哲学なんて知らないはやくん

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カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解➀

『道徳形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』) の底本としてはアカデミー版カント全集を用い、引用については巻数をローマ数字、頁数をアラビア数字で示す。翻訳は基本自分のものであるが、参考にした訳としては以文社の宇都宮訳、岩波版カント全集の平田訳である。他のカントの著作を参照する場合も、同様の引用指示をする。

 

本書の特徴

『基礎づけ』のテーマ:道徳、あるいは倫理学の基礎を確立すること

 ☞「道徳性の最高原理を探究し確定すること」(Ⅳ, 392)

*本書において語られるのは、人間一般ではなく理性的存在者一般という点に注意

 →人間存在が議論の埒外に置かれるということではない。理性的存在者としての人間が主題になっている。

 

序言(Vorrede)[Ⅳ, 387-392

カントによる哲学の分類

まずカントは古代ギリシャ以来の哲学の区分(ストア学派の区分)を紹介したうえで、なぜこのように区分されるのか、という説明を与える。

 

・形式的哲学——論理学

・実質的哲学——自然学と倫理学

・自然学——合理的部門(=自然の形而上学)/経験的部門

倫理学——合理的部門(=道徳の形而上学)/経験的部門(=実践的人間学)

 

自然学と倫理学(道徳哲学)は合理的部門と経験的部門をもつ

*経験的部門をもつのはある現象の対象に向かうからで、その対象は法則の支配を受けている(前者―自然法則、後者―道徳法則)

 一定の対象に向かうとき(自然学と倫理学)合理的部門は形而上学と呼ばれる

  ☞道徳の形而上学がどこに位置付けられているかが判明する

 

学問の分業制?

まるでアダム・スミスでも読んだかのような労働分業の考え方を学問に適用している。

細かいところは置いといて、カントが問題にするのは次のことであるという。

「経験的部門を合理的部門から常に入念に分離し、本来の(経験的)自然学より自然の形而上学を、実践的人間学よりも人倫の形而上学を先に立てることが、学問の本性が要求するところではないだろうか」(Ⅳ, 388)

 ☞自然学も倫理学も、形而上学である以上、「すべての経験的なものから入念に純化されていなければならない」(Ⅳ, 388) からである。

本著では、上記のような試みが道徳哲学においてなされる。

 

純粋道徳哲学が必要である理由(ざっと三段階)

① 法則が道徳的なものとして妥当すべきなら、絶対的必然性を伴っていなければならない

② 「嘘をついてはならない」という命令にはすべての理性的存在者も無視できない

③ 責務の根拠は、経験的に求められてはならず、アプリオリに求められるべきである

 

人間には判断力が要請される

「すべての道徳哲学は完全に実践的認識の純粋な部門に基づいており、人間に適用されても、人間についての知識(人間学)から少しも借用することなく、むしろ理性的存在者としての人間にアプリオリな法則を与えるのである。」(Ⅳ, 389)

☞ここでは理性的存在者としての人間に限定されていることに注意。

*しかし、人間は理性的ではあるが感性的刺激も被る(=傾向性によって触発される)

それゆえ、「経験によって鋭くされた判断力」が必要とされる。

「もちろん、この法則は経験によって研ぎ澄まされた判断力を必要とするのであって、これは、法則がどのような場合に適用されるかを識別するためであり、また、法則を人間の意志に受け入れさせて、実行への力を得させるためである。」(Ⅳ, 389)

☞ここでは理性と感性の二面性をもつ人間が扱われていることに注意

この議論をカント倫理学の枠組みを先取りして解釈すると次のようになるだろうか。

   ⇩

理性的存在者は自らの格率が普遍的な法則たりうるかという吟味を経たうえで、法則を格率として採用しているという状態は、経験に依存せず理性によって、すなわちアプリオリになされている。しかし、その場面においてその法則は適用されるのかを判定するためには経験的な判断力が必要とされる。「法則を意志に受け入れさせる」ということは、法則の採用それ自体ということではなく、適用の際に実際に法則に基づいて行為させる、という意味で解されるべきであろう。道徳性の判定そのものはアプリオリなものであるが、具体的な行為に適用される場合は、「経験によって鋭くされた判断力」が必要となるというのは、重要な観点。

*人間は実践的判断力を必要とするか

カントによれば格率とは原則であるため、個別具体的な行為を指示するのではなく、ある種の行為のタイプを指示するものである。そうすると、格率に基づく行為がある特定の状況で適切かどうか判定するのに、実践的判断力が必要となる。例えば次の記述が参考になる。

「われわれにとって感性[界]において可能な行為が、この規則の下にある事例かどうかを決定するには、実践的判断力が必要であり、この判断力によって、規則において一般的に(in abstracto 抽象的に)述べられたことがある行為へと具体的に(in concreto)適用される。」(『実践理性批判』Ⅴ, 67 )

「実践にさいして、あることが規則にあてはまるかどうかは、この判断力のはたらきによって見分けられるのである。」(『理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』 Ⅷ, 275)

 

実践における道徳形而上学の必要性

・道徳的に善いと言われる条件

 ☞たんに「道徳法則に合致している」だけでなく「道徳法則のために」行われなければならない。(後の適法性と道徳性の区別へ)

     ⇩これが可能であるためには……

「道徳を正しく判定するための手引きや最高規範」(Ⅳ 390) が必要で、アプリオリな道徳法則が確立されていなければならない。

 

ヴォルフとの違い

ここで指摘されているのは、ヴォルフの『一般実践哲学』であるが、カントはこれを本来の道徳哲学ではないと評するのである。(ヴォルフと一緒にしないで!という感じ?)

☞まず必要であると考えられたアプリオリな純粋意志を考察していないから

カントの試みはヴォルフとは違って、「可能な純粋意志の理念と原理を探究」(Ⅳ 390) しようとしている。

 

常識への信頼

カントは道徳に関しては人間の常識でかなりの正確さに達すると述べている。

☞思弁理性は常識じゃまずいらしい(弁証論的になる)

純粋実践理性批判(後の『実践理性批判』)の手前の基礎づけが本著が担う役目である。

 

『基礎づけ』の仕事

最初に引用したが、ここでカントは明確に『基礎づけ』の目標を掲げる。

 ☞「道徳性の最高原理を探究し確定すること」(Ⅳ, 392)

この仕事は、他の道徳的探究から区別される独立した仕事であり、それゆえ『基礎づけ』として一冊の本にまとめられている。

*なお、「その最高原理を人倫の形而上学の善体系に適用する」試みは、後年の『道徳の形而上学』で展開される課題である。

 

『基礎づけ』の展開

・一章と二章

 ☞常識的な道徳的認識から出発→最高の原理の確定

 まずはこれを分析的に行う。つまり、常識的な道徳認識がどのような条件で成立するのかをどんどん追求していく方法で進んでいく。これは二章まで。

その進行を概念的に見ると

「善い意志」「義務」→「定言命法」→「自律」

とまあ、ざっとこんな感じである。

・三章

「この原理の吟味とその源泉から再び引き返して、その原理の使用が見出される普通の認識に総合的に戻っていく」(Ⅳ, 392) というのだが、正直本当にそうなっているのかわからない。少なくとも、自由の演繹を試みるのが第三章の大きな役割である。カント研究として、この演繹が成功したのか失敗したのかというのは注目すべき議論であり、この問題は『実践理性批判』につながる。