哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解➁

第一章前半 [Ⅳ 393-397

 

第一章の道筋

☞常識で理解できる道徳性としての善意志の概念から分析的に義務の概念に至り、義務に基づいた行為のみに道徳的価値が認められるとする。

 

善意志

「世界のうちに、いやそれどころか世界の外であっても、無制限に善いとみなされうるものがあるとすれば、それはただ善い意志以外にありえない。」(Ⅳ, 393)

☞これはあまりにも有名な一節である。

 

*注解

善意志の善さについての含意

原文

Es ist überall nichts in der Welt, ja überhaupt auch außer derselben zu denken möglich, was ohne Einschränkung für gut könnte gehalten werden, als allein ein guter Wille. (Ⅳ, 394)

よく見ると書き方がかなり回りくどい。ohne Einschränkung für gut könnte gehalten werdenはまず接続法Ⅱ式(非現実)で語られている上に、für … gehalten werden「…とみなされる」と表現されている。「無制限に善いものがあるとすれば、善意志以外ではない」という書き方からは、ここでは「善意志」そのものの善さを支える根拠を示すことはできない、というカントの含意が見られると思われる。カントさん、それでいいの?と思うかもしれないが (私は思った)、カントの第一章での意図は、常識から出発するもの。つまり、とりあえずは絶対的善さをもちうるものは善意志以外考えられないですよね、と語りだしているのだと考えられる。

ただもちろんカントは、常識を働かせさえすればOKとしたわけではないので、その後二章に至るまで、注意深く見る必要はある。善意志の善さを常識に任せて放棄するわけではなく、その後、義務の概念の導入によって議論は展開されていき、最後は自律的な意志の導入によってやっと説明されることになる。

 

*注意点

カントが『基礎づけ』第一章で導入する善意志についての主張は、常識による判断の表現として提示されているのであって、この主張そのものに説得力はない。あくまでここでのカントの主眼は、善い意志という概念を分析することにある。

 

*ポイント

カントは善意志だけが絶対的な善であり、それ以外の善と呼ばれるもの[精神の才能:判断力など、気質のもつ特質:勇気など]は真の善ではないとする。

☞カントはそれらがまったく善ではないと断定しているわけではなく、意志が善くなければそれらは偶然的に悪になりうることを注意している。

(一応性質は善意志の促進を助けることも考えられている。少なくとも、無制限に善いとはいえないだけ。)

 ☞なぜなら「善い意志の原則を欠くならば、それらはきわめて悪いものになりうるから」である。(Ⅳ, 394)

 例)悪い意志をもった強盗=より巧みに盗みを働く

 

カントの反帰結主義

・善い意志が善いといわれるのは、結果に依存せず、ただその意志作用のみによる。

 ☞「それ自体によって善いのである。」(Ⅳ, 394)

 ☞「善い意志は宝石のように、自らのうちに全価値をもつものとしてそれ自身だけで輝いている。」(Ⅳ, 394)

*たまに勘違いする人がいるが、カントは別に意志さえ善ければ結果はどうでもいいなどと考えているわけではなく、その結果に左右されず、あるいはたとえ善い帰結にならなくても、善意志の価値は失われることはないと指摘しているにすぎない。

 

納得できない人へ

なぜ自然が私たちに理性を支配者として加えたのか、という疑問を吟味してみよう。

人間…有機組織を持つ(=生きるという目的に適った組織をもっている)

☞こういう存在にとっては、目的を実現するための道具はふさわしく適切なものである。身体的器官はすべてそれぞれの目的の実現に適当な形で組織され、一つの生命体を構成している。

・人間の目的が幸福であると仮定

 ☞理性を与えたことは誤り

 なぜなら、幸福を目指すなら理性よりも本能の方がはるかに優れた道具になるから。

*幸福=傾向性の総量、すべての傾向性が満足していること

「幸福=すべての傾向性の総和という自然的目的(der natürlichen Zweck der Summe aller Neigungen, die Glücklichkeit)」(『判断力批判』 Ⅴ, 434 Anm)

 

なぜ人間には理性が実践的能力として与えられているのか

幸福のためだけなら理性は役に立たないどころか邪魔である。

   ⇩

「理性嫌い(ミソロギ―)が、すなわち理性の嫌悪」(Ⅳ, 395)

 ☞理性の使用に関して経験を積んだ人は、結局幸福になれなかった(余計に苦労した)として、あまり理性の支配を受けない平凡な人をうらやんだりする。

*この理性嫌いの人たちの判断の根底には、理性は完全に幸福をではなく別のもっと高い価値をもつ意図のために向けられている、という考えが潜んでいる。

このように理性は幸福には役立たないのに、なぜ意志を動かす力として与えられたのか。

   ⇩

・理性の真の任務は、ある種の目的論的使用ではない。

・理性の真の任務は、それ自体として善い意志を生みだすことである。

この理性の開発は、(少なくともこの世では)幸福の達成を妨げることはあるが、これによって自然が自らの目的に反するやり方をしているわけではない。

☞「理性は、自らの最高の実践的規定を善い意志の根拠づけのうちに認めており、この意図の達成によって、自分に特有の種類の満足を、すなわちただ理性が規定する目的を実現することから生じる満足をもちうる」からである。(Ⅳ, 396)

   ⇩

つまりカントによれば、人間に理性が与えられたのはただ生きるのではなく、善く生きるためである、といえるだろう。

 

道徳と自然の目的論的関連

理性も本能も、生物としての有機的存在に具わる能力は、すべて合目的的だとカントは考えている。理性は善い意志をもたらすという目的に適っており、本能は幸福という目的に適っている。

 

義務の概念の導入

自体的に善い意志の概念の内容を明らかにするために、義務の概念が取り上げられる。

「義務の概念は善い意志の概念をある主観的な制限と傷害のもとではあるが含んでいて、しかしその制限や障害は、善い意志の概念を隠したり見分けにくくしたりするどころか、かえって対照によって善い意志の概念をよりいっそう明らかに際立たせる。」(Ⅳ, 397)

☞人間にとって善い意志は、制限や障害(=義務違反の誘惑)との対照によって際立つ。

・義務違反の誘惑がある理由

☞人間は善い意志に対抗する自然的な刺激や傾向性が伴うから

   ⇩

それゆえ、客観的強制を伴う義務の概念が善い意志の説明に取り入れられる

*当然、神は義務違反へ傾くことがないので、善い意志は義務の概念に含まれない。

 

「義務に合致する行為」「義務に基づいた行為」

ここで、後に適法性と道徳性として概念化されるカント倫理学の基本的な区別が導入され、それを見極めるための例が提示される。

分かりやすく言えば以下のように区別される。

義務に合致する行為」……外見上、義務が命ずる行為を行っている。必ずしも、それが義務だからではなく、利益のために行為しているかもしれない。

義務に基づいた行為」……外見上、義務が命ずる行為を行っているだけでなく、それがただ義務であるということだけで行為している。

・カントが問題とする行為

この区別の見分けが簡単につかない行為

=行為が義務に合致しており、それへの直接的な傾向性をもつ場合、すなわち「すべし」と「したい」が一致している行為

*若干分かりづらいのだが、この直後でカントが提示する小売商人の例は、「行為が義務に合致しており、それへの直接的な傾向性はもたないが間接的な傾向性をもつ」場合の例である。だからすぐ見分けがついている。

次回、カントが用いるいくつかの具体例から、義務の内実に迫る。