哲学なんて知らないはやくん

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カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑧

第二章 ⑤ [Ⅳ, 440-445

 

道徳の最高原理としての意志の自律

道徳の最高原理の探究は、序言で言われたように本書の課題であったが、それが「意志の自律」であることがここで明らかになる。

☞このことは、「道徳性の概念のたんなる分析によって十分に証明されることができる」(Ⅳ, 440)

道徳の原理=定言命法定言命法=自律を命じる

*しかし、自律の原理は「総合的命題」であるから、あらゆる理性的存在者の意志が自律を命じる命法としての実践的規則に必然的に結びつけられるのはどうしてか、ということはまだ証明されない。そのためには「純粋実践理性の批判」へ進まなければならない。だが正直私には、なぜこう言われるのかよくわからない。

「意志の自律とは、それによって同じ意志が意志自身に対して(意志のあらゆる諸対象の性質から独立して)法則であるような意志の性質である。したがって自律の原理は次のようになる。意志の選択の格率が同時に普遍的法則として同一の意欲に含まれているという仕方以外で選択しない、というものである。」(Ⅳ, 440)

 

意志の性質としての自律

カントはここで意志の自律を「意志の性質(Beschaffenheit)」と定義するが、一方で自律は定言命法の方式としても導入され、また「道徳の最高原理」とも呼ばれる。カントはこのニュアンスの違いに対していささか不注意であるため、以下に可能なかぎり整理する。

・動機づけの独立性

意志の自律で最も重要な観点は、自ら立てた法則に従うという自己立法である。この自己立法の契機は、理性的存在者は格率をもつということですでに前提されていた。そして、格率を自ら形成するということからさらに進んで、ある意欲の対象を実現するための傾向性や欲望によって行為へと動機づけられず、それらから独立に純粋実践理性によって動機づけられるという性質をもった意志が、自律的な意志として位置づけられる。

・原理としての自律へ

性質としての自律の性質をもった意志が前提されることによって、道徳性を可能とする原理としての自律がはじめて論じられることになる。性質としての自律が定言命法を基礎として行為することを可能にするのであるが、同時に自律は定言命法の方式の一つでもある。

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意志の自律は、法則の形式を意識して普遍化可能な格率に従って行為するための前提されなければならない意志の性質であるとともに、まさに定言命法が命ずる内容でもある。

 

道徳のあらゆる不純な原理の源泉としての意志の他律

「意志が、自己を限定すべき法則」を「自己の外に出て対象のどれかがもつ性質の中に」求めるとき、「常に他律が生ずる」。

☞意志がまさに意志作用によって立法し、それに従うのではなく、ある対象との関係(例えば、名誉という対象を得るために何をするか、という考え方)によって意志に法則を与える。

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このとき、仮言命法しか成立しない

*「定言命法は、あらゆる対象を度外視して、対象が意志にいかなる影響も及ぼさないようにしなければならない」から。(Ⅳ, 441)

つまり何かを意欲するとき、その意欲の対象が自分にとって都合がいいから、ということを度外視して、たんに「それを意欲する格率が普遍的法則として妥当しうるか」という仕方でのみ、判定しなければならない。

 

他律の根本概念を前提するとき生じうるあらゆる道徳原理の区分

他律の区分

① 経験的:幸福の原理から生じる

 ☞自然的感情か道徳的感情を基礎とする

② 合理的:完全性の原理から生じる

 ☞可能的結果としての人間の完全性か自存的な神の完全性を基礎とする

 

経験的原理はなぜいけないか

理由1

経験的原理は法則の根拠を「人間の特殊な構造」や「人間が置かれる偶然的な事情」に置くため、道徳法則の普遍性を失わせるから。

理由2

経験的原理は「自己自身の幸福」を含むが、これは「道徳を破壊しその崇高性を無にするような動機」であるから。

☞自分の幸福を実現するためのことが善であると考えられてしまうため、そのためのずる賢さのみが求められ、「徳と悪徳の質的区分を全く消して」しまう。

 

合理的原理はなぜいけないか

理由:完全性の存在論的根拠は空虚で不定であり、ここで問題になっている道徳的完全性が説明するはずの道徳をひそかに前提することを避けられないから。

とはいえ、「道徳を神のまったく完全な意志から導く」よりはマシ。そんなことしたら「ひどい循環論」になるから。また、完全性は理性概念だから、どちらかと言えば道徳的感情の原理よりもマシ。あらためて反駁する必要もない。これらの原理はすべて他律であるということだけで十分である。 

 

他律が命じるのはつねに条件つきである

他律の原理が意志を決定するとき、定言的に命じることはできず、それはつねに「予見された行為の結果が意志に対してもつ動機によってのみ」意志を決定する。

☞「私は何か他のものを意欲するがゆえに、私は何かをすべきである」(Ⅳ, 444)

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「意志は自ら自分に法則を与えるのではなく、他の刺激が意志に、その刺激を受け入れることが定められている主観の本性を介して、法則を与える」ために、この法則は「経験によって認識され証明されなければならず」、「それ自体が偶然的」であるため、それは意志の他律にすぎない。(Ⅳ, 444)

*経験によって証明されるとは、「これを意欲するならこれを手段としてなすべきだ」という理論的認識が命法を支える法則(=自然法則)になるということであり、つまり仮言命法にしかならない、ということを示している。これは主体に条件づけられている。

 

アプリオリな総合的命題である意志の自律の探究

端的に善い意志=定言命法

☞この意志はある対象に全く規定されることなく、「意志作用の形式」を含むだけである。

*「意志作用の形式」とは次のものである。

「おのおのの善い意志の格率が、それ自身を普遍的法則とするのに役立つことが、それ自体、おのおのの理性的存在者の意志が、何か動機や関心を格率の根拠として置くことなく、自分で自分に課する唯一の法則なのである。」(Ⅳ, 444)

☞これはこれまでも散々登場した法則の形式と同じである。

 

*この自律の命題は「実践的なアプリオリな総合命題」であり、これが「いかにして可能であるか」は「もはや人倫の形而上学の限界内では解決できない問題である。」

☞二章までは「道徳の概念を支える基礎は意志の自律にほかならない」ということを「分析的」に示しただけなので、「定言命法ならびに意志の自律がアプリオリな原理として絶対的に必然的である」ということまでは示せていない。これは「純粋実践理性の批判」の課題であるが、三章では「要点」だけ、「われわれの当面の目標のたいして十分な程度」で述べる。

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「人倫の形而上学から純粋実践理性批判への移り行き」と題される三章へ…

 

解釈上の問題点

実践的でアプリオリな総合命題とはなにか

定言命法アプリオリな総合命題と呼ばれるが、カントはなぜそのように考えるのかを簡単に確認しなければ、三章に進めないだろう。まず定言命法を次のように考える。

定言命法とは「普遍的法則に必ずしも規定されない主観的な性質をもつ意志[=不完全な理性的存在者の意志]が、普遍的に立法する意志と結合する関係」を表現するものである。

肯定文として命題化するとわかりやすいので、命令形として表現される定言命法の背後にある道徳性の原理を意識して、次のように言いかえる。

「普遍的法則に必ずしも規定されない主観的な性質をもつ意志[=不完全な理性的存在者の意志]が、それが普遍的法則となることを自ら意欲しうる格率をもつ[=端的に善い意志の格率]。」

総合的であるという意味

主語概念(不完全な理性的存在者の意志)の分析によっては述語概念(それが普遍的法則となることを自ら意欲しうるような格率)が導き出されない、ということ。

アプリオリであるという意味

主語概念に含まれていない述語概念を結びつけるのに、いかなる経験に基づくことなく、それゆえその結合が必然的になされる、ということ。

なぜ総合的なのか

不完全な理性的存在者である人間の意志をいくら分析したところで、それは神のように完全な意志ではなくつねに主観的条件を伴う意志であるから、普遍的法則を意欲するような意志は帰結しないから。

なぜアプリオリなのか

もしアポステリオリな命題だとしたら、この命題自体が成立しないから。それは、道徳性の原理は経験的な諸条件を前提しないというのがカントの中心的な主張であることを思い起こすだけでよいだろう。