哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解④

第二章 ①[Ⅳ, 406-412]

 

二章のタイトル:通俗的道徳哲学から人倫の形而上学への移り行き

*今回扱う箇所は一章を振り返って二章の議論へ移行するための準備みたいなもの

 

義務に基づいた行為への正当な疑問

一言で言ってしまえば、本当にそんな行為あるんか?という疑問

   ⇩

義務に合致した行為はあっても、それが本当に義務に基づいた行為なのか?

☞義務に基づいた行為を経験的に明らかにすることはできないことはカントも認める

「実際、ともかく義務に適合しているある行為の格率が、まったく道徳的根拠と義務の表象とにのみ基づいていた、という場合を、ただのひとつでも、経験によって完全に確実に取り出すことは不可能なのである。」(Ⅳ, 407)

☞人間の心の不可知、人間の自己欺瞞的性格

*カントの他の著作での記述を見ても、本当に義務に基づいた行為なのか究極的にはわからないということはむしろ強調されている。

cf.「行為の適法性についてはまったく疑わしいところがないにしても、ただ一つの行為においてでさえ、自分の道徳的意図の純粋さと心術の純真さとを完全に確信しうるほどに、自己自身の心の奥深くを見通すということは、人間には不可能」(『道徳の形而上学』Ⅵ, 392)

    ⇩

「実際、吟味を大いに働かせることによってさえ、隠された刺激を完全に明らかにすることは決してできない。なぜなら、道徳的価値が問題である場合、目に見える行為が問題なのではなく、目に見えない行為のかの内的な原理が問題だからである。」(Ⅳ, 407)

ここで言われている内的原理とは格率のこと

 

★カント倫理学のポイント 

格率の観察不可能さはカント倫理学を損なうか

仮に自分の本当の格率が何であるか判明しないとしても、人間の実践におけるスタンスはさして変わらない。カント倫理学における実践哲学上の目標は、自分の格率が普遍的法則と一致するように吟味し、義務に基づいて行為することである。そのために、自分の真の格率が何であるかを明らかにすることが達成されなければならないということには必ずしもならない。要求されるのはあくまでも、自分が従っている格率を徹底的に反省し、普遍化可能性を吟味することを通して、何をすべきかを考えることである。

*カントに対して、動機なんて本当のところどうかわからないんだから、カントの主張は有効ではない、と批判を寄せた論者もいた(カルヴェなど)が、カントはむしろそれを十分に認めたうえで議論している。

☞「まったく利己心なく自分の義務を遂行したとまちがいなく意識できる人などいないだろうということ、このことは私もすすんで認めよう。」(『理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』Ⅷ, 284)

     ⇩

自分が本当に義務に基づいて行為したのか十全的に確認することができなくてもいいということはカントが明示的に述べてもいる。

☞「自分自身を入念に調べてみて、混入してくる他の動機が何一つないだけでなく、義務の理念に対立する多くの動機に関してはそれを否定しており、それゆえ今述べたような純粋さに向かって努力するという格率を持っていると自覚することが自分に出来ることがわかったなら、このことは義務の遵守にとってすでに十分なのである。」(理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』Ⅷ, 285)

 

義務を守るための信念

この世に真の徳が存在するのか?という疑問は無理はないが、そんなものはないんだ!と結論する必要はない。

   ⇩

義務についてのわれわれの理念の全面的崩壊を防ぐための必要なのは次の信念

☞純粋に義務に基づいた行為が現実には一度もなく、それゆえいかなる実例もないとしても、それでも理性によってそのような行為は命じられている、という信念

*ここで言われている「信念 Überzeugung」には注意が必要。信念といわれると、その人が何の根拠もなく信じているよう感じがあるが、むしろカントがÜberzeugungで示しているのは、「客観的な根拠をもった確信」であって、主観的な根拠しか持たないものは「説得 Überredung」として区別される(『純粋理性批判』(A820/B848))。

 

道徳法則の必然性

道徳法則は人間だけでなく、理性的存在者一般に妥当するものである。

☞経験によっては究明不可能

 

道徳を実例から導いてはいけない

「私に示されるすべての実例は、それ自身、前もって道徳性の原理に従って、根源的な実例として、すなわち模範としてふさわしいかどうか判定されなければならず、実例が道徳性の概念を提供することは決してありえないからである。」(Ⅳ, 408)

☞道徳的だなと思えるような人から道徳を導くのではなく、先立って道徳の原理があり、その原理に照らしてはじめてその人が道徳の実例であると判定される。

*カントは道徳教育においてかなり実例の意義を積極的に認めている。

 ☞「実例はただ励ましのために役立つだけである」「法則の命ずるところが実行可能であることを明かにする」という記述はその裏返しとも読める。

 

道徳の形而上学

以上のことから、道徳の真実な最高原理がただ純粋理性にのみ基づかなければならない。

☞そうだとすれば、人々が好まないとしても道徳の形而上学が必要である。

*通俗哲学へ降りていくとしても、まずは形而上学的に基礎づけなければならない。

 

道徳の形而上学の必要性

☞義務の規則を実際に実現するためにも不可欠

純粋な道徳法則の表象は、他の感性的刺激を凌ぐ強力な動機になる

*おそらくこの議論は『実践理性批判』の「純粋実践理性の諸動機について」でより詳細に言及されている。

 ☞意志が道徳法則によって規定された場合、感性的刺激や傾向性がすべて否定される、という議論。さらにここで「道徳法則への尊敬の感情」がたんなる感情ではないことが明確に示される。

まとめると、すべての道徳的概念はアプリオリに理性のうちに源泉をもち、それゆえ経験的認識から取り出されえないこと、道徳的概念の尊厳性はその純粋さのうちに存すること、経験的概念が混ざると無制限な価値が損なわれること、などが確認される。

 

第二章の本番前夜

第一章で試みられた常識的な道徳的判定から哲学的な道徳的判定へと、まったく経験に頼らない形而上学へと進んでいくためには、義務の概念の発生地点を追跡する。