哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

カント倫理学研究の紹介「原理に基づいて行為すること:ビットナーのカント行為論解釈」

英語圏やドイツ語圏のカント倫理学研究を独断と偏見で選定し紹介する試みを始めます。ほんの少しでもカント倫理学に関心のある方の参考になれば幸いです。

 

これは、Bittner (2001) "Doing Things for Reasons"の第三章「原理に基づいて行為すること」(Acting on Principle)の内容をまとめたものである。ほとんど訳しただけの箇所もあり、かなり長い文章となってしまったが、カント倫理学の展望を知るのに役立つことは間違いないと思われる。

 

われわれが行為する時、その裏には理由があるとされる。では、理由はどのように行為に関係しているのか。その1つの答えとしてビットナーが提出するのが、「行為の際に基づく原理がその理由の役目を務めている」というものである。カント自身は明確に行為の理由について語ってはいないが、実践理性と格率について論じるカントは、その代表的思想家とみなされる。

カントの行為論の中心にある考えは、すべての行為は格率に基づいて行われるというものである。カントが明確に格率にすべての行為が基づいていると述べてはいないが、定言命法の方式「汝の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」を見ればそれが示されていることがわかる。定言命法はすべての行為に対して適用されるものであるから、すべての行為には1つだけ格率が対応しているはずである[1]。もし1つの行為に複数の格率が認められるならば、行為が善だったり悪だったりすることになってしまう。それゆえ、すべての行為にはたった1つだけ格率が存することになる[2]。しかし逆に言えば、ある格率に基づいた行為はいくつか存在するかもしれない。

そこで、理由があって行為することを理解するためには、カントの格率概念を理解する必要がある。カントによれば格率とは「行為の主観的原理」である(GMS 420n)。第一に、格率は原理である。格率はある状況下で行為者が何をなすべきかを規定している。第二に、格率は「主観的な」原理である。これが意味するところは多岐にわたる。1つ目は、格率が信念のように、誰かがもっているものであることを意味する。たとえ同じ格率をもっている人がいたとしても、それはたまたま同じ信念をもっていたのと同じようなことである。2つ目は、どのような格率をもつかは、自分で決めているということを意味する。格率は自分で自分のものにし、手放したら自分のものではなくなる。それゆえ3つ目は、格率が行為者に対してもっている権威は、たんに主観的なものにすぎないということを意味する。その格率に従う主体はあなた以外にはいないのである。カントはこの点を際立たせるため、主観的な格率を客観的な法則との対比で語ることが多い。

格率が主観的な原理であるというとき、それが意味するのは現象の理論的説明のための自然の運動原理のようなものではなく、「行為の原理」だということだ[3]。「格率は行為することの主観的な原理である。」(GMS 420n) 行為することの原理とは、行為を生み出すためにも、行為を説明するためにも機能する。それゆえ「行為の原理」とは、「原理に基づいて行為する」ための原理である[4]

つまり格率とは、ある種の状況下でとるべきある種の行為を特定し、それに従って行為を生み出す、個人としての自己に課せられた原理のことである。そのような原理は、人が何らかの行為を遂行する理由となるかもしれない。例えば「なぜ迷惑をかけない嘘をついて困難な状況を脱しようとしないのか」と行為の理由を尋ねられたとき、「嘘をつかないのが自分の原理である」と答えたとすれば、それはたしかに適切な答えである。また、理由が行為の原点であると同時に、その行為を明晰にするものであるべきだとするならば、格率は行為の理由となるための優れた候補であるように思える。

ここで次のような反論も考えられる。もし格率が行為の理由になるとすれば、不合理な行為がなされることは奇妙に思われる。理由 (reason) がある不合理な (unreasonable) 行為となるからである。また、格率そのものも理由があって採用されるものであるから、格率が行為の理由なのでなく、格率を採用する理由が行為の理由としてみなされるべきだという指摘もある。さらに、格率の説明は、欲求 (desire) や信念 (belief) の観点によって補完される必要があるとも主張されるかもしれない。結局、なぜ行為者は自分が採用した格率に基づいて行為しているのだろうか。そう考えると、格率を遵守したいという考えがあるはずであり、それゆえ格率概念は欲求や信念に対する独立した行為の理由ではないようにも思える。

最初の反論に答えるには、理由に基づいた不合理な行為が認められることを説明する必要があるだろう。しかしそれは理由に関する説明ならどれでも認められなければならいことである。第二の点に答えるには、格率を採用することが何を意味しているのかがまだ明らかではないため、格率が理由に基づいて採用されるかどうかも明らかではない。しかし、たとえ格率が理由に基づいて採用されるとしても、行為の理由は格率ではなくその採用の理由であるという根拠はない。第三の点については、行為者の格率の説明は欲求や信念によって補完されると説明することは、たんに独断的 (dogmatic) である。行為者が格率をもっており、それに関連する状況を認識し、自分の格率を考慮してその時に適切な行為を生み出す。なぜ格率に加えて行為者の欲求等がわざわざ持ち出される必要があるのだろうか。

第三の点については、カント自身にとっては、実質的な実践的原理に基づく行為の場合は、行為者の欲求に言及することで、行為者の格率の説明を完成させる必要があるということから、さらに異論があるかもしれない (KpV: 22)。しかし、カントによればそれらを格率に採用するための条件は、先行する欲求 (prior desire) であると主張する (KpV: 21)。このとき、確かに格率は欲求に依存しており、行為の理由の説明に欲求が含まれる必要がある。

しかし、カントがある規則を自分の格率として採用するための条件として先行する欲求に言及していることは、カント的な行為者における欲求の役割についての問題を解決するものではない。どのような意味で欲求が格率の条件とされているのかを、概念的な一貫性をもって理解しなければならない。リース (Reath) とアリソン (Allison) は、欲求が意志に影響を及ぼすと考えることは、カント的な実践的自由と両立しないと主張してきた。リースとアリソンによれば、欲求が格率採用の条件であっても、格率採用は行為者の自発的な行為であることに変わりはない。これを支持するカントの記述で最も明確なものはこれである。「行為者がそれを自分の格率に取り込んでいない限り、動機づけが行為へと意志を決定することはできない。」(Rel: 24)[5] このカントの答えは、感性的に影響を受け、パトローギッシュな決定に動かされやすく、動機づけに従属する意志についてのすべてのカント的な概念に決着をつけ、それによって人間と神の意志の区別につながるものである。この答えによれば、格率の採用は自発的なものであり、それゆえ未規定でいかなる激情にも左右されない。行為者がそれを自分の格率に取り込まない限り意志を決定することができない動機づけは、実際には、意志を決定することができない動機づけである。人はしばしば、それに従った行為が自分の欲求を満たすのに役立つと期待して、その中から格率を選択する。だから、人が何をするかを選択することは、実際には彼らが欲求することとある程度相関しているが、欲求に依存しているわけではない。カント的に考えれば、何かを欲求するという理由で何かをするというのは決して真ではない。人がすることが、時として人が欲求することと一致することがあるということだけが真である[6]

格率は欲求に依存しているというタイプの反論をさらに進めて、格率の説明がカントの行為者論であることを否定することさえできる。メルボーテ (Meerbote) とハドソン (Hudson) がその筋である。彼らによると、行為の理由は手段に関する欲求と信念の組み合わせによって構成されており、その手段目的の関係を示すものが格率である。しかし彼らが依拠するのは『判断力批判』第10節「目的一般について」であるが、それは美学の文脈であり、実践的な文脈で読むのは無理があること、さらにはその箇所を行為の理由の説明として読むことも困難であることから、彼らの主張を退けることが出来る。また実践的な原理となるためには、たんなる観察に基づく手段目的関係の命題は含まれないため、ハドソンの格率の説明も無理がある。

今や問題は次の二つである。第一に「格率をもつとはどういうことか」、第二に「格率に基づいて行為するとはどういうことか」である。格率をもつということは、それに従って実際に行為がなされたことまで要求しない。全て行為者の心の中で完結することである。それゆえ格率が「行為する原理」とするカントの説明はいささか強すぎる。ある格率を持っていたとしても、生きている間にそれを提起する状況に出会わなければ、その格率に基づいて行為することは一度もないかもしれないからである。このように、格率をもつことと格率に基づいて行為することとは区別される必要がある。

以上のことから、格率をもつためには、格率に基づいて実際に行為する必要はないことは明らかである。また、格率をもつには、自分の行為が関連している規則性を示すだけでは不十分である。私たちの意図的な行為には、自分の規則にしようとはまったく思っていなかった規則性を示すこともあるからである。また、格率がたんに心の中で宣言されたものにすぎないとすればどうだろう。その場合、なぜたんに自分の心の中で誓ったものが、行為の原理である格率をもたらすかは明らかではなくなる。

このような行き詰まりを感じる中で、自然な提案はこれである。つまり、格率をもつことは、その格率に従って行為したいと思うことである。しかし、格率に従って行為することは遵守と適合として理解されうるということは曖昧である。そもそも私たちは格率をもつという考えがまだよくわかっていないので、説明は一周してしまう。そこで答えとしては、格率をもつとは、自分の行為が格率において指定された規則性を示すことを望むことであると言うことができるが、これも間違っているように思われる。なぜなら、自分の行為がこうあって欲しいと望むことと、そのように行為することを自分の規則にすることとは区別されるからである。また、格率をもつにはそれが示す行為が可能であるという信念が必要だとかんがえることもできるが、それも弱すぎる条件である。

そこで「望む (to want)」ではなく「意図する (to intend)」ということが格率をもつことの分析の鍵となると期待するかもしない。つまり、格率をもつとは格率に従って行為することを意図することであると示唆することができるかもしれない。しかしこれにも2つ問題がある。第一に、意図せず行為をすることがありうるため、そうすると全ての行為に格率が存するという主張が維持できなくなる。第二に、格率はそれをもっている行為者に対して拘束力を持つのに対し、たんに意図することにはそのような力はない。確かに格率の拘束力は行為者がいつでも破棄できる不思議な類の拘束ではあるが、拘束はされる。カントが「自己自身課した規則」(GMS: 438) ということにそれが示されている。しかし行為者は自分が以前に意図したことに拘束されることはない。したがって、格率をもつということを意図の観点から解明することもできない。

これが正しければ、ある規則に従って行為しようと意図することは、格率をもつことの説明には不要であることを示している。しかし、規則に従って行為しようと意図することは、十分条件ではなくとも、必要条件であるように思える。『宗教論』によれば、格率の受容は、格率に従った行為の「形式的根拠」であるという(Rel: 31)。ある規則は形式を満たすだけであり、その後に実行の問題があるのである。

この読み方は、カントの宗教論での奇妙に見える議論を説明するものである。宗教論でカントは、善いものになろうとする努力は永続的なものであり、人間にとっては漸次的な進歩だとしながら、神から見ればその無限の進歩は一として捉えられるがゆえに、彼は現実に善い人間であるとされると述べる(Rel: 47-48)。格率をもつことを行為の形式的根拠とする考えによれば、善い格率を選択した者は、すでに行為者としての形式においては善なのである。それは当然、実際に善いことをする必要はないことを意味するわけではない。その場合は、その行為者は善の形式をそもそも持っていなかったということになるからである。

このことは、ある格率をもつということは、時が来ればその格率で示される行為をすることを自分自身に負っていると表現できる。格率をもつ者は、格率を採用することで、自分自身にすべきことを負ったのであり、その意味で自分自身に負債 (debt) を課したのである。

これは格率をもつことに関する最良の説明であるように思われるが、まだ十分ではない。善い形式をもっていることは経験によって実証されないし、それを見ることができる神の存在も実証できないからである。また、自分で自分に課す拘束が何なのかも私たちにはわからない。結局私たちは、ある人が格率を採用したという事実から、その人の真意を知ることはできない。問題は、格率をもっているということが何を意味しているのかまだよくわからないということに尽きる。

 

ここではこれまでの議論に反して、格率をもつとは何かを知っているとする。今や問題は、格率をもつことと格率に基づいて行為することの関係である。

『基礎づけ』(GMS: 412)によると、自然物は法則によって記述されるだけだが、行為者は法則に適合する行為を生み出すことができる。つまり行為はたんに法則によって記述されるだけではない。行為者は法則を意識して、法則の観念に従って行為する必要がある。それは原理に従って行為することであり、これが格率と呼ばれる原理である。

このように、「格率に基づいて行為するとは何か」という問いに対する答えは、『基礎づけ』に含まれている。法則から行為を導くには理性が必要であり、法則から行為を導くことは意志が行うことであると理解されることで、意志と実践理性が同一視される。要するに意志とは、格率に基づいた行為を行う能力である。この一節の暗黙の主張は「格率に基づいて行為することは、法則から行為を導くことである」ということである。哲学的には。導くことは推論することであり、カントの見解では理性は推論する能力である。カントの「格率に基づいて行為」という理論は、伝統的な実践的三段論法の教説である。

次に格率に基づいて行為することが実際にどうはたらいているかである。ある規則を自分の格率に採用している行為者がいるとする。さて、格率が行為を指定する状況があり、行為者がその状況に気づくと、格率から結論(=行為)を推論する。この推論は、格率から行為を導出するということである。

「格率」という言葉は、まさにこの三段論法的な機能を示している。"Maxima"は"major"の最上級であり、これは三段論法の大前提の標準的な用語である。

格率に基づいて行為することについてのこの説明を、人間の心の不透明性というカントの議論と整合させるのは困難である。それは、この説明では行為者が自分の格率を意識することを必要としているからである。これは行為する際にはつねに三段論法の大前提を明示的に述べなければならないということではないが、行為者は自分のもつ格率を意識できなければならない。

しかしカントは『基礎づけ』(GMS: 407) で、自分のものであれ他人のものであれ、自分がもっている格率を知ることができず、行為者でさえ、自分がどのような格率に基づいて行為していのかを知らないということを述べている。

格率に基づいて行為することのこれまでの説明と格率の不透明性との間の衝突は、前者に有利に解決されるべきである。自分がどのような格率に基づいて行為しているのかを知ることができないのであれば、道徳的に価値のある格率のみに基づいて行為することは、絶望的なものになるからである。しかしこの主張はカントの理性主義的展望とは異質のものである。カントにとって私たちがなすべきことは隠されておらず、理性の要求である道徳法則はすべての人が知っているはずだからである[7]。もしカントが次のように主張するならば、つまり、私たちは道徳的に価値のある格率を特定するための一般的な基準を知っているが、私たちがもっている格率がこれらの中にあるかどうかを知ることができないと主張するならば、説得力は弱まる。カントは「人間は道徳的意味において何であろうと、何になるべきであろうと、人間はそれに自分自身でなるに違いない、あるいはなったに違いないのである」と述べている (Rel: 44)。確かに、私たちは時折、自分の格率について不明確になることがあるかもしれないが、もし私たちがそれについて不明確であること以外に何もできないのであれば、それは道徳的な展望にとって壊滅的なものになるだろう。最近、オノラ・オニールは、格率の不透明性は、道徳的に価値のある原理に生きようとする私たちの努力を損なうことはないことを示唆した[8]。しかし、なぜそう言えるのか理解するのはまた難しい。例えばカントは、不透明性を拒否している記述もある。

 

快活な気分なしには、人は自分が善を好きになったことも、つまり善を自らの格率のうちに採用したことも、確信できないのである。(Rel: 24n)

 

これを見ると、心の快活な状態では、善を自分の格率に取り入れることができたと確信することができる。

 

さて、格率から行為を推論することは可能であるか。実践的三段論法の結論は行為であるとするアリストテレスの主張を意味づけることが困難であることはよく知られている。いかにして行為は推論されるのか。いや、推論はされえないのである。実践的三段論法は、格率に基づいて行為することの実行可能性の説明ではない。格率に基づいて行為することは、格率から結論を導き出すことであると考える必要はない。

 

カントによれば、「人間の悟性の普遍的なものによって特殊的なものは規定されない」(KdU: 406)。それゆえ、最初の説明で述べられたことに反して、格率は、あれこれの状況でどのような特定のことをすべきかを決定するものではない。何をすべきかを決定するためには、それとは別に判断力が必要である。ここで必要とされる判断力は、「規則の下に包摂する能力、すなわち、あるものがある規則の場合(casus datae legis)であるかどうかを区別する能力」である (KrV: A132/B171)。つまり、判断力は、状況に規則を適用する。実践的な三段論法において、前提から結論を導き出すものである。そして、格率に基づいて行為するためには、第一に、格率を保持すること、 第二に、状況に注意を払うこと、しかし、第三に、そして独立して、判断力によって、知覚された状況に対して特定の行為を選択することを必要とする。つまり、一度自分の格率が位置づけられ、その状況が何であるかを認識すると、その格率に基づいて行為することを説明するのは判断力なのである。これはオニールの見解である。判断力について、彼女は、「原理が特定のケースに適用されるとき、常に必要とされる」と述べている[9]

この答えは、格率に基づいて行為するとは何かという問いに対するものである。最初の説明の妥当性は、規則と行為との間にギャップがないことをあてにしている。アリストテレスの見解によれば、規則が行為を規定するために得られる状況を知覚するだけで、行為の実行には十分であり、それ以上のものは必要ない。しかしカントにとっては、それ以上のもの、すなわち判断力が必要とされる。

私たちの悟性は普遍的なものによって特殊的なものを規定できないという考えは、『判断力批判』においては基本的な枠組みであるが、カントはこの考えを行為の問題に適用することに熱心に取り組んではいない。カントの批判期の著作では、格率に基づいて行為することの説明としては、実践的三段論法が支配的である[10]。カントが判断力の説明を行為の問題にあまり組み入れなかったのは、次のような事情があったのだろう。カントによれば、優れた判断を下すのには、二つの要素が必要であるという。1つ目は「豊かな経験」によって磨かれることである。しかしこれはカントにとってあまり歓迎されない帰結である。なぜならそれは、「正直で善良であり、賢く徳のある人間になるために何をすべきかを知るためには、知識も哲学も必要ない」(GMS: 404) という彼の信念と衝突するからである。行為に至るまでにそのような判断力が要求されるとなると、経験の未熟さは道徳的な欠点となってしまう。2つ目は、判断力は自然の賜物であるというものである (KrV: A133/B172)。これによれば、ある人は生まれながらに道徳的に優れているということになってしまう。オニールも主張するように、カントにとっては、自分の判断力がどれほど優れているかは自然には依存しない[11]。判断力は教育することができ、例えば、それは実例によって研ぎ澄まされることができる。その一方で、もしたんにこの才能を欠いているのであれば、練習しても何の役にも立たない。「この欠乏の治療法はない」 (KrV:  A134/B173)。その結果、ある人は生まれつき他の人よりも道徳的に優れているということになる。これはカントにとっては受け入れがたいことである。おそらく、カントが、格率に基づいて行為するという判断力の概念を全面的に支持しなかったのは、このような結果を考慮してのことであろう。 

しかしこれも満足のいくものではない。格率に基づいて行為することの説明は不完全である。最初の説明で想定された反論のように、三段論法の結論は行為ではない。それゆえ「規則から行為を推論すること」が何か私たちにはわからない。ここでも同様の反論が想定される。つまり「○○をすべきだ」という判断が実際の行為と関係があるのか、ということである。また、判断力が「○○すべきだ」という判断の遂行まで至るのかについてもっと知らなければならない。

カントの言葉を借りれば、普遍的なものが特殊的なものを規定しない場合、適切な小前提をもった規則が、特定の行為を指令しない場合、規則がその過程でもつ意味が不明瞭になる。規則の適用とは何であるかが不明瞭になるのだ。規則以外に独立した能力を必要とするならば、そこに適用の真の問題はない。規則が適用の問題を含んでいないからである。

次のことは正しい。すなわち行為者が直面する状況がどのようか状況であるかを認識することはしばしば困難であるということである。オニールはこの点について説得力を持って述べている。「自分の状況がある特定の細目 (specification) を持っていると瞬時に認識できると仮定することは、行為者が直面している苦境を単純化し、実際には偽装している。」[12]しかし、自分の状況を理解するという問題は、適用の問題ではない。それは認識の問題である。ある状況を見極めるためには、実践が必要であり、教育が必要である。しかしそれは、自分の格率に従って、この状況で何をすべきかを考え出すこととは別個の、その前段階での達成である。したがって、格率に基づいて行為するとは何かを説明するという課題とは無関係である。

私たちは適用な小前提を見つける難しさを、誤って適用の問題と考えてしまうことがある。前段階の認識の問題が適用の問題と勘違いされることで、そこには判断力という特別な能力が必要とされるように思えてしまうのだ。

結局のところ、適用の問題に判断力は必要ない。状況をしっかり認識し、規則を理解していれば、それを適用することは可能であり、追加のステップは必要ない。判断力の説明は、格率に基づいて行為することが何であるかを説明するための2つと試みのうちの一つであり、現在は失敗している。結局私たちは格率に基づいて行為することを理解していない。これまでとは別の説明が必要なのだ。

 

カントの著作からの引用はアカデミー版カント全集のものを示す。ただし『純粋理性批判』からの引用は第一版をA、第二版をBで示し、その頁数を付す。なお、カントの著作は以下の略称を用いることとする。

KrV:『純粋理性批判

GMS:『道徳の形而上学の基礎づけ』

KpV:『実践理性批判

KdU:『判断力批判

Rel:『たんなる理性の限界内における宗教』

 

本文中に登場した参考文献だけ示す。

Allison, Henry E. (1990). Kant's Theory of Freedom. Cambridge: Cambridge University Press.

O'Neill, Onora (1989). "Kant after Virtue," in O'Neill, Constructiom of Reason. Cambridge: Cambridge University Press.

---. (1989). "The Power of Example," in O'Neill, Constructions of Reason. Cambridge: Cambridge University Press.

---. (1996). "Kant's Virtues," in Roger Crisp, ed., How Should One Live? Oxford: Clarendon Press.

 

[1] この主張はオニールのKant after Virtue p. 151にもある。

[2] アリソンはKant's Theory of Freedom p. 94で、行為者がそれに基づいて行為している1つの格率と、背景条件として暗黙に働いている諸格率を区別している。

[3] この区別はKpV 19-20にある。

[4] このタイトルでオニールの初期のカント的な行為者概念の研究が出版されている。これはオニールのActing on Principleを指している。2013年に第二版が出版されている。

[5] これはアリソンによって取り込みテーゼ (incorporation thesis) と呼ばれるもの

[6] 一致する(Übereinstimmung)は、カントが『基礎づけ』で格率と傾向性の関係を特徴づけるための第三の例で使うフレーズである。(GMS: 423)

[7] GMS: 403, 404, 411. KpV: 35, 36、理性の事実としてこの説が強調されるのはKpV: 31。

[8] O'neill, Kant's virtue pp.90, 95.

[9] O'Neill, "The Power of Example," p. 167

[10] GMS: 412, 427. しかしGMS: 389では「経験によって鋭くされた判断力」の議論がある。

[11] O'Neill, "The Power of Example," p. 167

[12] O'Neill, "The Power of Example," p. 181.