カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解③
第一章後半[Ⅳ, 397-405]
〇生命を維持する義務
人間は生命維持への直接的な傾向性をもっている。
☞たんに生命維持をすることは義務とはいえない(=道徳的な内容を持っているとは限らない)。
・では、どのような場合に道徳的な内容を持つのか
(厳密に言うと、道徳的な内容を持っているとわかりやすいか)
☞どんなに失望しても、義務に基づいて声明を維持する場合
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「この人の格率は道徳的内容をもつ。」(Ⅳ, 398)
*格率とは「意欲の主観的原理」(Ⅳ, 401 Anm.)であり、「行為することの主観的原理」(Ⅳ, 421 Anm.)であり、「主体がそれに従って行為する原則」(ibid.) であり、「自分自身に課した規則」(Ⅳ, 438) である。
〇他人に親切を尽くす義務
同情心に富んで他人を助けることに喜びを覚えるような人が親切をしても、真に道徳的な内容をもたない。(傾向性と同類)
☞「この格率は道徳的内実、すなわちそのような傾向性に基づいてではなく、義務に基づいて行うという道徳的内実に欠けるからである。」(Ⅳ, 398)
*ここでも、ただ義務に基づいていることが道徳的に価値をもつといわれる。
◎注意点
カントがここで挙げている例を見ると、傾向性があれば道徳的価値が台無しになるかのような語られ方をしているが、そうではない。カントがこの例において試みていることは、行為の道徳的価値が明白になる状況を記述することにすぎず、行為が道徳的価値を有しうるのは傾向性が不在の場合だけであると主張しているわけではない。つまり、ここでの文脈は、「行為が義務に合致しているとともに、行為主体がその上その行為への直接な傾向性をもっている場合」には、義務に基づいた行為かたんに義務に合致している行為か見分けがつきにくい、という話の例示である。つまり、特に親切の義務において顕著だが、その義務を遂行する主体が、それを義務であるがゆえになした場合に道徳的内容をもつことをわかりやすく例示しているだけであると思われる。すなわち、義務とは基本的に客観的強制であり、いやいやな行為であることがある種その徴となるため、「その行為がしたいという気持ち(傾向性)はないが、しかしそれでも義務であるがゆえにしなければならない」という事態を描き出すことで義務の概念を際立たせることだけが、カントの意図だったのではないか。カントは確かに同情心に無条件な善を認めることはない。しかしだからといって、それが伴っていれば必ず義務に基づいた行為にはなりえないと主張しているわけではないだろう。その行為に同情心が伴うと必ず義務に基づくことができない(=道徳的価値をもたない)、という主張がされているわけではない。少なくとも、そのようなある種の感情的側面が道徳的価値を完全に台無しにしてしまうものであるとカントは考えていなかった。
〇自分の幸福を確保する義務
☞「間接的には義務」(Ⅳ, 399)
幸福(=傾向性の満足の総体)は人間がすでに求めるものだから、それへと義務づけられることはない。しかし、自分の幸福が十分に確保されていないと、「義務の違反への大きな誘惑となりやすい」から、間接的には義務なのである。
〇隣人愛の解釈
・「隣人を愛せ」という命令は義務か
☞感情的愛ではなく実践的愛の場合、命令されうる。
〇道徳的価値の所在と非帰結主義
「義務に基づいた行為は、その道徳的価値を、行為を通して達成されるべき意図のうちではなく、行為がそれに従って決心される格率のうちにあるのであって、行為の対象の実現に左右されるのではなく、たんに意欲の原理に左右され、それに従って、行為はすべての欲求能力の対象を顧慮せずになされる。」(Ⅳ, 399-400)
☞達成される目的や結果にではなく、その行為の源泉にある方針・原理としての格率のうちに道徳的価値が存する。
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行為の目的の実現関係なしに、義務に基づいてなされるなら、意志はたんに形式的な原理によって規定されるしかない。(一方、対象の実現のために意志が規定されるなら、実質的な原理によって規定される。)
*ここで第二の命題に入っているが、第一の命題が明示されてはいない。カントのうっかりさんめ!という感じだが、内容的に考えて第一の命題は「義務に合致している行為ではなく、義務に基づいた行為のみが、道徳的価値をもつ」というものだと考えてよいだろう。
〇義務と尊敬
二つの命題からの帰結として提示される命題が以下のものである。
「義務は、法則への尊敬に基づいた行為の必然性である。」(Ⅳ, 400)
これは一見解釈が難しいが、おそらくこうである。
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原文を見るとまず、義務とは行為の必然性である(Pflicht ist die Notwendigkeit einer Handlung)、ということが言われる。義務の行為は誰もが必ず行わなければならないということだが、ここではまさに法則が意識されている。そして、必然性の根拠である法則を意識した際に主観に生じるものが尊敬である、ということではないだろうか。
・なぜ、上二つの命題から導かれるのか
第一の命題→義務に基づいた行為は傾向性にもとづかない
第二の命題→義務に基づいた行為は行為の対象の実現にかかわらない
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第三の命題→義務に基づいた行為の意志を規定するものは、法則以外ありえない
「義務に基づいた行為は傾向性の影響を、そしてそれとともに意志のあらゆる対象を完全に分離させるから、意志を規定しうるものとして意志に残されるのは、客観的には法則であり、主観的には実践的法則にたいする純粋な尊敬、すなわち、そのような法則に、私のすべての傾向性の中断を伴ってでさえも服従するという格率である。」(Ⅳ, 400-401)
*「尊敬 Achtung」概念はカント実践哲学のキータームの一つだが、このテクストだけではなかなか難しいところがある。他のいわゆる感性的感情を持ち出しながら、意志が理性によって直接規定された場合の心の働きを叙述した『実践理性批判』の動機論を合わせて読む必要がある。
〇尊敬の対象は法則
「意志のうちにある最高かつ無条件な善」=善意志の善さ
☞法則の表象それ自体が意志の規定根拠であるかぎり、法則の表象がそのような善を形成する。つまり、善意志の善さの源泉は道徳法則であるといえそう。
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善意志=法則の表象によってのみ規定される意志
「この卓越した善は、法則の表象にしたがって行為する人格自体の中にすでに現にある」(Ⅳ, 401)
注2 尊敬について
法則を意識することで理性概念によって引き起こされる知的な感情→「尊敬」
*感性的な感情ではない
「尊敬とは……ある法則のもとに服従することの意識を意味する。」(Ⅳ, 401)
「法則による意志の直接的な規定と、その規定の意識が、尊敬と呼ばれ、したがって、主体に対する法則の結果としてみなされ、法則の原因とはみなされない。(Ⅳ, 401)
*法則の実例である人格への尊敬(尊敬の対象はあくまで法則)
〇頼みとなるのは法則の形式のみ
実質的な対象を取り除いたいま、意志の原理としてはたらくのは法則性だけ
「私は、「私の格率が普遍的法則となるべきことを私も意欲することができる」というものとして以外には決して振舞ってはいけない。」(Ⅳ, 402)
☞行為は格率からなされるため、その行為が法則性を帯びるためには、格率が普遍的法則となりうることが吟味される必要がある。
〇「偽りの約束」の例
「偽りの約束をすることが義務に適うかどうか」→義務違反
なぜ義務違反(すべきでない)かを知るための自問
☞「偽りの約束をするという格率は普遍的法則になりうるか」
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そのように意欲することはできない(約束が成立しない)
〇格率の普遍化テスト
道徳的に善であるために何をすべきかを知るには、格率の普遍化テストをするだけでよい。
「私は次のように自問するだけである。「君の格率が普遍的な法則となることを意欲できるか。」もしできなければ、その格率は退けるべきである。」(Ⅳ, 403)
★善い意志の条件は義務である
☞ここに善意志の善さが義務を根底にして成り立つことが示唆される。
言い換えれば、義務に基づいた行為する意志を善意志といってよい。義務が、さらに言えば定言命法が善であることを示そうとする議論は第二章の仕事。
〇常識から道徳の原理への到達
確認されたように、格率の普遍化テストは常識による判定と一致する。
☞常に念頭に置いているわけではないが、道徳的判定の基準として用いている。
(=羅針盤)
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道徳の原理(格率の普遍化)は、常識の中にすでにある原理に注意を向けさせ、気づかせるだけでよい。
*常識でうまくいくなら、哲学によって探究する必要はないのでは?
〇素朴さは腐敗しやすい
実践的判断に対するカントの常識への信頼は厚いが、常識のもつ素朴さは危ういものである。
☞「無垢を十分には維持させることはできず、簡単にそそのかされる。」(Ⅳ, 405)
人間は感性的な存在でもあるので、「理性が人間に大いに尊敬することに値するものとして表象させるあらゆる義務の命令に対して強大な反発を感じる。」(Ⅳ, 405)
☞欲望や傾向性の反抗
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それを抑えて理性は指令する
⇩ 自然の弁証論へ
「義務のかの厳格な法則に対して屁理屈をこね、その妥当性を、少なくともその純粋さと厳格を疑いにかけ、そしてその法則をできるなら私たちの願望や傾向性により適合したものにしようという性向」(Ⅳ, 405)
☞「義務の法則を根底から腐敗させる」(Ⅳ, 405)
=道徳を腐敗させる
こうならないようにするためには、常識さえあればOKとはならない。
☞実践哲学の領域へ
⇩なんのためか
常識が「普通の人間理性が、相互の言葉から生じる困惑から脱し、自らが陥りやすいあいまいさによって、真正な道徳的な原則が奪われるという危険を冒さないため」(Ⅳ, 405)
*こうして道徳についての哲学的探究が二章に託される