哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

精神医学に特有の倫理学:Raddenの徳倫理学的解釈

精神医学の倫理学という分野は、昨今のメンタルヘルスケアの拡大に応じて開拓されつつあります。それに応じて、精神医学の実践において求められる倫理的要件が模索されています。精神疾患はたんなる脳の機能障害であり、脳波を計測することで機械的に診断可能で、マニュアル通りに薬を処方するだけであるとするなら、精神科医に特別な徳のような倫理的要件が求められることはないように思われます。他の医療実践と変わらない原則で問題ないからです。しかし、前回のブログで述べたように(→精神疾患は脳の病か?ーー現象学の可能性 - 哲学なんて知らないはやくん)、精神疾患を脳に還元することができないという立場に立つと、そこには特有の倫理的要求が生じると考えられます。

精神疾患の原因がたんなる脳の機能障害ではなく、患者の世界全体の乱れであるとすれば、精神医療の患者を客観的な医学の対象としてのみ見るのではなく、それと同時に、主観的な歴史とエピソードをもった特有の経験主体として向き合う必要があります。それゆえ、精神科医は患者の主観的経験とそれに対する感想などから、何が世界から疎外されているような感覚を彼に与えているのかを引き出さなければなりません。これはたんなるフォーマルな質問用紙からでは見えてこない、パーソナルな情報です。そこで精神科医は、患者との信頼に基づいた友好な関係を築くよう努力するよう要求されます。つまり、精神科医は自分が医者として信頼に値する存在であることを示さなければならないのです。

そこで今回は、J. Raddenの解釈に基づいて、精神医学の実践に求められる倫理的要件として求められる徳についての議論を紹介したいと思います。

 

精神医学の徳倫理学——Raddenの解釈の検討

Raddenは、医療倫理学に対して、精神医学の倫理学の独自性を主張する代表的な論者です。Raddenによれば、精神医学は医学の全領域に適用される基本原則を共有しているが、いくつかの点で独自性を要求していると考えています。それをRaddenは次の3つのカテゴリーに分類します。

 (ⅰ) 治療者と患者の間に築かれた関係あるいは治療上の同盟関係、
 (ⅱ) 精神科患者のある種の特徴、
 (ⅲ) 治療の試み自体の目標と目的に関するもの、である。
 個別にとってみれば、これらの要素は、どれも精神医学の実践に特有なものではなく、他の医療分野でも多かれ少なかれ存在するものである。しかし精神医学では、この3つの要素すべてが揃っているため、診療に求められる倫理的要求という点で、精神医学を他のどの医学分野とも大きく異なるものにしている。([1])

精神医学の実践で最も重要な倫理的制約は、医者と患者との健全な関係の構築です。というのも、他の医療に比べて、精神科医療の治療において、医者と患者の関係は治療の効果に大きく影響するからです。例えばRaddenは精神科医療における関係を、外科医のメスに例えています([2])。関係が重要となるのは、精神科患者は、他の医療の患者に比べて脆弱性が高く、搾取に対して自己防衛能力が低いからです。患者との関係が欠かせない治療の一部となることから、治療者には特別な負担が強いられます。それゆえ、倫理的に行動する責任がより大きくなるのです([3])。

 

精神科医に求められる諸徳

Raddenはこれまでの研究を参照しながら、医療行為で求められる徳の中でも特に精神科医療に求められる徳として、例えば、以下のものを挙げています([4])。

・思いやり(compassion)
・謙虚さ(humility)
・忠実さ(fidelity)
・信頼に値すること(trustworthiness)
守秘義務を遵守すること(respect for confidentiality)
・正直さ(veracity)
・思慮(prudence)
・あたたかさ(warmth)
・感受性(sensitivity)
・忍耐力(perseverance

患者の依存性や傷づきやすさを特徴とするに精神科医療おける治療関係において、精神科医はそのような徳を獲得するよう努力しなければならないということになるのです。

Raddenは、このような精神医学の実践における特有の状況に対応して、徳や性格に基づいた特有の精神医学の倫理学が必要だと主張しています。しかしこれには批判もあります。

例えばCrowdenは、精神医学の倫理学は従来の倫理学的枠組みで十分であるから、「精神科医の役割のユニークな性質という現実は受け入れても、「別の倫理学(separate ethics)」という考え自体を否定することは可能である」と批判しています([5])。Crowdenが提案するのは、フロネーシスという実践知が、治療関係において倫理的に敏感なヘルスケアの実践を可能とするという議論です。Crowdenによれば、フロネーシスをもつヘルスケアの専門家が、その状況にふさわしい徳を見出し、適切な医療を提供することができるため、精神医学にとってのユニークな倫理学を構築する必要はないと結論付けています([6])。

Raddenはさらに、Crowdenの議論に対して応答しています([7])。そこでRaddenは、フロネーシスは実践全般にかかわる徳であるため、それは一種のメタ徳(meta-virtue)であると指摘し、その重要性は医療行為を超えてあらゆる実践において有用であるから、「フロネーシスは、医療の実践において必要で、特に役に立つ」という主張は成り立つとしても、それをもってユニークな倫理学は必要にならないと結論づけることはできないとしています([8])。とはいえ、RaddenとCrowdenは、「有徳な実践者なしには精神化医療の実践は倫理的実践にはなり得ないという確信を共有している」ことは重要です([9])。

最後に感想じみた見解を述べておくと、私もRaddenらが強調するように、精神科医は様々な徳を獲得し、陶冶していかなければならないことにはおおむね同意しますが、精神科医に要求する倫理的要件として諸徳をリストアップするだけでは不十分であり、それらの徳の実行を支えるものは何かということにも目を向ける必要があると考えています。

([1]) Radden 2002b: p. 52.
([2]) ibid. また、APA(American Psychiatric Association. The principles of medical ethics with annotations especially applicable to psychiatry)の文書でも、関係の重要性が強調されている。「医師は、医師と患者との関係は、患者の効果的な治療にとって極めて重要であり、医師と患者との健全な協力関係を構築するための最適な条件を維持することが、他のすべての考慮事項に優先するという点で一般的に同意している。」(APA 2010ed: p. 9.)
([3]) cf. Radden 2002a: p. 403.
([4]) cf. ibid. 「精神科医が上記のような徳を陶冶すべき理由はかなり明白であろう。例えば、搾取されやすい患者集団は、治療者の側に過大な感受性や信頼に値すること、忠実さを必要とするだろう。また、人間関係が中心となっている癒しの実践は、過大な感受性、謙虚さと忍耐力を必要とするだろう。」(ibid p. 56)
([5]) Crowden 2003: p. 145.
([6]) 「従って、医療従事者は、患者との間に役割分担的な治療関係を築くことになる。優れた医療従事者は、学問的な知識、実践的な臨床技術、患者へのコミットメントの態度を備えている。これらの異なる属性は、フロネーシスという徳によって統合され、実現されると考えるのが妥当であろう。したがって、フロネーシスが役割に関連した倫理的に敏感な倫理的実践にどのように影響するかを理解することは、医療における道徳的知恵と代理性をさらに理解するための鍵である。」(Crowdrn 2003: p. 146.) 「良い精神科医は、フロネーシスの徳から行為する。…[中略]…もし他の優秀なヘルスケアの専門家が、そのユニークな実践環境の中で、同様の方法で行為するならば、彼らもまたフロネーシスを有していることになる。したがって、「ユニークな」実践の場は、「ユニークでない」倫理学によって情報を与えられ、分析することができることは明らかである。」(ibid p. 148.)
([7]) Radden 2004, “The debate continues: unique ethics for psychiatry”, Australian and New Zealand Journal of Psychiatry, 38:3, 115-118.
([8]) Radden 2004: p. 116. なお、Crowdenは同タイトルの論文(The debate continues: unique ethics for psychiatry)で再び応答しているが、立場や主張にとりわけ変化はない。
([9]) Radden 2004: p. 118.


【文献】

American Psychiatric Association. (2010). “The principles of medical ethics with annotations especially applicable to psychiatry”. Washington DC: American Psychiatric Association.
Crowden Andrew. (2003). “Ethically sensitive mental health care: is there a need for a unique ethics for psychiatry?” The Australian and New Zealand Journal of Psychiatry, Apr;37(2):143-9.
Radden, Jennifer. (2002b). “Notes towards a professional ethics for psychiatry”. Australian and New Zealand Journal of Psychiatry, 36(1):52-9.
Radden, Jennifer. (2004). “The Debate Continues: Unique Ethics for Psychiatry”. Australian and New Zealand Journal of Psychiatry, 38: 115-118.
Radden, Jennifer. (2002a). “Psychiatric Ethics”. Bioethics.16(5):397-411.

精神疾患は脳の病か?ーー現象学の可能性

精神疾患(mental illness)がいかにして病(illness)として同定されるかについては、複雑な議論があります。そこには、「心とは何か」という大きな哲学的問題や、「病とは何か([1])」という医学的問題が絡み合っているのもあって、とても全体像を扱うことはできません。なので今回は、精神疾患は脳の病気であって、心の病気というものは存在しないという還元主義(Szasz等)と、精神疾患はたんなる脳の病気ではなく、環境へと拡張された現象であるとみなす現象学的見解(Fuchs等)に話を限定し、後者の可能性について確認していきたいと思います。

 

精神疾患という神話?ーーSzaszの還元主義
 例えばSzaszは、精神疾患を精神の病気であるとすることは間違いであり、脳の機能障害に還元可能であると考えていました。Szaszは次のように主張しています。

「しかし、脳の病気は脳の病気であり、それを精神疾患と呼ぶのは混乱と誤解を招き、不要である」。(Szasz 1987, p. 49)

Szaszの精神疾患の存在を否定する議論には、大きく5つのポイントがあります。以下では、Schramme(2004)のまとめにしたがって要点を整理してみたいと思います。

Ⅰ.) 身体的病気と精神的病気の生成(generation)が異なる。
→Szaszは、感覚によって把握可能な身体構造(bodily makeup)の変化のみを病気の生成と考えていたため、精神的な病気を特定することは不可能と断定します。

Ⅱ.) 体の病気の場合は客観的な兆候から特定できるが、精神疾患は主観的な訴えからしか特定できない。

Ⅲ.) 精神病は単なる比喩的な病気である。
→Szaszは、身体的な異常のみを病気と定義しているため、精神の病気はそれの比喩的表現でしかないと考えました。

Ⅳ.) 第四に、身体と心はカテゴリーが違うため、両者に同概念(=病気)を帰属させるのはカテゴリーミステイクになる。

Ⅴ.) 体の病気の場合、規範は価値的に中立であるのに対し、精神の病気の場合は価値的に重く、つまり精神の病気の概念は体の病気の概念とは逆の価値判断を含んでいる([2])。

SchrammeはSzaszのすべてのポイントに対して批判的に検討を加えており、精神的な病気の概念について、さらなる議論が必要であると結論づけています([3])。しかし、現代の精神医学のパラダイムにおいて、神経生物学的な還元主義はいまだ大きな影響力を持っていると思われます。例えば、精神障害の診断と統計マニュアル(Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders: DSM) や疾病及び関連保健問題の国際統計分類(International Statistical Classification of Diseases and Related Health Problems: ICD)は、基本的に実証主義的な考え方に基づいてデータを収集しており、その個人的なデータを神経生物学的に客観的に記述・分類する手法が主流となっています。それによって、精神医学の患者の主観的な経験が見落とされてしまう傾向が強くなります。

しかし、精神疾患の原因はそれだけで語り尽くせるのでしょうか。普段から我々は鬱になったりしますが、全てはたんなる脳のバグなんでしょうか。そこで、その人の主観的な経験や具体的な環境に着目する必要性を訴える立場が台頭してきます。それが現象学の可能性を示すものです。

 

心の病は世界の病ーーFuchsと現象学の可能性

Fuchsは還元主義的見解を鋭く批判し、精神疾患を患者の環境(Umwelt)との関係から切り離して考え、病に対する主観的な経験の重要性を無視する傾向に対して、現象学的な観点から、身体化されたエナクティヴなアプローチを提案しています([4])。

Fuchsの基本的な主張は、精神疾患はたんなる脳の中の機能障害ではなく、その主体と彼らの環境との相互作用にかかわっているというものです。例えば、Fuchsは次のように主張しています。

精神障害は、単なる「脳の機能障害」と考えてはいけない。むしろ、世界内存在としての障害であり、システム用語で言えば、脳(その役割は、単なる機能的異常か構造的異常かによって異なる)を媒介とする環境と個人の生態的相互作用(ecological interactions)における障害なのである。」(Fuchs&Schlimme 2009: p. 573.)

それは、脳波を計測したり、アンケート用紙の回答から引き出すことのできない主観的な要素であり、それゆえ精神医学の実践では、患者の主観的な経験に対する理解を深めることが要求されます([5])。つまり、精神科医は、患者を客観的な診察対象としてのみ診るのではなく、その患者の生活世界そのものに目を向けなければならないということです。

なぜなら、環境との関係はその主体の生活の全状態にかかわっており、「精神障害は、心-脳と有機体-環境の相互作用の全サイクルに影響を与える」からです。(Fuchs& Schlimme 2009: p. 574.)

Fuchsによれば、このような自己(患者)と世界との関係を全体論的に把握する精神医学は、現象学的アプローチによって探求される必要があります。

それゆえFuchsが言うように、
「今後、精神医学における現象学の重要性はますます高まっていくと思われる。」(Fuchs 2010: p. 240.)


([1]) 病気を意味する表現は多様であるが、本稿ではillness, disorder, diseaseらを概ね同義語として扱うことにする。
([2]) cf. Schramme 2004: p. 106.
([3]) ibid p. 117. 第一のポイントに対して:感覚的に把握できる身体的構造の変化のみを病気と考えるのは狭すぎる(cf. p. 109)。第二のポイントに対して:Szaszは患者の訴えにのみ基づいて、幻覚などの症状から精神疾患を特定するといっているが、それは明らかに間違いである(cf. p. 110)。第三のポイントに対して:病気の定義を身体的な異常のみに限定しており、精神疾患は脳の異常にすぎないという定義的前提が問題含みであるから、さらなる検証が必要である(cf. pp. 112-113)。第四のポイントに対して:Ryleのカテゴリーミステイクの議論は、デカルト的な心身二元論に対する批判であって、精神疾患の存在を否定するものではない(cf. p. 116)。最後のポイントに対して:精神疾患は必ずしも文化や政治に左右されないし、むしろ身体的疾患さえも文化的な影響を受けることがあるため、病気がどこまで価値中立的かどうかは自明ではない(cf. p. 117)。
([4]) cf. Fuchs 2010: p. 235, 238-239. なおDeHaanも、精神医学のパラダイムにエナクティヴィズムを導入することを提案している。「私は、精神医学の障害(psychiatric disorders)の経験的、生理的、社会文化的、実存的側面がどのように関連しているかを解明するのが、エナクティヴなアプローチであると主張した。これらの多様な次元は、(社会)世界と相互作用する人間という一つの複雑なシステムからの異なる抜粋であるとみなすことができる。これらの次元を統合し、同時にそれらの間の差異を認識することによって、精神医学の障害の複雑さを把握することができるのである。このように、エナクティヴ・アプローチは、人間を、その生理学的で身体的な構造から社会的性質や実存的価値まで、統合的にとらえることができる。そのため、精神医学において前面に押し出される人間生活の豊かさと傷づきやすさに適合している。」(DeHaan 2020: p. 21)
([5]) 患者の主観的な経験に対する理解を深めることは、哲学が精神医学の実践にもたらす最も重要な貢献であろう。(Fuchs 2010: p. 239)

カント「哲学者にとっての身体の医学について」解題

哲学者にとっての身体の医学について

(原題: De Medicina Corporis, quae Philosophorum est)

 

ここで扱うテキスト『哲学者にとっての身体の医学について』は、カントが1786年10月1日にケーニヒスベルク大学学長としての公開演説として行ったものです。テキストは、いわゆるアカデミー版の第15巻(939-53)に収録されています。内容は大雑把に言うと、哲学者と医者による心と身体の治療法です。カントは、医師には哲学的機能を、哲学者には医学的機能を課して、医学は身体を治療することによって心の病を取り除くことができるし、哲学は精神によって身体を支配することを教え、実践することによって、病んだ身体を癒すこともできると考えていました。

 特にカントの演説では、精神疾患の身体的な原因が注目されています。例えばカントは、モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn)の死を取り上げ、その死因をメンデルスゾーンの過度の節制・禁欲による栄養失調とみなしています。

さて、本文は次のように始まります。

「健全な肉体に健全な精神を持たせるようにしなければならない。」

これは日本でも聞きなじみのある言葉だと思います。心の健康のためには、身体が健康でなければならないというものです。カントは、徳を義務に従う確固とした心構えと考えており、それを「道徳的健康」と表現することもありましたが、それは基本的に理性と意志の力によってあらゆる感性的な誘惑を断ち切る生活になるので、むしろ健康に悪そうな印象があるかもしれません。確かにカントにとって真に健全な精神は道徳的な心だと思いますが、たんに精神論を語っているわけではないのです。実際、カントは常々、身体と心は密接に影響関係にあると考えていました。その点で、このテキストでの記述は、カントを知っている読者には意外に思われるかもしれません。 

カントによれば、

医師の仕事は、身体をケアすることによって病んだ心を助けることであり、哲学者の仕事は、精神的な養生法[regimen]によって病んだ身体を助けることである。」(AA 15: 939-940)

心に影響を与えれば身体にも影響を与えるし、逆もまたしかりであるから、医者と哲学者は別方向から病気を癒すことができるということになります。例えば、楽しい会話は消化を助けるから、いい感じの歓談が食事には必要であるとカントは語っています。ということはきっと楽しい飲み会は健康によいことになりますね(お酒さえ飲みすぎなければ…)。

次にカントは、人間学等でも導入している「情動(Affekt)/情念(Leidenschaft)」の区別を持ち込み、特に情動は、それが心を乱さない限り健康によいものであると述べています。哲学者は理性を養い、情念に屈服しないよう自分を律していかなければなりませんが、無理は禁物です。身体を気遣うことを忘れてはいけません。「悪習を背負った身体は、心も一緒に重く」してしまうから、「肉体の鍛錬は、哲学者のものだと考えるのが妥当」になるとのことです(AA 15: 941)。当時は、メンデルスゾーンが死んだことを、ヤコービの批判に端を欲するかの論争であるかのように語る人がいましたが、カントが思うに、「悪いのは、むしろ、あの嘆かわしい男が採用した生き方そのもの」であったと評価を下しています(ibid)。厳しい禁欲は、次第に身体を消耗させるのです。だから、一日に一回くらいは、よい食事をしたほうが良いとカントは語っています。以前、「哲学研究者は食事に無頓着のほうがよい」みたいな話をTwitterで見かけましたが、カントに言わせればそうではないということになります。

次にカントは、医学がどのように人間を対象とするかを、当時の代表的な二つの医学的見解を持ち出します。

純粋な機械論的な医学を追求するホフマンと「病気を治したり、収束させたりするのに、精神が驚くべき力を発揮することを宣言するシュタールです(AA 15: 943)。

カントによれば、哲学者はシュタールの方に目を向けるべきだとのことです。ここで、精神の力による治療法としては、想像力による作用が考えられています。医学としてどちらが優れているかは哲学者の問題ではありませんが、人間の認識能力については哲学者が扱うべき問題です。

カントによれば、想像力によって感情がかき乱されないために、心を楽しいことに分散させるのがよいとされています。その点で、やはり心から笑える歓談は身体の健康によいということになります。

身体に気を配ることで心にいい影響を与えるという治療法によって、医者は心のコントロールができます。医者の仕事は身体に直接関係するものですが、身体のケアによって感情の乱れを抑え、心の健康状態を保つような治療をすることで、哲学者の役割を果たすことがあります。これは賞賛されることだとカントは言っています。

心の養生法というのは、医者の仕事ではなく、哲学者の仕事、あるいは、医者は医者としてではなく、哲学者と呼ばれるべきものである。」(AA 15: 946)

このような医学的な心のコントロールは、あらゆる狂気や鬱、心気症など心の病気に有効だと考えられています。

これらの病気の原因は、心よりもむしろ身体に求められるべきものであり、患者の心を助けるのは、患者に血を流させたり、下剤を投与したりすることであって、彼に指導したり、彼と理屈を話し合ったりすることではないのである。」(AA 15: 947)

心と身体は影響関係にあるので、心が楽しいと身体のコンディションもよいというのは、私たちの感覚からしてもわかると思います。例えばカントは、宴会でめっちゃ楽しい時、1人で食事をしている時の倍の量を平気で食べられるということを指摘しています。まあ倍は言い過ぎではないかとも思いますが、わかる気はしますね。

このように、心と身体の健康のためには、人間は無理に節制しないほうがいいわけです。もちろん、身体だけを甘やかすような不摂生は最も避けるべきものですが。

メンデルスゾーンは、自分に厳しくしすぎたから死んだというのは、実際のところどうなんだろうとは思いますが、カントは次のように言い切っています。

彼は学問のために精神を良好に保とうと、節制を超えて、常に空腹を保ち、適切な食事の後に起こるわずかで一時的な胃の不快感を避けるために、禁欲を貫いた。しかし、このことによって、彼は非常に彼の体の力を弱め、過度の節制によって疲れ果て、死亡したのである。」(AA 15: 950-951)

みなさんも、無理な節制と暴飲暴食を避け、時に友人や家族との歓談を大切にして、心と身体をケアしていきましょう。

 

なお、ラテン語原文はチラ見程度で、以下の英訳をメインに使いました。

Gregor, M. (2007). On the philosophers' medicine of the body (1786). In I. Kant (Author) & R. Louden & G. Zöller (Eds.), Anthropology, History, and Education (The Cambridge Edition of the Works of Immanuel Kant, pp. 182-191). Cambridge: Cambridge University Press.

カント倫理学は義務論だったのか

最近、「功利主義」「義務論」「徳倫理学」という規範倫理学の立場を使って、古典的立場を戦わせるような構造や、道徳的な問題を解決する思考実験によって「君は何主義かな」みたいなやり方に疑問を抱いています。そこで、現在定番となった競合する立場に古典的立場を当てはめようとすることによって、それぞれのオリジナリティが歪まされるのではないかと考え、そういった図式そのものに疑問を投げかけることを研究の一つとして取り組んでいます。その道中、ブログのような軽い媒体で吐き出すのもいいかなと思い、久々に投稿しました。もしあれば、リアクションなどお待ちしております。では本編へ……。

 

カントは『道徳の形而上学の基礎づけ』(以下『基礎づけ』) において、「経験的で人間学に属するすべてのものから完全に純化された純粋な道徳哲学を一度作り出すこと」を主眼として道徳哲学の批判を行う。それは、「経験的部門を合理的部門から常に入念に分離し、……実践的人間学よりも道徳の形而上学を先に立てる」必要があるからであり、両者を混同することなく、純粋な道徳哲学の理念が探究することが目指される。経験的な人間学にまったく頼ることなく、あらゆる理性的存在者に適用されうる道徳の原理を探し出すことが、『基礎づけ』の課題であり、その末に自己立法的に道徳法則に従って行為するという意志の自律が見出される。自律は意志の性質であると同時に定言命法で命じられる内容でもあり、人間とってそれらは義務として要求されることになる。それゆえ、カントの倫理学において道徳的な行為は「義務」によって命じられるのだから、「義務論」としてラッピングされるのが常である。

 

この図式はあまりにも定番になっているため、「うんうん、そうだよね。カントは義務論だよね。」という感じで簡単に片付けられる。しかし、よく考えてみると、それはカントが理念として提示したかった倫理学とは相容れない見解ではないだろうか。というのも、義務の概念には強制が含意されるため、その内容を説明するためには、克服されるべき障害が前提されなければならないからである。それは人間が感性的存在者であるがゆえの経験的な制約であり、それゆえ義務論には必然的に経験的な要素が入り込まざるを得ないのである。実際にカントは、義務の概念をはじめて『基礎づけ』で導入する際に、「義務の概念は善い意志の概念をある主観的な制限と傷害のもとではあるが含んでいる」と述べている。それゆえ、経験的なことから完全に浄化されているような合理的な道徳哲学は、義務の概念を含みえないのである。

 

このことは、カント自身が自覚していたことでもある。『純粋理性批判』では、義務概念には快や不快、傾向性など経験的要素が含まれるがゆえに、そのような道徳哲学は超越論的哲学には属さないことを示している。では、カントが『基礎づけ』で意図したような、純粋な道徳哲学とは義務論ではなかったのか。おそらくそうであろう。

 

しかしこれは、義務が経験的な人間学に属する概念だということではないため、その点は注意する必要がある。「義務の概念を経験的な概念として論じていると結論づけてはならない」とカントは断言している。義務に基づく行為が経験によって確証されることはないからである。経験によってのみ知られる人間の特殊な事情を扱うのが人間学の課題であるが、義務の概念はそこにはない。少なくとも、人間の特殊な本性を分析することから義務の概念が出てくるわけではない。道徳法則の適用を考える際には、経験的な人間学の力を借りなければならないが、道徳法則の拘束力を与え、義務という法則に従うという行為の必然性を説明するために、人間学は不要なのである。カントは『基礎づけ』の序文において、以下のように述べている。

 

すべての道徳哲学は完全に実践的認識の純粋な部門に基づいており、人間に適用されても、人間についての知識(人間学)から少しも借用することなく、むしろ理性的存在者としての人間にアプリオリな法則を与えるのである。もちろん、この法則は経験によって研ぎ澄まされた判断力を必要とするのであって、これは、法則がどのような場合に適用されるかを識別するためであり、また、法則を人間の意志に受け入れさせて、実行への力を得させるためである。

 

義務は、人間学に基づかなければ導入されえない概念ではないし、経験に依存する概念でもない。義務は「あらゆる経験に先立って、アプリオリな根拠によって意志を決定する理性という理念のうちに存しているからである。 」それでも、道徳法則に従う行為の必然性が、自然的な傾向性をもつ人間にとっては義務としてあらわれるほかない、ということである。義務という概念によってしか、人間は道徳的行為の必然性を認めることはできず、必然的に経験的な概念をすべて捨象することはできない。それゆえ、厳密には、義務は純粋な道徳哲学には属さないのである。

 

つまり、カントが『基礎づけ』で意図していた道徳哲学の理念は義務論ではなかったと言える。もちろん、義務がカントの倫理学の中心概念であることは疑いなくそうであるが、少なくとも、カントの倫理学全体を義務論としてのみ位置づけることによって、カントの構想を歪ませてしまいかねない。それなのに我々は、『基礎づけ』を参照しながら、カントが提示する倫理学を義務論という言葉で片づけていたのである。

Allison (2020) "Kant's Conception of Freedom: A Developmental and Critical Analysis" 書評

アリソンの最新著作の見取り図を提供することを目的にちろっと書いてみました。カント研究をしている、あるいはしていこうと思っている人たちの一助にでもなれれば幸いです。タイトルには「書評」なんてかっこつけて書きましたが、評するなんてたいそうなことはできていません。でも紹介程度にはなっていると思います。

Henry E. Allison, Kant's Conception of Freedom: A Developmental and Critical Analysis, Cambridge University Press, 2020

 

アリソンのこの著作は、その名の通り「自由」という概念をカント哲学の発展史的に読み解く非常に大きなものとなっている。カント哲学全体を年代順に追っていき、遺稿や覚え書き (Reflexionen) まで注意を払っているのはもちろん、ヴォルフ学派や道徳感覚派、ルソーなど、カントに影響を与えた理論の解説も充実している。500ページを超える大著だが、全10章から成る本著は、いわゆる批判期以降とそれ以前が、ちょうど5章ずつに分けられていることから、バランスもよい。しかしやはり、アリソン自身が述べているように、カントの自由概念はかなり遅い時期まで発展しており、特に決定的な転回とされている『純粋理性批判』や『道徳形而上学の基礎づけ』が発表される1785-1788年が内容的にもかなり重厚で、難解なものとなっている。アリソンの記述では、前批判の自由概念は、こう言ってよければ、批判期以降に到達する自律の発見までの揺れ動く準備段階という位置づけのようにも見える。なお、アリソンはカントの自由についての著作として、1990年にKant's Theory of Freedom(邦訳は『カントの自由論』法政大学出版局,2017年)を発表しているが、およそ30年の時を経て発表されたKant's Conception of Freedomは、そのたんなる増補改訂版ではない。発展史的なアプローチのもと、内在的な変化、外在的な影響を可能な限りすべて視野に収め、徹底した体系的な方法がとられ、アリソンの真骨頂とでもいえるものである(しかしアリソン自身が言っているように、政治哲学的な文脈は扱われない)。

 アリソンの試みとして一貫しているのは、自由概念の発展を「形而上学的」な道のりと「道徳理論的」な道のりという大きな二つの路線から考察していることである。しかし当然、この二つの路線をしっかり歩こうとしてみれば、それらが密接な関係にあり、時には決定的な影響を与えあっていることがわかる。アリソンはそれらの関係に厳密な注意を払い議論を展開するため、本著はかなり複雑で長いものとなっているようだ。しかしアリソンが序論で言うように、「カントの自由意志に関する思想の発展を分析するには、それぞれの路線に沿ったカントの見解の発展と、それらの間の関係を考慮することなしには不可能である。」ここまで包括的な試みは、おそらくいまだかつてなかっただろう。

 自由概念が形而上学と道徳理論の二つで大きな問題となるのは、特に『純粋理性批判』で取り組まれた第三アンチノミー以来、「絶対的な自発性」としての「超越論的自由」と「選択意志 [Willkür] が感性の衝動による必然性から独立していること」としての「実践的自由」の二つの自由観(当然、これらは独立しているわけではない)から明らかなことである。超越論的自由が前提されなければ実践的自由は成立しないということがカントの見解であったことはよく知られているが、その関係は必ずしも明確ではない。そこでアリソンがとる解釈方法は、形而上学的な読み方ではなく、概念的な読み方をする、というものだ。私には、著作全体をとして、アリソンは「概念的に」ということで多くの解釈上の問題を解決しようとしているように見える。その是非については、まだ私の判断の及ぶところではないが、少なくともアリソンによればその方法によって、超越論的自由の客体としての実在性を擁護するのではなく、実践的自由の思考可能性を概念的に拓くための規制的な能力が超越論的自由に認められる。この見解は、カントの議論からしてももっともなものだと思う。

 また、実践的自由については、カントによるそれの定義にも登場しているが、選択意志が感性的な衝動から独立することが可能であるかが問題となる。何度かカントも言うことだが、感性に触発されはするが、必然化されないということが重要である(必然化されてしまう選択意志は動物的とも形容される)。アリソンも述べているが、ここで想定されているのは「心理学的決定論者 [psychological determinist]」に対する異論である。これはカントの道徳理論においてもっとも重要な点の一つである。その理由は、「すべきこと(Sollen=当為)」が可能となるための「概念的な」余地を作るためであり、それは「理性の原因性 [causality of reason]」とも呼ばれるものである。ここで重要なのは、「べき」を指定する規範的な力の源泉は理性の実践的能力であり、それは感性的欲求と対立してもなお働くということである。しかしこれは行為者の欲求的側面がまったく理性的な選択に関与しないことは意味しない。これはアリソンが1990年以来、カントの自由論の核心にあると主張している「取り込みテーゼ [incorporation thesis]」で説明されることでもある。アリソンの代名詞的解釈とも呼べる「取り込みテーゼ」はそのまま維持されているようである。

 さて、本書のような発展史的アプローチによる新たな発見としては、特に批判期以前に揺れ動いていたカントの自由観が、当時の他の理論の影響をどのように受けていたかという視点が興味深い。特に初期のカントは、ヴォルフやバウムガルテンを通じてドイツに定着していたライプニッツ的な両立論 [compatibilism] (=自然(人間本性を含む)と自由、あるいはライプニッツ的に言えば自由と恩寵の領域の間に対立があるのではなく、あらかじめ確立された調和がある、という見方)に与していたようであり、クルージウスの無差別均衡の自由 [liberty of indifference] という見解と対立していたということである。しかしカントは最終的には、自由の両立論的見解が維持できないことに気づくことになる。ライプニッツ的な見解との決定的な訣別が生じたと思われるのは、1769年に「大きな光」を得たと述べている、この時期である。この光は、感性と悟性の認識能力として対等に区別するという着想であったといわれている。

 この光は上記のように認識論的なものであるから、一見すると自由概念には関係ないように思えるかもしれない。ここでの決定的な意義は、空間と時間を感性の形式と定めたことにあり、それによって1770年の『就任論文』以来、可感界(感性的世界)と可想界(叡智的世界)の区別がなされたことが重要である。この形而上学的区分が、のちのカントの「超越論的観念論」へとつながったことは言うまでもない。カントがアンチノミーの解決に超越論的観念論を鍵として持ち出すのだから、この見解が自由概念の発展にもたらす影響は小さいものではない。しかしこの段階では、叡智的世界の理論的認識の可能性を認めていることから、「前批判期」的な見解と呼ぶことは正当なことである。さらに、ヴォルフ学派の合理的心理学によれば、人間の意志はこの叡智的な領域に属すると考えられており、魂の不死性を証明することを目的としていたことから、人間の自由意志の問題が直接的に登場してくる。カントは、自発性[spontaneity]という概念をめぐって、ヴォルフ学派の見解から離れていくことになる。アリソンによれば、これは自由意志の問題が、自発性の自由(ヴォルフ学派)と無差別均衡の自由(クルージウス)の間に設定されたという伝統的な対比を反映したものである。カントはヴォルフ学派に与して、十分な理由という不可侵の原理に反するという理由で後者を否定したが、自発性を絶対的または無条件の観念と、相対的または条件付きの観念の2つのタイプに区別する必要性を主張して、ヴォルフ学派とも訣別した。この自発性についての発見が、その後もカント哲学の中に維持される重大な転機であった。

 さらに、カントの自由についての考え方には、もう二つ重要な変化がある。一つは認識論的なもので、叡智的自由の理論的認識の可能性を否定し、帰責可能性のために実践的自由が維持されるというものである。2つ目の大きな変化は、1785年の『基礎づけ』で初めて明確に定式化された、自律の発見である。この概念によれば、理性的存在者の意志は、先行する出来事によって因果的に決定されないだけでなく、行為者自身の実践理性に由来する道徳法則によって自己立法的に決定される、というものである。

 

章立ては以下のようになっている。

  1. Kant’s Writings of the 1750s and the Place in Them of the Free Will Issue

本章では、基本的に形而上学的な話がされる。特に、クルージウスに反対してヴォルフ学派の両立論に与していたカントの立場が扱われる。対立する両方の立場ともにアリソンの解説がそこそこ充実している。

  1. Kant’s Theoretical Philosophy in the Early 1760s and Its Relation to His Conception of Freedom

まだ形而上学的な話が続く。依然としてヴォルフ学派に与するカントの立場が維持されている。最後には意志の自由についてのバウムガルテンの見解と、それを教科書にしていたカントの議論も紹介される。

  1. Kant’s Moral Philosophy in the Early 1760s

道徳理論路線になる。ハチソンの道徳感覚とヴォルフ・バウムガルテンの完成主義的な義務づけの道徳理論の間でカントがどのような立場をとろうとしていたかが扱われる。前批判期は道徳感情の理論に傾倒していたと評価されることが多いが、アリソンはカントが完全に傾倒していたわけではないことを指摘している。それはバウムガルテンらの義務づけの思想との間で揺れ動いていたからであり、アリソンも「カントの立場が不安定な中途半端なものであることは容易に理解できる」と述べている。

  1. Kant’s Dialogue with Rousseau Supplemented by His Dreams of a Spirit-Seer

本章では、ルソーとの出会いが印象的に描かれる。意志の自由についての自律的着想の源泉はルソー体験にあり、アリソンはこの時期にカントがヴォルフ的な両立論から離れていくことを指摘している。

  1. From the “Great Light” to the “Silent Decade”: Kant’s Thoughts on Free Will 1769–1780

本章で中心的に取り上げられるのは、時期的にも「沈黙の10年」と呼ばれるものである。批判期へ移行するこの時期のカントの考えの変遷を追うのは難解なことのようで、アリソン自身も苦労している。この章だけで独立して本書の第2部を成すとアリソン自身も述べているように、かなり長いし複雑である。感性的世界と叡智的世界の区分が形而上学的な物ではなく概念的なものであると考察されるのは本章である。アリソンは、この沈黙の10年の間に、超越論的自由の重要性に気づき、その点では『純粋理性批判』で公表される見解に達していたことを指摘する。

  1. Kant’s Account of Free Will in the Critique of Pure Reason

見てわかるように、ここからが批判期以降のカントである。まず、第三アンチノミーとその解決策としての超越論的観念論がアリソンによって説明される。複雑すぎるのでざっくりいうと、自由と自然必然性をいかにして調停するかが中心的な論点である。個人的には、『方法論』の規準章における実践的自由の議論が興味深い。そこでは、あまり注目されることが少ないように思われる『基礎づけ』以前の道徳的動機づけの問題が扱われている。

  1. From the Critique of Pure Reason to the Groundwork

本章では、『基礎づけ』での自由論、すなわち自律の発見が中心的な議論となる。その前にシュルツ書評から始まる本章だが、やはり『基礎づけ』第3章における道徳法則の演繹についての議論が目を引く。アリソンは基本的には、『基礎づけ』での道徳法則の演繹にカントは失敗しており、のちに『実践理性批判』で有名な「理性の事実」を導入することで解決しようとする、という考え方をとっているようだ。しかし、ここについては未だに研究者の間でも明確なコンセンサスはないので、注意深く検討する必要がある。

  1. The Fact of Reason and Freedom in the Critique of Practical Reason

本章では、60ページにわたって『実践理性批判』の道徳理論が論じられる。とりわけ謎めいているように見えるのは(これはアリソンが、というよりもカントがそうなのかもしれない)、やはり『基礎づけ』から『実践理性批判』への展開である。道徳法則の演繹が破棄され、「理性の事実」を設定してそちら側から自由を演繹するという姿勢がカントの道徳理論に一貫しているというが、どこまで『基礎づけ』以前の議論が流れているのかは複雑かつ長編な記述ゆえにここでまとめるのはほぼ不可能である。

  1. The Critique of the Power of Judgment and the Transition from Nature to Freedom

本章では、『判断力批判』での自然と自由の間の溝をいかにして超えていくのか、という移行の問題が重要である。ポイントとなるのは、反省的判断力と目的論的世界観が、カントの自由論の核心にいかにして関わっているのか、という点だろう。加えて、本章ではカントの道徳理論の中で、感情的側面が肯定的な仕方で働いていることを『道徳の形而上学 徳論』を中心に展開されている箇所もある。

  1. Kant’s Final Thoughts on Free Will

本章は、カントの最終的な考えとされるが、特に『単なる理性の限界内の宗教』と『道徳の形而上学』における自由意志に関するカントの考えが中心である。悪をどのように論じうるか、という古くはラインホルトによって提起された問題に対するカントの立場が取り扱われる。つまり、根本悪の議論が大半である。アリソンによれば根本悪のテーゼも「概念的な」ものとして処理される。例えば、Allen Woodはこの点におおいな不満を抱いているようである。少なくともアリソンは、最後に自由と人間本性あるいは自然との対立ないし葛藤についての考察をもって、カントの自由概念の後期著作における到達点を論じる。

メンデルスゾーン「道徳論の基礎における明証性」解題

メンデルスゾーンはヴォルフ学派に属する思想家であり、ベルリン啓蒙の時代を生きた当時を代表する知識人である。

今回私が抄訳したテキストは、『形而上学における明証性についての論文』(Abhandlung über die Evidenz in Metaphysischen Wissenschat) であり、カントを凌いで一位を獲得した懸賞論文として有名である。これは、ベルリン・アカデミー哲学部会が「形而上学的真理一般、特に自然科学と道徳の第一原則が、数学的真理と同じ判明な証明を持ちうるか否か」という当時の哲学界の関心事をテーマとして公募した懸賞論文である。この小論において、メンデルスゾーンはヴォルフ学派的立場から、道徳の基礎原理について、それも数学の明証性とは異なるが確かに明証性を持ちうると論じた。

ちなみに、メンデルスゾーンが僅差でカントを凌いで一位を獲得した点について、Guyerは、「ヴォルフ主義者が支配するアカデミーの選出により一等に輝いたのはヴォルフ主義者モーゼス・メンデルスゾーンであった。」(Guyer (2006) p. 25) と述べ、ヴォルフ学派にとって望ましいものだったから僅差でメンデルスゾーンが勝利したと評する。確かに当時ベルリン・アカデミーの院長を務めていたのはヴォルフ学派のオイラーであったが、このようなヴォルフ学派の支配という外的状況によって片付けられるほど単純なものではないという指摘もある。例えば、小谷 (2016) p. 56を参照せよ。

 さて、簡単にではあるが、訳出した範囲である同書第5章「道徳論の基礎における明証性」について、内容を紹介したい。メンデルスゾーンは、人間の行為は理性による推論によって導かれると考えている。大前提として、「Aという特性が見出されうる場面は、Bという義務を行うことを要求する」があり、小前提として「目の前に生じている事例はAという特性をもっている」が置かれることで、三段論法的になすべき行為が導かれる。この大前提が「格率、一つの一般的な人生規則」であり、小前提は経験的な「現在の事態の正確な観察」に基づく。メンデルスゾーンによれば、道徳論の一般的な原則を幾何学のような厳格さをもって証明することはさほど難しいことでない。というのも、私たち人間は共通の理性と判断力をもっているのだから、善悪は同じ根拠に基づいているはずであり、それは個々人の洞察力の程度によって異なっているだけだからだ。すなわち、「何をすべきか、何をすべきでないかを決定するための一般的な基本規則」があり、それが「自然の法則」である。

この自然の法則が道徳の原理であり、それを導くためにメンデルスゾーンは三通りの方法を提示する。一つ目の方法は、人間の欲望や願望、情念や傾向性を観察することである。確かにそれらは経験的で特殊的であるが、最終目標は一つであり、それは最高善であり完全性である。ここから、メンデルスゾーンは「あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態をふさわしい割合で、できる限り完全なものにせよ」という自然の第一法則を導く。

二つ目の方法は、自由意志をもった存在からアプリオリに証明することである。メンデルスゾーンによれば、自由意志をもつ存在は自分が気に入った対象物を選択することができ、この気に入ることの根拠は「完全性、美、秩序」である。「完全性、美、秩序」は私たちに快を与え、それによって私たちは行為へと動かされる。ここでいう「動かされる」という事態は、自分が気に入ることの根拠に基づいているのだから、自由な存在者にとって物理的な制約ではない。メンデルスゾーンは、ここには「道徳的な必然性」が含まれていると述べ、それを義務づけと呼ぶ。ここから、私たちは「完全性、美、秩序」へ向かっていくように義務づけられているため、「あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態を、適切な割合で、できる限り完全にせよ」という自然の法則が同様に導かれることになる。

三つ目の方法は、神の創造の意図を考察することである。神は最も賢明な意図に基づいて行為する存在であるから、その意図は被造物の完全性にほかならない。それゆえ、神の被造物であり所有物である人間は、神が規定する完全性の法則に従って行為するように拘束されている。これらに基づいて、メンデルスゾーンは実践哲学の体系を次のように確立する。「私たちの行為は、それが完全性の規則に合致したものであるか、どちらがより完全か、神の意図に合致したものであるか、そうでないかという点で善か悪かである。」

 メンデルスゾーンは三つの方法から「自分と他人を完全にせよ」という共通の結果が導出されると考えるため、私たちを道徳的に義務づけるのは、完全性を求めることにあったといえる。そして、自分や他人の内的な、あるいは外的な完全性を求める行為、すなわち善い行為をなす習性を徳と名づける。「徳は善い行為への習性であり、悪徳は悪い行為への習性である。」例えば、Guyer (2011) は、アリストテレスにさかのぼる卓越主義 (Perfectionism) の基本的な構造に一致することを見出し、アリストテレスの徳倫理学の継承であることを指摘する。こうして構成された道徳の原理たる普遍的な自然の法則から、「私たちの義務、権利、責務」の全体系を説明することができるため、道徳哲学は首尾一貫性と確実性があるのである。

 さて、懸賞論文の課題でもあった、道徳哲学の確実性についてのメンデルスゾーンの主張をクリアにしたい。まず、メンデルスゾーンは道徳哲学を「自発的な存在者の性質の学問」と定義し、その体系における確実性は形而上学のそれと同じであると論じる。そして、道徳哲学の明証性が形而上学の基礎の上に成り立っているため、形而上学的な理念(神、世界、魂)についての確信が先行していなければならないと言う。それゆえ、道徳哲学の明証性を得る方が、形而上学の明証性を得るよりも困難であるとされる。

 さらに、道徳哲学はたとえば数学と違って人間の行為についてのものであり、理性による合理的な実践的推論によって実行される行為を問題とする。三段論法的に行為を導く際、メンデルスゾーンは、普遍的な自然の法則から直接流れ出る大前提については幾何学的な厳密性をもっていると断定するが、現在がその原則を適用させる場面であるかを見極める小前提は経験によって知られるしかないとする。真の根拠をめったに含むことのない経験の確実性に依存せざるを得ない人間は、「ばかげた蓋然性」に身を委ねるしかない。私たちは何をすべきかを問われる実際の機会において、その蓋然性の根拠をじっくり問う時間は与えられていないが、理性による吟味は時間がかかる。そこで、「良心と幸福な真理感覚」が理性に代わって働く必要がある。「良心とは善と悪を区別する習性であり、真理感覚とは、不明確な推論によって真と偽を正しく区別する習性である。」これらは不明確な推論に基づくにもかかわらず、時間をかけて訓練されるならば、理論的に得られる確信よりもよっぽど強く私たちを行為へと駆り立てる。なぜなら、「私たち人間は理性以外にも、私たちのすることなすことを規定する中できわめて重要である感官や想像力、傾向性や情念をもっている」からである。このようにメンデルスゾーンは、理性によってではなく感情としての良心の働きによって蓋然性の根拠を与えようとしている。これは、当時のヴォルフ学派に支配的であった理性主義とは一線を画する主張であり、例えばKlemme (2018) も主張していることだが、この良心の働きについての洞察が、メンデルスゾーンが理性主義をとっていたヴォルフから最も離れる論点である。

 さらにメンデルスゾーンは、人間は理性による判断と感性的衝動による判断が対立する場合を想定し、それらが一致するためにはどうしたらよいかを考察していく。その手段を与えるのが倫理学であり、それをメンデルスゾーンは四つに還元する。一つ目が「動因を積み上げること」である。知性だけでなく、「感官や想像力も同時に働く」人間は、唯一の確信できる動因よりも、説得力のあるいくつかの動因の方が心を動かされるからである。二つ目が「訓練」である。ある動因によって動かされることを、その行為がたやすくなるまで繰り返して習性を身につけることで、理性のもとに感性的衝動を一つの目的に向けて一致させることができる。習慣と訓練の助けによって、「私たちは最も手に負えない傾向性に打ち克ち、最も頑固な情念を理性のくびきのもとに置くことができ、あるいはむしろ、その傾向性と情念の助けによって、私たちは理性の指令とともに一つの同じ目的を持つものを生み出すことができる」のである。三つ目が「快適な感覚」である。美しさと優美さによって想像力を刺激することで、理性と想像力の判断が一致する。これに役立つのは芸術や文学である。四つ目が「視覚的な認識」であり「実例」を示すことである。「感官をかきまぜ、想像力を揺さぶるので、実例は心の同意において強い影響力をもつ。」

これらからわかるように、メンデルスゾーンが洞察していたのは、道徳論における私たちの確信を支えるものは理性ではなく真理感覚で把握された、蓋然的だが生き生きした確信だということである。ここには、理性ではなくむしろ感情的側面に位置する良心や真理感覚によって強く動機づけられる人間の姿が強く反映されており、蓋然性の根拠が理性による推論を越えて私たちの心を刺激することが示されている。メンデルスゾーンによれば、厳格な理性の下にすべての傾向性や荒々しい情念を支配する人間はほとんどいないのである。メンデルスゾーン倫理学は、理性だけではなかなか行為へと動かされない人間を鋭く見抜き、感情的側面と蓋然性を積極的に評価している点に、独自性がある。

 

【参考文献】

Heiner F. Klemme „Der Grund der Verbindlichkeit. Mendelssohn und Kant über Evidenz in der Moralphilosophie (1762/64)“, in KANT-STUDIEN, 109 (2): 286–308, 2018.

Paul Guyer, Kantian Perfectionism, in L. Jost & J. Wuerth (Eds.), Perfecting Virtue: New Essays on Kantian Ethics and Virtue Ethics, Cambridge: Cambridge University Press, pp. 194-214. 2011.

Paul Guyer, Kant. 2nd edition, Routledge, 2006.

小谷英生「1763年度ベルリン・アカデミー懸賞課題に対するメンデルスゾーンとカントの回答」『群馬大学教育学部紀要』第65巻、pp. 55-69、2016年。

メンデルスゾーン『形而上学における明証性についての論文』抄訳(第5章「道徳論の基礎における明証性」)

道徳論の基礎における明証性

 

人間が試みるすべての正しい行為において、人間は暗黙のうちに次のような理性による推論をしている。

 

Aという特性が見出されうる場面は、Bという義務を行うことを要求する。

 

目の前に生じている事例はAという特性をもっている。それゆえ…等々。この理性による推論の大前提は、私たちがある時に採用した一つの格率であり、一つの一般的な人生規則である。そしてそれは、現在の事例を機に自然と思い起こすに違いない。小前提は現在の状態の正確な観察に基づいており、それが大前提の主題や必要とされるAという特性と完全に一致するという確信に基づく。

 ここでは数学と同様に、理論的なものと実践的なものが分離されているため、それによって道徳論は教えることと遂行することの二部門に分かれている。前者(教育部門)は、個別的に生じる事例における大前提としての役割を果たす一般的な人生規則を提示し、後者(実践部門)は、生じた事例における一般的な原則の適用と遂行を教える。それゆえ私は、この学問の明証性がどこまで及んでいるのか、幾何学の基礎における明証性とどのように関係しているのかを探究しなければならない。

 道徳論の一般的な原則を幾何学的な厳密さと説得力をもって証明できるということを証明することは難しくない。マルクス・アウレリウスが言うには、「私たち人間に認識能力が共通しているとすれば、私たちは理性的な被造物として、理性をも共通している。もしそうであれば、私たちは、何をすべきか、あるいは何をすべきでないかを私たちに指示する理性による根拠も共通しており、その結果、私たちは法則も共通している。」私の考えでは、この結論ほど明確で説得力のあるものはないだろう。異なる事物が似たような規定を持っているならば、それらはその規定から生じる結果も共通していなければならない。人間は共通の判断力をもっているが、それは異なる主題の中である程度区別されているだけであり、したがって、善悪についての概念や判断はすべて同じ根拠に基づいており、その洞察力の程度によってのみ互いに異なる。しかし、もしそうであるならば、何をすべきか、何をすべきでないかを決めるための一般的な根本規則もあり、この一般的な根本規則が自然の法則である。

 同じ見解はまた、私たちがこの一般的な自然法則の知識に到達することができる歩きやすい道を示している。人間が何をしていて何をしていないのか、人間の様々な傾向性や情念[Leidenschaft]、喜ばしいこと[Ergötzung]や不安にさせること[Beunruhigung]などは観察されるだけだが、それらすべてが最終的にはその中で一致するもの、すなわちこの大きな多様性の中にどこにでも見いだされうる規定というものは抽象される。この我々すべてが切望するところの最高善 (summum bonum, quo tendimus omnes) は、人間のすべての欲望や願望が最終的に目指すところであり、これは決して見失ってはならない指針であり、人間の行為の迷宮の中を確実に導いてくれる手引きである。

 人間の何千もの欲望や願望、情念や傾向性に共通しているものは何か。それは、人間はすべて自分や他の被造物の内的な状態や外的な状態の維持や改善を目指しているということである。最も悪質な傾向性や最も恥ずべき欲望さえも、それ以外に最終目的はない。ただ、それらはすべての他の意図よりも利己的な自己を優先したり、内的な状態を犠牲にして外的な状態を改善しようとすることによって、真の利益の代わりに見せかけの物を置くか、ふさわしい割合を見誤るだけだ。野心的で利欲を求める人は、他のあらゆる意図よりも、自分の外的な状態や名誉、能力の改善を優先しているため、他のいかなる意図においても悪徳ではなく、しばしばこの恥ずべき欲望のために心身や友人や母国を犠牲にする。それは快楽に溺れた人と同じ性質を持っている。そんな人は、自分の魂の完全性よりも、あるいは自分の外的な状態の利益よりも、感性的な喜びを不当に優先させる。それゆえ、人間のあらゆる悪徳な欲望も有徳な欲望も、最終的には、内的あるいは外的な状態の、自分あるいは隣人の、真なる完全性かあるいは見せかけの完全性(維持と改善)だけを目指している。このことから、一般的で実践的な格率が、すなわち自然の第一法則が生じる。それはこうである。「あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態をふさわしい割合で、できる限り完全なものにせよ。」この一般的な源泉がみつかったなら、そこから、自分自身に対する義務、隣人に対する義務、そして神に対する義務を導き出すことができる。というのも、神に対する義務を観察することが、私たちの魂をより完全なものにする最も近い、最も確実な、いや、何と言っていいか、唯一の方法であることは、非常に簡単に証明することができる。ここに、この一般的な自然法則から幾何学的な厳密さをもって論証されうるすべての実践的な哲学の特別な部門への道が見られる。

 人は、自発的な存在のたんなる解明から、同じ自然法則をアプリオリに証明することができる。自由を与えられた存在者は、様々な対象や対象の表象の中から自分の気に入ったものを選ぶことができる。この気に入ること [Wohlgefallen] の根拠は、それが好む対象において知覚する、あるいは知覚すると思っている完全性、美しさ、秩序である。完全性の下では、私はまた、利益と対象が私たちに約束してくれる感性的な喜びも理解している。なぜなら、両方とも私たちの内的な状態あるいは外的な状態の完全性に属するからである。完全性、美しさ、秩序の考察は私たちに快を与えるが、不完全性、醜さ、無秩序は私たちに不快感を与える。したがって、秩序、美しさ、完全性は動因[Bewegungsgrund]を与えることができ、それによって自由な存在者の選択が規定される。これらの動因は、自由な存在者に物理的な強制を課すものではない。なぜなら、自由な存在者は気に入ることに従って、内なる有効性から選択するからである。しかし、それらには道徳的な必然性が伴っており、それによって、自由な精神にとって、不完全性や醜さ、無秩序さのうちに気に入ることを見出すのは不可能になる。

 義務づけとは、行為すること、つまり何かをしたり、しないでおくという道徳的な必然性以外の何ものでもない。というのも、自由な存在者には物理的な強制力が成り立たないので、何かを意欲したり意欲しなかったりすることは、動因によってそうするきっかけとなる場合以外に、他の方法では義務づけられえない。しかし、動因は道徳的な必然性を引き起こす。それゆえ、すべての義務づけは、何かをしたり、何かをしないでおくという道徳的な必然性である。——ところで、すべての自由な存在者は、十分に説得力のある動因に従った選択に規定されるよう道徳的に強制されるので、彼はまた、完全性、美しさ、秩序の規則に従った選択へ方向づけることへ、あるいは同じことだが、自由な存在者は、彼にとって可能な限りの完全性、美しさ、秩序を世界にもたらすことに義務づけられている。このことから、自然の義務づけが直接的に帰結する。あるいは、先に述べた自然法則は、他の理由から次のようになる。あなたとあなたの隣人の内的な状態と外的な状態を、適切な割合で、できる限り完全にせよ。

 他方で、この一般的な自然法則が神の意図と一致していること、そして、私が被造物、私自身、あるいは他のより完全なものを作るたびに、神の模倣者となり、創造の大いなる最終目的に従って生きていることは、反論の余地のない理由から示されうる。最も賢明な意図がなければ行為できない神が世界を生み出したと想定されるやいなや、引き合いに出された自然法則は神の意志でなければならないということよりも厳密に証明されうる文はユークリッドの中にもない。最も賢明で善良な存在者は、被造物の完全性以外の意図を持つことができるのだろうか。それゆえ、私たちはこの意図に従って自分の自由な行為を適合させるべきだということ以外に、何かを意欲することができるだろうか。——少なくとも、接線が一点以上の点で円に触れることと同じくらい不可能である。

 しかし、私は創造主の意志に従って自分自身を快適にするよう義務づけられているのだろうか。そうである、私たちの哲学者は答える。神は、あらゆるものの完全なる所有者であり、ゆえに神は無から生み出す。私たちは神の所有物であり、神のしもべである。それゆえ、私たちに法則を課し、自身の気に入ることを指定し、違反者を反逆者のように処罰する、抗しがたい(圧倒的な)権利が神には与えられる。私たちは従わなければならない、完全に降伏しなければならない、神の前に私たちの意志を完全に破壊しなければならない。——この答えは謙虚なものだが、問いにはふさわしくない。権力から直接的に権利を推論することはありえない。神は、肉体的知性において、被造物を手段として自分が意欲することをなすことができる。ここから、神が道徳的にもそれを行うことができるということ、それを行うことが許されているということ、それを行う権利があるということは、どのようにして導かれるのか。私はまだこれらの概念がどこで連関しているのか理解していない。創造物は神の所有物?——まあそうだ!ただ、ここから結論することは、たとえ他の人が権力を持っていたとしても、自分の創造物をどのように利用するかを自分に指令する権利はないということ以上ではない。しかし、彼(神)自身が権利を持っているという数学的な証明はどこにあるか。自分の所有物を用いて自分が意欲することをするための道徳的な権威があるか。誰も否定できないことは、それゆえにまだ許されていない。檻の中で鳴く鳥を絞め殺すことは誰も正当には阻止できないが、だからといって許されるのだろうか。

 ここでまだされるべき小さな歩みは、次のような推理から構成されている。すなわち次のことが証明される。神が最善のもの以外を意欲することはできないこと、そして、権利とは完全性の規則に適ったものを行うための道徳的能力以外の何ものでもないこと、である。さて、結論はつねに幾何学的な証明のように的確に連関している。私たちは神の被造物であるがゆえに、神の所有物でもある。もし私たちが神の所有物であるならば、神は私たちの力を利用し、神がよいと思うものを利用する権利を持っている。なぜなら、神がよいと思うものが最善のものだからである。それゆえ、神は私たちのために法則を指定する権利、すなわち道徳的能力を持っている。というのも、神の所有物である私たちに神が指定する法則は完全性の規則に適っているからである。さらに、この罰自体が完全性等に寄与する場合は、これらの法則の違反者を罰する権利を持っている。

 神の所有物である私たちには、所有者の意志に従うことと、その法則に従って生きることの二重の道徳的必然性(義務づけ)がある。第一に、それらはそれ自体として最善だからであり、それ以外のことを神が指定することは不可能だからである。この概念からどのように義務づけが発生するかは、すでに上記のとおりである。第二に、神が神の法則の違反と遵守に連結して与える罰と報酬は、私たちに従順をより良いものと考える動因を与え、それゆえに神の支配に服従する動因を与える。動因は、それによって自発的な存在者が動かされうる唯一の動機であり、最も賢明な立法者自身は、自発的な存在者がその法則を取り入れることに傾く動因と法則を結びつけること以外に、自分の法則を導入しそれを拘束力のあるものにする手段を持たない。それゆえ、自然法則や神の法則を取り入れるために私たちを結びつけるものは、その内的な卓越性と、最高位の存在者が私たちの最善なものへとそれらと結びつけることがよいと考えた恣意的な罰と報酬以外には何もない。

 これに基づいて、実践的な哲学の体系を特に困難なく確立することができる。私たちの行為は、それが完全性の規則に合致したものであるか、どちらがより完全か、神の意図に合致したものであるか、そうでないかという点で善か悪かである。それゆえ私たちは、あれをなし、これをなさないということに義務づけられる。——徳は善い行為への習性であり、悪徳は悪い行為への習性である。——徳を務め、悪徳を避けよ!——よい行為への義務づけは、私たちがそれなしで実行することができない手段に対する権利を与えてくれる。もし他のあらゆる人間が同じ手段に対する同等の権利を持っていたとしたら、カンバーランドによって明確に切り離されるように、自然の法則は矛盾したものになるだろう。それゆえ、必然的に特権が存在し、この特権は理性的な根拠から決定されうる。これらの理性的な根拠は、個々の事例の量に適用されうる限り、自然の権利の法則を構成し、これらの法則の総体は自然法と呼ばれている。一般的な自然法則から、私たちはこれらの特権を認識し、それにふさわしい人に与えられなければならないよう義務づけられていることが証明されうる。それゆえ、私たちは自然の正義に義務づけられる、すなわち、すべての人に対して、その人にふさわしい権利を与えなければならない。上で述べたように、正義が賢く適応された善性によって説明されようとするならば、それに対する義務づけは他の根拠によっても示されうる。というのも、私たちは自分の内的な状態をより完全なものにし、賢明で善良なものにするために義務づけられているからである。

 ここでもまた、私たちの概念の驚くべき実りある実例が見られる。私たちの義務、権利、責務[Obliegenheit]の全体系は、自発的な存在者の唯一の説明から発展することができ、私たちのすべての傾向性、欲望、情念は、この一般的な源泉から流れており、私たちのすることなすことは、幾何学的な論証がその前提と連関しているように、それがこの基本的な概念に連関しているときには、正当である。しかし,ひとはまた,真理のすぐれた合致を賞賛している。私たちには、基礎をなしている三つの異なる格率をもっている。1) そこですべての人の傾向性が一致しているものを検討する。2)自分を自発的な存在者として認識する。3) 自分を神の所有物として認識し、3つの基本的な格率はすべて次の共通の結論につながる。自分と他者を完全にせよ。そして、無限に多くの基本的な定義、あるいは正しい経験を予め述べておくことができ、ときには短くときには長い道のりの中で私たちを同じ結果へ導いてくれる。この素晴らしい調和によって、ひとは真理を認識する!自然のように、真理は無限に多くの展望、無限に多くの視点を示すが、それらはすべて、そのもとで全体が描写されている大きな絵画の中で一致している。すべてを見る目には、自然のすべてが一つの絵画であり、すべての可能な認識の総体であり、一つの真理である。

 それゆえ、道徳哲学の概念は、理論的な体系を形成するのに十分な実り豊かさと首尾一貫性があり、また、この理論の中で、私たちは、唯一の普遍的な自然法則から、私たちのすべての特別な義務、権利、責務を展開することができるのである。確実性は、形而上学の基礎で約束されているものと同じものであろう。哲学一般が事物一般の性質の学問であるとすれば、特に道徳哲学は、自発的な存在者が自由意志を持っている限りでの、自発的な存在者の性質の学問以外の何ものでもない。しかし、私たちが見てきたように、自由は実り豊かな概念であり、その発展は私たちをすべての義務や責務の認識に導くことができる。それゆえ、理論的な道徳哲学の教説は、確かな根拠に基づいて議論の余地なく示すことができ、その中で支配的な確実性は、形而上学における事物一般の性質を発展させることができるのと同じ確実性である。——それに対して、この学問における証明は、形而上学の基礎や自然の神々しさに比べて、はるかに納得のいかない、理解しにくいものになるだろう。前の節で示されたように、すべての哲学的学問において完全な確信が困難と結びつかざるを得ないということ以外に、道徳論に関して、この学問が形而上学の基礎の上に築かれているということが加わる。人は、神、世界、そして人間の魂についての教説をよく理解しなければならず、道徳哲学において唯一の光を約束することができる前に、そのことを確信しなければならない。もし私が、神、隣人、私自身について、そしてそのうちで私が被造物、副被造物としてかのものとともにある道徳的な結びつきについて、真の正しい概念を持たなければ、私が神、自分自身、隣人に対する負い目をどのようにして理解することができるだろうか。それゆえ、実践的な哲学は形而上学の真理を基礎に置いているので、その明証性を得るのはより難しいに違いないということは容易に理解できる。

 それはあらゆる他の実践的な学問と同様に、遂行される道徳論と関係している。すべての実践的な理性推論は、私たちには経験によって知られるほかない現今の場合の性質を小前提に基礎として置く。それゆえ、結論の真理は、大前提が数学的な正しさを持っているとしても、それにもかかわらず、それによって小前提が疑う余地のないものとされるところの経験の確実性に依存している。そして、経験が小前提の正しさを完全に確信させるほどの真理の根拠を十分に含んでいなければ、結論は弱い部分に続くことになり、ほとんど真ではありえない。

 実践的な道徳論には同じ事情がある。それは常に望ましい程度の確実性を持つことはできない経験が基礎に置かれなければならない。しかし、この機会に際して、次のような考察が無視されてはならない。第一の源泉から直接流れてくる普遍的な自然法則がある。これは私たちの外的な行為よりも心情の傾向性に関係している。それは、私たちが愛するもの、私たちがそれから背を向けるべきもの、そして自然法則に委ねるもの、私たちのすることなすことを適合させることを指令する。この性質について、普遍的な自然の法則は次のようなものである。創造主を崇拝せよ!徳を愛し、悪徳を避けよ!情念を支配し、欲望を理性に服従させよ!これらの自然の指令はすべて、最高度の確信を伴う遂行の推論に変えることができる。私は理性的な被造物だから、創造主を崇拝し、徳を愛し、悪徳を嫌悪しなければならない。私の欲望は幸福の道から私を脇道にそらすかもしれない。私の情念は目標を越えることができるので、私は情念を理性の支配に服従させなければならない。これらのあらゆる実践的な理性推論は、幾何学的な厳密さで証明することができる。その理性推論の大前提には、それについていかなる例外も生じないような普遍性がある。推論の遂行は、より高次の義務にとって邪魔になることはない。なぜなら、その遂行は本来、それに基づいて私たちのあらゆる義務が導きだされるところの源泉だからである。私はどんな時代でも、そしてどんな可能的な事態においても、自分の創造主を崇拝し、徳を愛することなどに義務づけられており、この世のどんな出来事もこの責務から解放されることはない。——この理性推論の小前提は内的な感官の経験に基づくものであり、それは確信を伴うものである。私は理性的な被造物である。私は幸福を切望する。私の欲望と情念は、自己自身に委ねてしまうと、私を不幸にする。これらすべての命題は、確かに最終的には経験に基づくものである。しかし、疑う余地のない経験については、最も的確な理性推論と同じくらい間違いようのないものである。

 しかし、もし人が、特別な場合に何をすべきか、何をすべきではないかを私たちに指令する派生的な自然法則に降りてくるならば、この間違いようのなさは、遂行において徐々に取り去られていき、あらゆる蓋然性の段階を経て、疑わしいという点にまで降りていく。というのも、まず第一に、現今の場合の性質は、真理の根拠を十分に含むことはめったにない経験にこの点で依存している。ある行為の道徳的な善さ、私たちのすることなすことの価値や無価値は、無数の付随する事態や偶然の出来事だけでなく、確実性をもって予見されうるとは考えられないこれらの行為の結果や作用にも依存している。ほんのわずかな思いがけない偶然が、私たちのすべての希望を挫折させ、もっとも有害な作用についての最善の意図を断念させる。私たちが気づかなかった事態と、あらゆる事態の立場を正確に考慮できることは、どれほど稀なことなのだろう!ということは、現今の場合の性質を全く異なる形にすることができる。現実の出来事の原因、結果、状況、偶然性を最も完全な確実性をもって洞察することができるのは、すべてを見通す目だけである。死すべき存在[=人間]はこの場合において、ばかげた蓋然性の誘導に身を委ねるしかない。さらに、目の前に生じる場合において遂行へともたらされるべき大前提あるいは一般的な人生規則にとって、高次の義務はときおり邪魔になることがあり、その場合にはその義務の義務づけがなくなる。私たちは、善いことをするだけではなく、最善のことをすることに義務づけられているのであり、より高次の自然法則にとって邪魔になる派生的な自然法則は、それに席を譲らなければならない。このような高次の義務と低次の義務の衝突は、私たちの実践的推論の大前提を形成する人生規則が特別であるほど気にかかるものであり、また衝突は、もっとも鋭い注意から逃れるような事態によって引き起こされうる。最も賞賛に値する行為、最も功績のある仕事は、まさにその時に私たちがその義務づけがより重要であるところの高次の義務を逃すならば、罪になりうる。なぜなら、すべての外的な行為は、それが生じたことによって、同時に生じたかもしれない他のあらゆる行為を除外するからであり、私たちに何かをするように命令するすべての法則は、まさにその時に、それによって逃れられる私たちの義務が私たちにとってより重要なものを要求しないという条件のもとで理解されなければならないからである。機会、時間、事態からして、何が自分がなしうる最善の行為なのかを確実に洞察していると自慢できる死すべき存在がいるだろうか?そのような場合、確実性を待っているということは、永遠に未定のままでそこにあるということであり、決して遂行へ移ろうとしないということではない。実際、多くの場合、機会は非常に緊急であり、その時点は非常に決定的であるため、蓋然性の根拠を明確な概念に従って十分に吟味する時間さえ与えられていない。良心と幸せな真理感覚(Bonsens)は、私がこの言葉を許可されている場合には、ほとんどの事柄において、理性の場所の代わりにならなければならない。そこでは、私たちがそれを捉える前に、機会が私たちにむき出しの首を向けている。良心とは善と悪を区別する習性であり、真理感覚とは、不明確な推論によって真と偽を正しく区別する習性である。それらは、美醜の領域において趣味があるところのそれらの区域にある。遅々とした批判が徐々にしか際立たせないことを、熟達した趣味は即座に感覚する。理性では骨の折れる熟考なしには明確な推論において解決できないことを、まさに良心がすばやく決断するように、真理感覚は判定する。

 この内的な感情、善と悪、真と偽の感覚は、不変の規則に従って、すなわち正しい原則に従って、しかし、一定の訓練を通して私たちの気質に吸収され、私たちにおいていわば体液と血に変換された原則に従って作用する。それが不明確な認識に基づいているとしても、またしばしばたんなる蓋然性に基づいているとしても、欲求能力に対するそれらの作用力は、それでも習性がなければ確信はするが動かない、教えてはいるが心を動かさない、もっとも明確な理性推論の作用力よりもはるかに激しく燃えるように生き生きとしている。——このことをはっきりさせるために、前節の最後に述べた実践的な確信と理論的な確信の違いについて、より詳しく考察したい。

 私たちは、その命題の真理の根拠がわかるとすぐに、その命題に同意を与える。これらの真理の根拠が完全な論証に近づけば近づくほど、また、それをより明確に認識すればするほど、私たちの同意はより信頼できるものとなる。最後に、ある命題の証明を、私たちがその真理をもはや疑うことができなくなるほど明確に洞察したとき、私たちは完全に確信する。——これが理論的な同意であり、知性の確信である。

 心、あるいは私たちの欲求能力の総体は、それとは全く区別される種類の同意を認識しており、実践的な同意と呼ばれるに相応しい。ある真理を確信している人は、まさにその時点でそれを疑うことはできない。しかし、理論的には義務づけを確信していても、それにもかかわらずそれに反して行為することができる。カルテスは全く根拠がないわけではなく、次のように主張しているようである。raro peccatur defectu theoreticae cognitionis officii sui, sed defectu practicae, hoc est, defectu firmi habitus assentiendi officio suo.

 あらゆる論証的真理が私たちの欲求能力に同じ強固さを引き起こすわけではない。多くのものは、心を動かさずに知性を確信させ、力、生命、そして有効性はないが、明確な認識を与える。それに対して他の真理は、より少ない確実性でより多くの心を動かし、欲求能力において移行する有効で生き生きした認識を生み出し、活動的な決意を駆り立てる。その原因はここではよく知られている。私たち人間は理性以外にも、私たちのすることなすことを規定する中できわめて重要である感官や想像力、傾向性や情念をもっている。私たちの理性の判断は、私たちの下層の魂の力の判断と必ずしも一致しているわけではなく、それらが互いに争うときには、意志において必然的にどちらか一方の有効性を弱めなければならない。真理の同意が実践的になるのは、理性を基礎においているときであり、下層の魂の力が打ち勝つか、あるいはそれらの利益を完全に受け取るかのいずれかのときだけである。後者の場合において、理解しやすいように、理性と想像力、精神と心情が調和して私たちを行為へと駆り立てるためには、心ははるかに決意しなければならない。その場合に限って、すなわち理性根拠がすべての想像力の反対表象を抑制するとき、認識は命を吹き込まれ、行為し始める。

 倫理学は、それによって下層の魂の力と理性との一致を維持するための手段を私たちに提供する。これらの手段は、主に以下の4つの主要部分に還元することができる。1) 動因を積み上げること。多くの説得力のある根拠は、唯一の確信ある動因よりも、より多くの重みをもつことができ、より簡単に心情を動かすことができる。そしてそれらがこれと結合するとき、それらは最も快い満足の源泉である知性と心情の幸福な一致を生み出す。数学者はある一つの証明で満足している。なぜなら彼は知性をもって証明するだけで、たんなる思弁的な同意を強要するしかないからだ。一方、雄弁な人は、根拠の上に根拠を重ね、四方八方から心に突撃し、すべての蓋然的な根拠を自分に有利に利用しようとする。なぜなら、彼は心情を動かし、欲求能力を受け取ろうとしており、知性だけでなく、感官や想像力にも同時に作用しなければならないからである。2) 訓練。私たちはある種の根拠を考え、そして私たちは同じ動因から行為を起こせば起こすほど、行為が心に残す印象はより生き生きとして、下層の魂の力に影響を与えやすくなる。この訓練を行為がたやすくなるまで続けると、私たちは何かをすることの習性が身についたと言うことになる。習慣と訓練は私たちの心情の中で独断的に統治しており、その助けによって、私たちは最も手に負えない傾向性に打ち克ち、最も頑固な情念を理性のくびきのもとに置くことができ、あるいはむしろ、その傾向性と情念の助けによって、私たちは理性の指令とともに一つの同じ目的を持つものを生み出すことができる。3) 快適な感覚。理性根拠が美しさと優美さに支えられているとき、想像力は同意するように刺激されやすい。完全性は理性の動機であり、快適な感覚は想像力の誘惑物である。この点に、道徳論における美術と学問の有益さは基づいている。理性根拠は、徳の素晴らしさについて知性を確信させ、美術は想像力の同意を強要する。前者はそれを尊敬に値するものとし、後者はそれを快適にする。前者は幸福への道を示し、後者はそれに花をふりかける。もし彼が自分の使命に忠実であり続け、徳が現実にそれから約束されうる利益を得るならば、世界の賢者の目には、ヴィルトゥオーゾ[=卓越した技量をもつ人]はどれほど偉大なのだろうか。4) 最後に、想像力を理性に一致させるという第四の主要な手段は、観察的な認識であり、すなわち、普遍的な理性根拠が実例によっていわば感性的な概念に変換される場合である。すべての理論において、範例は説明の役割を果たすだけで、私たちが普遍的な定理を明確に理解するとすぐに余計になるが、遂行において実例はつねに格率よりも有益である。感官をかきまぜ、想像力を揺さぶるので、実例は心の同意において強い影響力をもつ。——この点に、歴史の有益さと、道徳論におけるエソップ寓話が基づいている。

 今や、実践的な道徳論の原則が私たちのすることなすことに相応しい作用をもたらし、徳への永続的で不変の進んだ意欲 [Bereitwilligkeit] を遂行すべきであるときに、必要なものを見ている。それらは、快適な感覚の暴力によって活気づけられた実例によって支えられ、訓練によって一定の有効性を維持し、最終的に習性に変換されなければならない。このようにして、道徳論における私たちの最も高貴な目的であるところの心情の確信が生まれる。精神はつねに自己の前に蓋然的な証明だけを見ているかもしれない。そう、精神はこの蓋然性自体を明確に解釈していないかもしれない。ただ真理感覚で次のことを理解しているかもしれない。これはつねに認識の生命を妨げるものではない、と。それにもかかわらず、感官は生き生きと動かされ、想像力は燃え上がり、心は習慣、実例、優美などによって、最も確固として不変の同意に強制されうる。そこからは、快い安心と満足が生じる。精神の冷たい確信からよりもずっと。

 これらの考察は、論証的な道徳論の有益さ懐疑のうちに引き出すことを意図したものでは決してない。むしろ、神とその属性についての教説に関して、前章の最後に思い起こされたことがここにも妥当する。どんな種類の認識にも価値がある。疑念が生じ、敵対者が否定され、徳の理論的な敵が恥をかかされるような場合には、厳密な証明を頼りとする以外に手段は残っていない。そう、多くの幸運な天才は、その神的な調和に魅了されるために、道徳的真理の体系をそのあらゆるわずかな結びつきとともに、関連の中で明確に生き生きと直観するのに十分な精神の高揚と強さを持っている。そのような状態では、最もそっけない認識は精神と生命に到達し、前述の手段、感官、想像力の助けを借りずに理性の高さにまで跳ね上がり、魂のすべての能力は徳を愛することへ活性化される。このような崇高な感激 [Begeisterung] を持つことができる者は誰でも、もっとも厳格な理性の指導の下で、自分の傾向性の主人となり、情念の荒々しい嵐を知恵の助言に従って統治し、心情と精神の間には、恐怖も希望も苦痛も歓喜も邪魔することのできない、最も優雅な融和をもたらすことができる。——このような神的な熱狂 [Enthusiasmus] をもつことができる死すべき存在はほとんどいない!思弁的な根拠に自分の心情が動かされず、自分の想像力が熱中させられないことに自分の中で気づいた人は、あらゆる困難に満ちた扱いにくいことを避け、上述した説得の手段によって自分の心情を調和のとれた状態に誘い込もうとする。そしてそもそも、これらの考察から、数学的な確実性が必ずしも実践的な転換に要求されないこと、そして、たんなる蓋然性が思弁的な理性推論よりも、しばしば心に激しく生き生きとした作用をもたらすことが明らかになっている。蓋然的な認識は、心情を調和のとれた状態にさせる手段によって支えられている場合が多い。

 以上が、形而上学の様々な諸部分における明証性についての私の考えである。当初は特別な章で私以外の考え方を扱うつもりだった。世の賢者の中には、数学の基礎に見出された優れた明証性の根拠を、数学的方法だけに置きたがる人もいる。それゆえ彼らは、同じような考え方を導入することで、哲学的な学問の中においても、同じような明証性を得ることを望んだのである。この希望がほとんど成功しなかったことは知られている。しかし、数学の優位性が考え方においてだけ求められるという前提それ自体がいかに根拠のないものであるかは、上記の私の考察からも明らかである。それゆえ私は、より広く論じられた上述の章で詳述し、より正確に数学的方法の有益さを規定しようとした。しかし、内的な確信へ至る方法は必ずしも要求されないし、特に数学的な考え方の応用が乱用によってほとんど愚かしいものになってしまっているので、私は必要もなしにこの論文をより拡大しようとはしない。