哲学なんて知らないはやくん

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アニメde哲学!:永遠を求めて—鬼滅の刃—

アニメde哲学!シリーズ第二弾です。今回はいま最も熱い「鬼滅の刃」からです。今回扱うのはアニメでは描かれていないシーンですが、細かいことは気にしないでください。アニメ化されたマンガはセーフというルールでいきます。少し長くなりそうなので、みなさん全集中の呼吸で読み進めてください。

 

まずは取り上げるシーンを抜粋します。「鬼滅の刃」第16巻からです。永遠を夢見る無惨に対して、主人公である竈門炭治郎が所属する鬼殺隊の最高管理者であり、お館様として慕われる産屋敷耀哉が最期にこう言います。

「私は永遠が何か…知っている。永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ。」

お館様の言葉に込められた思いは、時代を超えて人の想いがつながっていくことが永遠であるということです。なんと痺れるセリフでしょう。確かに人の想いは世代をこえて受け継がれます。そこで考えてみたいのが、世代を超えて想いが繋がるということ、そして永遠とは何かということです。私も永遠が何か知りたくて考えこんだ時期があります。結局よくわからなかったのですが、これを考えることを通して人間がどのようにして現在に存在しているのか、私なりに考え至ったことをお話しできればと思います。

永遠を求めて

みなさんは永遠と言われたとき何をイメージするでしょうか。終わりがないことでしょうか。例えば永遠の愛を誓うってどういうことなのでしょうか。なんとなく永遠と言われて考えるところはあっても、いざ説明しようとするとうまくできないのではないでしょうか。それはおそらく私たちが有限であり、決して無限ではないから不可能なのだと思います。とはいえ、永遠という概念がある以上、その概念の内容は必ずあります。そこで、古代の哲学を中心に見ることで、永遠について何が考えられてきたのかを簡単に紹介したいと思います。

 

プラトン

プラトンは後期対話篇に属する著作『ティマイオス』の中で時間論を展開しました。その中心的なテーマは「永遠の似像としての時間」です。この言葉だけ見てなるほどね、となる人はほとんどいないでしょう。ここで興味深いのは、時間が永遠の似像、つまり不完全なコピーだということです。極端に言えば、プラトンは、永遠こそが真の実在であり、時間はそれと似たものとして作られたと考えた、ということです。ちなみに作ったのは制作の神であるデミウルゴスらしいです。少し長いですが引用してみます。

 

しかし、永遠を写す、何か動く似像のほうを、神は作ろうと考えたのでした。そして、宇宙を秩序づけるとともに、一のうちに静止している永遠を写して、数に即して動きながら永遠らしさを保つ、その似像をつくったのです。そして、この似像こそ、まさにわれわれが「時間」と名づけて来たところのものなのです。(『プラトン全集12:ティマイオス クリティアス』、岩波書店、47頁。)

 

私が先ほど紹介したことが(言い方は難しいですが)ストレートに言われていると思います。この考え方はプラトンイデア論という立場をとっていたことからも納得がいきます。というのも、永遠と時間の関係はイデアと感覚物の関係と類似しているように思われるからです。感覚を超えたイデアが完全なものであり、感覚物はそれに従属する不完全なものであるため、永遠が時間より高次なものである、という図式の説明にはプラトンらしさがあるように思います。

 

さて、このように永遠と時間にはいわば上下関係のようなものが認められたわけですが、「似像」と言われるだけあって両者には類縁性があります。それは時間様相(過去・現在・未来)と天体の動きを思い浮かべるとわかりやすいです。プラトンの言葉にもあったように、永遠に似た「動き」をする時間を神は制作したのです。それは天体が円軌道上を動くような回転運動を指します。この回転運動、すなわち球体を描くような動きを思い浮かべると、永遠と類縁性が見出されるでしょう。なぜなら、円運動で捉えられる動きには、その回帰性ゆえに始まりも終わりもないからです。この円運動としての時間の動きをプラトンは時間様相として捉えているようなのです。つまり、原理的に言えば、時間が円軌道を描く運動として捉えられるところに、永遠と時間の類縁性があると言ってよいと思います。

 

プロティノス

プラトンの「永遠の似像としての時間」という概念を継承しつつ、独自に時間論を展開したのがプロティノスです。まあプロティノスも相当わけがわからないので、軽い気持ちで読んでください。まずはプロティノスの基本的な思想をざっくり紹介します。それは、一者から知性[ヌース]、そして魂が生じるという流出説です。プロティノスは、魂、すなわち宇宙霊魂[プシュケー]が知性[ヌース]から分離し、感性界を作り出す活動が永遠の似像としての時間を作り出すと考えました。プラトンと違って、制作する神ではなく、魂がみずからの過度に活動的な本性によって動き出し、次々に変化し続けることで時間の創造する姿が描かれています。また少し長いですが、引用します。

 

ところが、余計なことの好きな本性(つまり魂)がいて、自らが支配したいと望み、独立していること、現にあるよりももっと奥のものを求めることを望んで、それ自身も動き出し、自分(時間)も動き出した。そしてわれわれ(時間と魂、もしくは魂としてのわれわれ人間)は〈いつもその先へ〉と〈より後〉と〈(決して)同じものではなくて、次々に変わること〉をめざして動きながら、ある長さだけ歩んで、かくして永遠の似姿である時間を作り出したのである。(『プロティノス全集2』中央公論社、405頁。)

 

なかなか謎めいていますが、プロティノスは時間を魂の活動のうちで生み出されるものとして考えられていることがなんとなくわかります。プロティノスプラトンと同様、円環的な時間概念を考えることで、永遠との関係の中で時間を捉えてきたと言えるでしょう。これは、時間は直線的に進み、過去は前にあり、未来は後にあると普通は考える私たちにとっては一見理解しがたい発想かもしれませんが、よく考えてみるとプラトンプロティノスの時間観にも一理あるのではないでしょうか。

 

アウグスティヌス

最後にアウグスティヌスを取り上げます。アウグスティヌスの時間論と言えば『告白』ですが、その前に『神の国』を見てみます。なんとアウグスティヌスはそこで回帰的に循環する時間を退けるからです。これまた長いのですが、実際にアウグスティヌスの文章を見てもらった方が早いので引用します。

 

しかし彼らは、知恵を得た不死の霊魂すら、その回転器具から解放させることができず、偽りの至福とほんとうの悲惨との間をいつも行き来するのにまかせているのである、なぜなら、霊魂が真理についてまったく無知なためにやがて訪れる悲惨を知らず、あるいは至福の中にあっても恐怖に襲われるほどみじめな状態にあるとすれば、このように永遠の至福を確信できない状態が、はたしてほんとうの至福でありえようか。しかしもし霊魂が悲惨から至福へ移り、二度ともとの状態にもどらないときは、時間の中で時間の終わりのない新しいものが始まるのである。(アウグスティヌス神の国(上)』(キリスト教古典叢書)教文館、603頁)

 

アウグスティヌスは何が言いたいのでしょうか。それは、もし時間が繰り返す回帰的なものであれば、悲惨から至福へと救われたものも、また悲惨を繰り返すことが約束されることになり、人が救済を見いだせなくなってしまう、ということです。そこで、アウグスティヌスは救済が人間の手から零れ落ちることを避けるために、ある意味人間学的な視点から繰り返しとしての回帰的な時間を批判したというわけです。しかし、これでアウグスティヌスの時間論の真髄はわかりません。やはり『告白』に向かうべきでしょう。

 

基本的に『告白』の第11巻で展開される時間論は、「記憶・予期・知覚」などの精神のあり方との連関から、さらに言うとその心的特徴と時間様相との関係において探究されています。また、その議論において重要となってくるのは、神の存在です。アウグスティヌスによれば、時間を創造したのは神であり、それが創造される以前には時間は存在しなかったとされています。ところで、神とは永遠の存在なので、神にとっては以前や以後というものが存在することはありえません。つまり、過去も未来もない神の永遠性は、過去も未来もある時間とは明確に切り離されているということです。しかし神ではない私たち人間は、有限な時を生きています。では時間とはいったい何なのでしょうか。ここが重要なのですが、アウグスティヌスは時間を精神の中にあるものだと考えています。やはりまずは引用してみることにしましょう。

 

「三つの時がある。過去についての現在、現在についての現在、未来についての現在」じっさい、この三つは何か魂のうちにあるものです。魂以外のどこにも見いだすことができません。過去についての現在とは「記憶」であり、現在についての現在とは「直観」であり、未来についての現在とは「期待」です。(アウグスティヌス『告白Ⅲ』中央公論新社、52頁)

 

ここで注目すべきなのは、過去も未来も現在との関係のうちで捉えられていることです。アウグスティヌスは「時間とは延長だ」と述べますが、そこで主張されているのはどういうことなのでしょうか。まずその延長は、過去にはすでに過ぎ去っているゆえになく、未来は未だ来ないゆえにないため、現在にあると考えるしかないが、当然現在は瞬間的で幅をもたないものであるから、現在がそれ自身で延長をもつとは考えられない、とアウグスティヌスは考えます。そこでアウグスティヌスは、時間を精神の延長として捉えることでそれを乗り越えます。そうすれば、時間の坐する場所としての精神が、現在を起点として伸び拡がりをもつため、延長としての時間を無理なく想定することができるのです。このことから、アウグスティヌスの時間論においては「現在」という時間様相が際だって重要であることがわかります。

 

ここまでで古代・中世の哲学を時間論という見地から概観してきました。では次に冒頭で紹介した鬼滅の刃のセリフに戻ってみましょう。

 

〇もう一度、お館様の言葉を頼りに考えてみる

私たち人間は有限で時間的な存在であることを免れることはできません。アウグスティヌスが言うように、永遠は神にのみ認められます。すると、私たち人間が時間のうちに存在しない神の永遠性を理解するのは不可能なのではないか、と疑問が湧いてきます。確かに神と同じように永遠を把握することは不可能でも、概念を使って近づくことができると思います。アーレントはこう言います。「神にとっては、過去も未来も存在していないからである。永遠というのは人間の言葉で言えば、永続する現在なのである。」(『精神の生活(下)』岩波書店、130頁)つまり、人間が永遠を捉えようとするとき、それは「現在がずっと続くこと」として捉えられるというわけです。私はこの説明にある程度納得しています。

 

ここでセリフを思い出してみます。

「永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり、不滅なんだよ。」

 

どうでしょう。私にはこれが想像以上に真理に近い気がしています。アウグスティヌスが言うように、時間が精神的なものであり、それは現在との連関でのみ拡がっているものだとすれば、鬼殺隊の成員が繋いできた想いは、そのとき闘う剣士たちの「現在」を起点として豊かに伸び拡がりをもっています。確かに一人ひとりの剣士たちはやがて死んでしまいます。しかし、繋いできた同じ想いが世代を超えて現在という地点にずっと感じられ続けること、そしてそれが変わらずに、途切れることなく受け継がれ、彼らをまさに「今」、奮い立たせる想いが永遠であるという考え方には、私は深くうなずいてしまいました。みなさんはどう考えるでしょうか。

 

しかし、有限な人間が永遠を感じるということは非常に苦しいことでもあると思います。なぜなら、人間にとっての永遠はやはり永続的に伸び拡がる現在にしかないと思うのですが、それは同時に過去と未来を絶えずこの身一つに背負わなければならないと思うからです。鬼滅の刃で言われてきた、想いを繋ぐことも簡単なことではなかったでしょう。何人もの大切な命が奪われた記憶、悔しさ、そしてこれからどれだけの人が、そして自分が死んでしまうのだろうかという不安、無惨を倒すという期待、もしかしたら無惨を倒せないのではないかという不安…。このように、現在に永遠性を感じていくということは、過去の後悔や懺悔、時には歓喜、そして未来への期待、不安、これらを現在というたった一つの地点に立つ他ならぬ私が受け入れ、生きていくということだと思います。今のところ私が考えている結論はこうです。

 

記憶と期待の狭間で引き裂かれんばかりの人間が現在を直観し続けること、ここに永遠性が見いだされる可能性があるのではないか

 

最後の最後でどんどん抽象的な話になってしまったことはひとえに私の力不足でありますが、何か感じ取っていただければ嬉しいです。

 

次回も同じセリフから「想いを繋いでいくこと」について、別視点から考えてみたいと思います。