に属する

 ☞そういった制約を受けない自由な存在者である。

この区別を導入することでなぜ循環が避けられるか

☞私たちが自由であると考えるときには知性界に属する者として考えればよいから

*このように二世界論的に自己を捉える考え方は『純粋理性批判』(A546/B574)でもみられる。

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カントの本質的主張の意図はこうである。総合命題として考えられる道徳性の原理は、分析命題と違って主語述語を結びつけるために別の第三項を導入しなければならない。それがまさに知性界の理念である。

*結局カントは、いかにして自由が可能であるかを説明するのは不可能であるとし、演繹の限界を強調するに至る。

 

最後に二つの立場(zwei Standpunkte)に立つとはどういうことかを考察する

*二つの立場とは、感性界の成員としての立場と知性界の成員としての立場である。

 

循環を回避する知性界としての立場

Allisonのときも指摘したが、この二つの立場が導入されたのは、自由の理念と道徳法則の循環から抜け出すためであった。もう少し詳しく見る。

「私たちが自らを、自由を通じてアプリオリに作用する原因として考える場合、私たちが自分たちの眼前にみる結果としての自らの行為に従って、自分たち自身を表象する場合とは別の立場をとっているのではないか」(Ⅳ, 450)

☞「別の立場」を根拠づけるのは、現象の背後に物自体を想定することである。

この現象と物自体の区別が、自己自身についても成り立つとカントは考える。

☞「それゆえに、理性的存在者は自分自身を英知[Intelligenz]として(それゆえ理性的存在者の下位の能力の側からではなく)感性界ではなく、悟性界に属するものとして、見なさなければならない。したがって、理性的存在者は二つの立場をもち、この二つの立場から理性的存在者は自分自身を考察したり、自分の能力の使用の法則を、したがって自分のあらゆる行為の法則を認識することができる。それはつまり、第一に、感性界に属する限りで、自然法則(他律)の下にある[自分と]、第二に、知性界に属するものとして、自然に依存せず、経験的ではなくてただ理性にのみ基づく法則の下にある[自分である]。」(Ⅳ, 452)

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 「ちがった立場」=知性界の立場

・一応の循環の解決

☞人間は自由な存在者としては知性界に属し、義務づけられたものとしては同時に感性界に属するものとして自己自身を見ている。

 *知性としての自己の客観的実在性は証明不可能

 

理論的認識から実践へ

カントは現象と物自体の区別という理論的な認識の問題から出発し、考察の対象を「自己」へ移していった。

・理論的な認識でこの区別が問題になる場合

☞同一の与えられた事物についての現象と物自体の区別が感性界と知性界に対応する。

・実践的な二世界論の区別

☞自己を「二つの立場に立っている」と見なすときの含意は、より実践的なものである。たんに観察的にそう「みなす」のではなく、「傾向性に基づいて意志が規定される世界」としての感性界と「端的に善い意志によって行為がなされる世界」としての知性界、という実践的な二世界論的区別がなされていると考えられる。

*理論的な認識においては同一の事物が観察的に二つの見方で捉えられるのに対して、実践的に表現される二つの世界はそれぞれが別の実践的な世界である。確かに同一の行為を二つの側面から観察したものとして後者の二世界論を解釈することも可能であろうが、実践的な行為の意味を考えると、結果として外から観察される限りにおいては同一の行為でも、意志の規定根拠が異なるなら別の行為だと考えるべきである。

 

〇二つの世界はどう関係しているか

二つの世界は実践的な意味では異なるものだと考えられたが、カントは「知性界は感性界の根拠を含む」(Ⅳ, 453) と述べていることから、ある序列的な関係にあるはずである。これはSchöneckerが知性界の存在論的優位を主張した根拠でもあった。

ポイント:知性界としての立場は理性が実践的であるための立場である

☞理性が実践的でないとすれば、自ら行為をなすことはできず、すべての行為は外的な刺激のたんなる反応にすぎない、ということになる。それゆえ知性界の立場に立つ自己は「本来の自己 eigentliche Selbst」(Ⅳ, 461) と呼ばれる。理性が実践的である場合は、理性が原因となることが前提できなければならず、つまり自律的な意志が可能でなければならない。

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この意味において、感性界も実践的世界であるために、理性がそもそも実践的でありうることを想定する知性界が、その根拠として序列的に関係している。