カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑤
第二章 ② [Ⅳ, 412-420]
〇意志=実践理性
理性的存在者だけが法則の表象に従って行為する能力[=意志]をもつ。
☞法則から行為を導き出すには理性[=原理の能力]が必要
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意志=実践理性
理性が意志を必然的に規定する場合[→人間は含まれない]
・行為は主観的にも客観的にも必然的
・意志は善と認めるもののみを選択する
理性がそれだけで意志を規定しない場合[→傾向性の影響を受ける人間]
(=意志はそれ自身で必ずしも全面的に理性に従わない)
・客観的に必然的と認められている行為が主観的には偶然的
・客観的法則は強制として示される
「意志がそれ自体で必ずしも理性に適合しているのではない(人間においては現実そうである)とすれば、客観的に必然的だと認められる行為は主観的には偶然的であり、また、そのような意志を客観的法則に適合するよう規定することは強制である。」(Ⅳ, 413)
☞人間は客観的にすべきだと認識できたとしても、それに反するような主観的条件である傾向性の誘惑を受けると、必ずそれを行なうことが保証されえない存在だから
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人間に対して客観的原理は「命法 Imperative」として意識される。
〇命法
「~べし Sollen」と表現される
☞「そのことをすることが善いと述べられても、いつもそれをするわけではない意志」に告げられる(Ⅳ, 413)。
「命法はたんに意欲一般の客観的法則があれこれの理性的存在者の意志、例えば人間の意志の主観的な不完全性に対してもつ関係を表現する形式にすぎない。」(Ⅳ, 414)
*完全に善なる意志があるとすれば…[→神的意志]
☞意志するだけで自ずから法則と一致するので、強制は不要
・仮言命法…「ある可能な行為が、みずからの意志する[あるいは意志する可能性のある]何か他のものに到達するための手段としてもつところの実践的必然性を提示する」
☞主観の条件(傾向性や経験的関心)を踏まえたうえで行為者が採用すべき適切な方針または格率を指図する。手段としての善を命じる。
・定言命法…「ひとつの行為を、他の目的への関係なしにそれだけで、客観的=必然的として提示する」
☞普遍的かつ無制約的にあらゆる行為者にその経験的関心から独立に適用される。それ自体において善である行為を命じる。
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命法が善を「命じる」のは、人間の意志が弱いからであると念押し
「たとえその主体がそのことを知っているとしても、その主体の格率が実践的理性の客観的原理に反したものでありうるからである。」(Ⅳ, 414)
〇仮言命法の分類
・蓋然的(problematisch)な実践的原理 / 実然的(assertorisch)な実践的原理
前者は可能的な意図のための手段を命じる
☞可能的な意図は、意図するかしないかはその人次第であるような意図
後者は現実的な意図のための手段を命じる
☞現実的な意図は、誰もが必ず幸福を意図しているという意味で現実的な意図。
*人間なら誰しも「現にもっている」一つの意図があり、「それは幸福を求める意図」であり、幸福を促進するための手段を命じる仮言命法は「実然的」である(Ⅳ, 415)。
・確然的(apodiktisch)な実践的原理
何かを意図するとか関係なしに行為を命じる。つまり定言命法。
「この命法は、行為の実質や行為から生じるべきことにはかかわりをもたず、それから行為自体が出てくるような行為の形式と原理にかかわる。」(Ⅳ, 416)
☞これだけが道徳の命法と呼ばれうる。
〇熟練(Geschicklichkeit)の命法:仮言命法の一種
目的が善いか悪いかを度外視して、目的に対して十分な手段を命じることだけが問題となる。
*幸福への手段を命じる熟練は思慮(Klugheit)と呼ばれる。
Klugheitの訳語としては伝統的には「怜悧」、あるいは「賢さ」などがあるが、古くはアリストテレスのフロネーシスを語源とするので、「思慮」を採用する。
〇三つの原理を整理
・熟練の規則=技術的(technisch)命法
・思慮の助言=実用的(pragmatisch)命法
・道徳の命令=道徳的(moralisch)命法
*必然性の所在
助言→それぞれ何を幸福とみなすか偶然的であるため、条件づけられた必然性
命令→傾向性に反してでも服従されなければならない法則としての無条件の必然性
〇仮言命法はいかにして可能か
・熟練の命法が可能であることを示すのは簡単
☞分析的命題だから、目的が立てられたらそれを達成するための手段が導き出されるため
*分析的命題……『純粋理性批判』によれば、矛盾律・同一律にのみよって真であると判断され、主語概念が述語概念を包摂しているため、主語を分析さえすれば述語が導かれうる命題のことを指す。
*確かに「意志に関することにおいて」分析的と言えるが、厳密には命題自体が分析的であるとまではいえない。
・思慮の命法が可能であることを示すのも熟練の命法と同様にできる
しかし、熟練の命法と違って目的に置かれる「幸福の概念が曖昧」なため、自分が幸福として何を欲しているか、またそのために何を手段として行うべきかは判明しない。
☞幸福が経験的なものであるから偶然的で定まることがない。
「彼は何らかの原則に従って彼を真に幸福にするものが何かを完全に確実に規定することはできない。そうするためには全知が必要とされるだろうからである。」(Ⅳ, 418)
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それゆえ、正確に言えば思慮の命法も命令されえない。
それは命令というよりもむしろ「理性の忠告 Rathschlägen」である。
*とはいえ、どちらも意志された目的から手段を導いているという点では分析的である。
〇定言命法はいかにして可能か
これは解決を要する問題であるとカントはいうが、解決できなかった。
定言命法が存在することを経験的に明らかにされることはない。
☞経験的に判断した場合、その定言命法には実は隠れた感性的動機があり、実はたんなる仮言命法でした、ということが考えられるから。
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「定言命法の可能性の探究は、全くアプリオリになされなければならない。」(Ⅳ, 419)
*この表明だけでここではそれがなされないのだが、少なくともカントはここで「定言命法のみが実践的法則と呼ばれうる」ことを示した。
☞法則としての実践的必然性をもつのは、何ら他の意図や目的に条件づけられずに、無条件に意志に妥当しなければならないから。
〇なぜ定言命法の可能性を明らかにするのが困難なのか
「定言命法はアプリオリな総合的=実践的命題」であるから(Ⅳ, 420)。
*アプリオリな総合命題とは?
☞総合命題は主語から述語が導出されないため、すべてが経験的、アポステリオリなものであると考えられるが、カントは『純粋理性批判』において、いかにしてアプリオリな総合命題が可能であることを示そうとしたことは有名である。なぜ定言命法がアプリオリな総合命題であるかは後に詳述を試みる。