哲学なんて知らないはやくん

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『人間の条件』(5章24-28節) 読解

テキストとしてはちくま学芸文庫の志水速雄訳を用いる。pluralityの訳語は「多数性」となっているが、「複数性」を採用する。それ以外は志水訳のままである。

 

複数性と現われ

アーレントにとって最重要タームである「複数性 plurality」が、活動と言論が成立する条件だという言葉から24節は始まる。言論と活動が「人間として」相互に現われる様式であることから、たんに複数人いて言葉を交わしているという現実を記述しただけ、というわけではないはずである。「人間として」現れるとはいったい何を意味するのかが、その後議論されている「正体 “who”」の暴露や、誕生、人間関係の網の目、世界、物語などについてで、明らかにされているように読める。またこれは、物との違いを意識しながら読むとなおはっきりしてくる。

 

その後291頁以降、”what”と”who”でアイデンティティが区別されているが、特に重要なのは後者である。それこそが唯一でユニークなアイデンティティであり、「何か」として言葉で定着させることはできないが、その人が語る言葉と行なう行為によってトータルで現れてくるものである。この、”who”が現われる活動は「始める」という意味で、全く予測ができない何かが始まるということである。新たな始まりをもたらすような唯一性は、「人間が一人一人誕生するごとに、なにか新しいユニークなものが世界にもちこまれる」(289頁) ことから確かめられる。そして、その始まりが持ち込まれるのが「人間世界」であって、その世界を形成するためにも「複数性」が非常に重要な観点である。

 

また、“who”は言葉に表せないが言論と行為によって現れるという議論は、その人の“who”が「活動と言論を通じてそれを事後的に蝕知することができる媒体、それが真の物語である」(302頁) という主張につながる。まさに言葉を発しているそのときは明らかにならないが、物語として後から行為全体としてその人格が現れるのだ。なぜなら、まさに物語を演じているとき (言論を交わすとき) に現われるのは「何か」として言葉にしている意味でしかないからである。「その人が「だれ」(who)であるかを述べようとする途端、私たちは、語彙そのものによって、彼が「なに」(what)であるかを述べる方向に迷い込んでしまうのである。」(294頁) そのユニークさを理解するためには、その行為 (物語) がいかに始まりいかに終わるかをみなくてはならないため、その活動を模倣した演劇によってのみ表現され伝達される、ということになるのであろう。

 

複数性と新しい始まり

続いて、第25節の「言論による「正体」の暴露と活動による新しい「始まり」の開始は、常に、すでに存在している網の目の中で行なわれる」(298頁) という記述を皮切りに考えたい。すでに存在している人間関係の網の目という世界で行われる行為の特性上、それは新しい始まりという性格を帯びる。24節で確認されたように、人間の唯一性が現れるのは言論と行為によるのであり、それはつねにこの「人間関係の網の目」の中でなされる。そこで、もっとも重要な条件はやはり人間の複数性だろう。アーレントは26節の最初で「活動と言論が行われるためには、その周囲に他人がいなければならない」(304頁) と述べている。それはなぜだろうか。他人がいる、すなわち複数性が「活動と言論がともに成り立つ基本条件」(286頁) であるという主張から第5章が始まっていることからも、唯一性が現れるための「人間関係の網の目」は複数性という条件が最も重要だと主張したいのだとうかがえる。そこに行為が新しい始まりという性格を帯びる理由が垣間見える。そのことをよく言い表しているのは次の部分である。「活動によって始まる物語は、活動の結果である行為と受難によって成り立っている。しかし活動の結果には限界がない。なるほど活動は、それ自体新しい「始まり」である。しかし、活動は人間関係の網の目という環境の中で行なわれる。この環境の中では、一つ一つの反動が一連の反動となり、一つ一つの過程が新しい過程の原因となる。」(307頁) 活動が新しいのは、複数性の中で様々な人びとの間で乱反射し、どうなるかわからないからである。つまりまったく予測不可能であると言える。この活動の特徴は、そのあとで述べられる「無制限性」と「不可予言性」という言葉でも表現されている (309頁)。また、そのように自分の始めた活動がどのような反動を生み、返ってくるのかわからないということを、アーレントは的確にも「活動者というのは、「行為者」であるだけでなく、同時に受難者でもある」(307頁)と言い表している。反対に、家を作るときや、お金を稼ぐために労働しているときには、活動を始めた瞬間その帰結が予測できるし明確な制限もある。だからそれは確かにある意味始まりであるが、「新しい」始まりではないのだ。これは「始まり」の本性、すなわち「すでに起こった事にたいしては期待できないようななにか新しいことが起こりうる」(289頁) という説明とも整合的だと思われる。つまり、私たちが行う活動はつねに「人間関係の網の目」の中、複数性の中でなされるということが、その不可予言性という特性上新しい始まりと切り離せない関係にあるのである。

 

複数性と世界のリアリティ

言論と行為は人に向けられて行われるがゆえに、そこにはすでに複数性がある。その中で、各人のwhoが暴露され、それは同時に「世界のある客観的なリアリティ」(297頁) にも係わっているという。この「客観的」が指し示すのは、物理的な介在者が複数の人間の間にあり、それに係わっていることから導かれる。この介在者は「物の世界」とも言われているものだと考えると、それは触知できるものである。一方で人間関係の網の目は蝕知できない。しかし、触知できない後者も「行為と言論から成り立つ介在者」(297頁) という位置づけをえている。ここで、人々を結びつける世界である「介在者」が二つの意味で登場していることに注目するべきだろう。297頁2行目で言われている客観的なリアリティとは、触知できる対象、物理的な介在者が複数の人間の間にあることで様々な角度からその姿が明らかにされることを指していると思われる。それに対置されているのが、触知できない介在者である人間関係の網の目である。活動と言論の過程は行われた瞬間に消えてしまうし、それを始めたときはどうなるか予測不可能であるし、最終的な生産物を残すことができない。しかし、この介在者も「物の世界と同じリアリティをもっている」という (297頁)。触知できない対象は人びとによって見られることはないのに、いったいどのようにしてリアリティが語られるのか、ということを問わなければならない。ここで、リアリティと物語の関係が見えてくる。

 

触知できる介在者である物の世界としての制作物は、一定の持続性をもち、人々の間で共通にかかわるものとして取り上げられた。では、触知できない介在者が「共通して眼に見ている物の世界と同じリアリティをもっている」(297頁) とは何を意味するのか。リアリティにとって重要なのは、あらゆる人によって共通の事柄として見られ、そして聞かれることである。そのためにはまず複数性の中で、人間の間に姿を現わす必要があり、それは言論を実際に人に向けて行った瞬間になされる。しかし、それは空虚であるがゆえにまったく持続性がない。その解決となるのが、物語であり、詩人であり、ポリスである。これらによって、言論や活動は触知することはできないにしても、ある程度存続し、人間の間で共通の事柄となり得、物の世界のリアリティと同じようになることができる。それはつねに、「触知できるアイデンティティが知られ、理解されるのは、ようやく物語が終わってからである」(312頁) と言われるように、その過程が終わった後のことであるため、記憶が重要な条件となる。これも見聞きし、覚えてくれる他者が想定されないと、すなわち複数性という条件なしでは成り立たない。

 

自由な始まりとしての言論によって、唯一性をこの世界にもちこみ、そこは人に向けられるゆえに同時に複数性の空間であることになる。そして、そのことによってリアリティの条件となる人間の間に現れることが可能となるが、それが複数の人間にとって共通の事柄になるためには瞬間的な活動がある程度存続することを保障しなければならない。そこで、まずたんなる瞬間的な偶然的な過程としての活動から、筋の通った語られる形式となった物語への物化を経て、それを詩人やポリスが記憶にとどめる役割を担うことで、行為と言葉によって成り立つ触知できない介在者が物の世界と同様な仕方でリアリティをもってくる。「リアリティというのは、人びとが見られ、聞かれ、そして一般に、仲間の聴衆の前に姿を現わすことから生まれてくるのであるが、ポリスにおいては、たとえ、活動者の存在が束の間のものであり、その偉大さが過ぎ去ってゆくものであるにしても、このようなリアリティは決して欠けるものではないのである。」(319頁) 詩人は偉大な人を詩として語り継ぐのだから、そのリアリティを不滅にすることは可能であるのはわかる。しかしポリスはなぜだろう。注目すべき記述は「組織化された記憶」(319頁) である。つまり、ポリスという安定した保護物の存在によって、それと結びつく物語という触知できない生産物は不滅となる。ポリスが形を大きく変えず残っていれば、そこで演じられた物語は現存していないにしても、その跡を感じることができるように、時を超えて物語は不滅のもとなると言える。この点で、やはり人間の触知できない網の目としてのリアリティも物の世界と完全に独立して成り立つことはないのだということがわかる。

 

公的領域の存続の条件としての権力

「人間にとって世界のリアリティは、他人の存在によって、つまり他人の存在が万人に現われていることによって保証される。」(321頁) 世界のリアリティを保証するためには、複数の他者たちの間で他者の前に現われなければならない。その現れの契機が暴露的性格を帯びた行為であり、またその空間を支えているのが28節の主題である権力である。これは、統治的な意味で使う権力という言葉とはまったく異なる意味で用いられていることがわかる。この権力は潜在的なものであり、人びとが現れる公的領域を存続させるものであるという。ではいったいどういう事柄を指し示しているのだろうか。例えば、話し合いの空間で一般的な意味での権力者が圧倒的な発言権を持っていて、他のメンバーが好きに発言することができないような状態ではなく、誰もが自分の意見を表明することが尊重されるような空間が、権力が実現している空間だと言えるだろう。

 

始まりに意味を与えるということ

行為者は始めた行為の帰結をコントロールできず、さらにその行為はすぐに消えてしまう。それが全く覚えられることがなかったら、さらに言えば全く耐久性がなかったら、それはリアリティと言えない。例えば、私が何か新しいことを始めたとしても、それはそのときにはまったく明らかにならないものだし、その瞬間を翌日には誰からも忘れ去られてしまっていたとしたら、それはもはや始まりとしての身分をもつことはできない。確かにそれはその瞬間においては新しい始まりであったかもしれないが、それが全く持続性をもたない、そのつど生じては消えるようなものだとしたら、そもそも始まりとは認められない。では、始まりに意味を与えるためにはどうしたらいいのだろうか。そこで重要になるのが複数性であり、見聞きされることで現われるリアリティであり、そして記憶されるということである。