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義務論はカント独自のものか? ——17-18世紀のドイツ思想のコンテクストとしての義務論

カントといえば義務論、義務論といえばカント。これがいまだに倫理学の教科書の鉄板である。しかし、カントの義務倫理学は、カントがゼロから編み出した独自の思想ではない。倫理学における義務づけの思想は、18世紀ドイツにおける自然法論、とりわけグロティウスやプーフェンドルフらの義務論の影響下で形成されたものである。義務論としての倫理学は、カントが大いに影響を受けたヴォルフやバウムガルテンらによっても展開されていたが、現代ではカント倫理学の専売特許のように語られることが多い。しかし、それだけではカント解釈としてもやはり限界がある。ここでひとつ、カントの思想形成を追うために、彼の時代にさかのぼって文脈をとらえる作業が必要であると思われる。内容にはほとんど踏み込めないが、ざっくり振り返ってみることで読者の関心を少しでも引き起こせたら幸いである。

 

◆プーフェンドルフ

プーフェンドルフによれば、法とは上位の者が服従する者に対して行為を強制させる義務づけの命令である。今回は国法についてはスルーして自然法だけを見るが、この法概念は一貫している。プーフェンドルフの観察によれば、人間は自分勝手な存在だが、自分だけでどうにかしていけるほど力もないので、社会性を養ってそれを保持すべきである。これが自然法である。さて、問題なのはこの「べき」という義務づけの根拠である。それは一言で言えば神である。プーフェンドルフの自然法がもつ義務づけについてはさらに細かく分かれていくが、今回は省く。また、完全義務と不完全義務の区別を最初に持ち出したのはおそらくプーフェンドルフであり、これがヴォルフやカントに多大な影響を与えたことは疑いようがない。カントが義務論を展開する土壌は、17世紀の自然法理論にあったことは倫理学史上確かだと思われるが、その影響力の大きさとは裏腹に、現代の教科書的な倫理学説でプーフェンドルフはほとんど顔を見せない。ちなみにプーフェンドルフについては邦訳が出版されている。『自然法にもとづく人間と市民の義務』を参照。

 

◇ヴォルフ

ヴォルフの倫理学は、完全性を求めることを倫理的規範として規定している。ざっくり言えば、より完全であればあるほど善いということだ。ちなみに、物事の完全性は理性を働かせればわかるという。とはいえ人間の理性は有限なので、できる限り完全なものにすることが限界である。それゆえヴォルフは、『ドイツ語の倫理学』§44において、完全性をもちうるのは神だけであり、人間は「より大きな完全性に向けた妨げのない進歩」があると述べている。実践的に求めるべきである完全性を目指し、それへと接近していくことが義務づけられているというのが、ヴォルフの思想である。この義務づけをヴォルフは「自己自身に対する義務」として位置づける。道徳性の原理としての完全性によって拘束されているというヴォルフの倫理学は、義務づけの根拠をもっぱら神に求めた自然法理論 (特にプーフェンドルフ) との対決がある。ここから、義務づけの根拠を神から離して、自己拘束の可能性を切り開いたのはヴォルフにおいて確認される。その展開が十分なものかは検討の余地があるとしても、カントはこの上に自らの義務論的な倫理学を築き上げたことは間違いない。

 

🌳バウムガルテン

バウムガルテンにとって、「実践哲学とは信仰なしに認識されうる人間の義務づけ (obligationes) についての学」であった。(『第一実践哲学の原理』§1)

 

☆資料

形而上学』§723(私訳)

自由とより密接に結びついているものは、広い意味での道徳である (§787参照)。それゆえ、自由な規定は道徳的規定であり、自由な行為における習性 (habitus, fertigkeit) は道徳的な習性であり、道徳的規定の法則は道徳的な法則である。 道徳哲学と道徳神学はこれらを教え、それらから生じる状態は道徳的状態である。それゆえ、道徳的に可能なものとは、(1) 広い意味では、自由によってのみ、あるいはそのような自由な実体においてのみ行うことができるものであり、(2) 狭い意味では、すなわち道徳的に許されるという意味では、道徳的法則に従って規定された自由によってのみ行うことができるものである。 道徳的に不可能なものとは、(1) 広い意味では、自由な実体における自由を理由にして行うことができないものであり、(2) 狭い意味、あるいは道徳的に許されないという意味では、道徳法則に従って規定された自由によって不可能なものである。したがって、道徳的必然性とは、その反対が道徳的に不可能なものである。(1) 広い意味では、その反対が自由によってのみ、あるいはそれが自由である限りの実体においてのみ不可能なものであり、(2) 狭い意味では、その反対が許されないものである。 道徳的必然性とは義務づけ (obligatio, verpflitung) である。 意に反する行為に対する義務づけは、道徳的強制 (coactio, zwang) であろう。

 

義務づけによって必然になった行為が義務であり、そのような道徳的な必然性は自由の根拠である。その点で、自由と必然性は矛盾するものではない。例えば上で全文を訳しておいた『形而上学』§723や、実践哲学の著作である『第一実践哲学の原理』§11あたりには、道徳的な必然性は自由の反対ではないことが明記される。バウムガルテンによれば、自由な規定が道徳的に必然化するには、動因によって駆り立てられる選好の大きさによって決まる。義務づけには、動因の強さによって強弱があるため、原理上義務づけは衝突しない。衝突しているように見えても、より強い義務づけが真の義務づけである (§23)。バウムガルテンの見解では、人間は善を行わないことよりも、善を行うことにより強力な動因が連結されているため (cf. M 665)、「善をなせ」という義務づけが生じる。

 

メンデルスゾーン

メンデルスゾーンは、「何をすべきか、何をすべきでないかを決定するための一般的な基本規則」としての「自然の法則」を道徳の原理とする。メンデルスゾーンによれば、自然の第一法則は、「できる限りの完全性を求めること」である。ヴォルフと基本図式は同じである。ここから、自分自身に対する義務、隣人に対する義務、そして神に対する義務を導き出すことができるという。また、義務づけとは、行為すること、つまり何かをしたり、しないでおくという道徳的必然性を意味し、それは物理的な強制とは区別される。自由な存在者は物理的に強制されず、強い動因によって動かされる。それは完全性を求めるということであるが、これは人間の自然本姓に適っているため、義務づけは自然なものであるともいわれる。ここからも、やはり義務づけないし道徳的必然性と自由は対立しないという考えは、当時の道徳論に定着していたことがわかる。

 

☆まとめ

自由が道徳法則による義務づけの必然性と関連するという義務論的発想は、カントの時代のドイツの倫理学的言説においてはむしろ定番であったといってよい。ではカントの独自性はどこにあるのか。長い道のりになりそうなので、それはまた別の機会に探究することにしたい。

カント倫理学研究の紹介:Denis "Kant’s conception of virtue "

デニスのこの論文はCambridge Companion to Kant and Modern Philosophy (2006) に所収されているもので、カントの徳概念について学ぶ者にとっては必読文献の一つといっても過言ではないと思っています。基本的なところが非常に明瞭に説明され、無視されがちな側面にも十分な注意が払われており、私も大いに勉強させられました。カント倫理学についての優れた研究であることは間違いないと思うので、部分的に、かつ簡単にですが紹介させていただきます。

 

まず、デニスはカントの徳についての説明を以下の六つに整理する。

①道徳法則への尊敬から自らの義務を遂行する心構え [Gesinnung] 。この心構えは、道徳法則が命じるように行為する主観的原理である格率を暗に示しており、道徳法則への尊敬を反映している。

②徳はカントの著作や講義録において、意志の強さとして描かれている。

③徳は戦いを伴う対立を前提とする。この戦いは「VS傾向性」ではない。戦いになるのは、人間の意志が神聖ではなく、必然的に道徳法則と一致するわけではないからである。徳に対立するのは自己愛や傾向性ではなく、自己愛を優先させようとする性癖、すなわち根本悪である。

④徳は神聖ではない理性的存在である人間の特徴である。

⑤徳は内的自由に基づく自己強制である。

⑥現象的徳(行為の適法性からみた義務に適う行為の習性)と本来的徳(行為の道徳性がゆえに義務に基づいてそのように行為する確固たる心構え)は区別される。

 

まとめると、カントの徳は次のように理解されうるとデニスは言う。

・ 神聖な意志を持たない理性的な存在が、道徳への最上のコミットメントを表現する形式

・自らのすべての義務を果たすために自分の傾向性を支配するために継続的に陶冶された能力

・その陶冶と行使が道徳法則への尊敬によって動機づけられている能力

 

次にデニスは悪徳とたんなる徳の欠如の区別を取り出す。 

・徳の欠如…義務における弱さ(道徳性へのコミットメントをもつが、それをなす決意がない)。それゆえ、不完全義務を履行しない。

・悪徳…道徳法則の軽視(=あえて道徳法則に反して行為しようという性癖)。それゆえ、たんに不完全義務を履行しないのではなく、それに積極的に違反する。

 

またデニスは、有徳であることと善意志を持つことの区別を強調する。 

善意志をもつことは、たんに道徳的格率を道徳的理由に基づいて採用することであり、そこに強さ(=徳)の問題は生じない。しかも、善意志は悪徳とは両立しえないが、徳の欠如とは両立しうる。しかし、善意志は徳にとって必要条件となる。つまり、善意志をもちながらも徳をもたないことは考えられるが、善意志をもたなければ徳はもちえない。徳は善意志を行為において実現するための強さを意味するのだから、両者は概念的には区別されるが、本質的には関連しているのである。

 

では、徳をもった行為者とはどのような存在なのか。

デニスは、カントの徳概念の理解のためには、有徳な行為者の動機づけの構造を検討しなければならないとして、いったん動機づけの問題に移る。有徳な行為者は、自らの最上格率において法則への尊敬を自愛の原理に優先させる仕方で動機づけられる。つまり、道徳法則への尊敬によって動機づけられる必要があるわけだが、これは定言命法に従うことを含んでおり、自己や他者における理性的本性への尊敬を意味する。

しかし人間は、理性的本性を尊敬するという観点だけでは、他者や世界に実際に応答することはできない。『宗教論』によれば、人間には三段階の素質、すなわち、動物性の素質、人間性の素質、人格性の素質がある。

人格性の素質が道徳的に重要なのは明らかだが、3つの素質は全て善であり、道徳法則の遵守を促す。しかし、動物性の素質と人間性の素質は腐敗しやすい。ほとんどの徳のための戦いは、3つの素質を調和させる努力なのである。実際、具体的な徳や悪徳に目を向けると、人格性だけでなく、人間性や動物性を持つ存在としての自己や他者をいかに尊敬するかが問題となることが分かる。カントにおいても、自己自身への義務は、シラーが批判したような修道士のような禁欲的生活ではない。カントはむしろそれを否定している。傾向性を排除することは全く目指していない。自己の完全性の義務は、自らの自然的能力の陶冶を伴うのであるから。

 

しかしカントは無感動と自己支配を主張するとき、情動的な動物的側面を非難しているように見える。確かにカントは無感動を賞賛するが、それは情動を抱くことへの反対ではなく、怒りのようなつかの間の感情によって意志を規定されることへの反対である。また、自己支配は無感動以上に包括的である。自己支配を促すことでカントは、自分自身から感情や傾向性を取り除くことを勧めるのではなく、それらの感情を道徳性と両立しうるように、あるいはそれを支えるように、使用することを勧めている。

 

デニスは、カントが感情に与える重要な役割を3つに区別して説明している。

①義務を果たすため役立つ(例えば同情)。

同情は、他者のニーズや欲求を理解するための手段として、それゆえ他者の援助を容易にする動機として、役立つ。

道徳感情、良心、人間性への愛、尊敬。

これらをもつことは義務ではないが、これらは道徳的に役に立つので、陶冶することは義務である。

③義務の遵守に伴う快活な心や、義務の遂行に喜びを感じること。

カントは徳と戦いを結びつけるが、有徳な行為者が義務を憎んだり、義務を果たすことによって苦しむことは否定する。

 

それゆえカントにとって徳は、動物性と人間性の道徳的に役立つ側面を促進することも含む。有徳な情動、感情、傾向性は心の平静さ同様、徳の源泉ではないが、徳に向けての補助道具である。

 

デニスは具体的な徳についてもカントが論じていることを指摘する。

カントが言うには、客観的にはただ一つの徳(格率の道徳的強さ)であるが、主観的には複数の諸徳がある。具体的な様々な諸徳は、道徳的義務の遂行を容易にするために必要とされる。

徳の義務として挙げられるのは自己の完全性と他人の幸福を促進することであるが、具体的な徳は数多くあると考えられる。それは、意志が徳の唯一の原理から導かれるさまざまな道徳的対象が考えられるからである。

 

デニスの論文では、特に他人の幸福を促進する徳の義務(愛の義務)について深められる。

他者の幸福の不完全義務を促進するものとして陶冶する義務があるものは、親切、同情、感謝である。

親切…見返りを求めずに困っている他者を助けること

同情…他者の感情を積極的に共有することと、他者の感情やニーズを理解するために自己の自然的な同情的感情を陶冶することの両方

感謝…見返りを求めずに親切に対して感謝すること

 

親切は直接的に他者の必要性に対応し、同情は役立つように援助する。カントは愛の義務に反対するものを悪徳と明確に呼ぶ。

さらにカントは、直接的な倫理的義務に対応する徳と悪徳に加えて、徳と呼ぶことはできないような特質についても論じている。これらは、間接的に道徳性を促進することもある心構えを含んでいる。その一つは「社交的徳」と呼ばれるものである。社交的徳は真の徳ではないが、徳を装飾することに結びつき、そのような徳に優雅さを添わせることは徳の義務である。

 

最後に、カントがカント以前の徳概念の批判を行っていることが取り上げられる。

アリストテレス批判

カントは、徳をたんなる習慣として、そして中庸として考えることは違いであると主張している。徳がたんなる習慣だとしたら、新たな誘惑がひき起こしかねない変化に対して準備ができていないことになる。

そして徳は両極端の悪徳の中間でもない。カントにとって、徳とは、道徳的格率とその格率に基づいて行為する際の決意の強さを意味する。悪徳は、道徳法則に反して行為することを選択することを意味する。徳も悪徳も、それぞれ別の格率をもつため、程度の問題ではないのである。 

ストア派エピクロス派への批判

またカントによれば、古代の哲学者は、徳と幸福、そして人間の善の関係を誤解している。カントは、『実践理性批判』で、エピクロス派とストア派について言及し、両者とも、神なしで自分の自由だけを通じて最高善を達成することができると考えたのが間違いであったと主張している。エピクロスは人間の幸福を徳の手段として誤解し、ストア派は徳が幸福を構成すると誤って考えた。しかし、カントはストアの理念に多く同意しているところもある。

 

デニスは、近代の道徳哲学者へのカントの批判も取り上げるが、それらの批判は徳よりも義務に向いているため、今回は省く。

 

今度、義務づけの思想について、カントとその周辺についてもまとめてみたいと思います。この方面での研究を誰かにやってほしい(人任せ)。

カント倫理学研究の紹介:ラウデン「カントの徳倫理学」

Louden (1986) Kant’s Virtue Ethics

今回紹介するラウデンの論文は、カント倫理学が徳をどのように問題にしていたのかを、義務論倫理学の体系を守りながらも積極的に論じているバランスのよい論文である。最近翻訳が出版されたオニールの『理性の構成』に所収されている「美徳なき時代におけるカント (Kant after Virtue)」に中心的に展開される格率解釈の批判的検討も含んでいる。ラウデンもオニールの解釈の方向性には同意し、カントが行為者のあり方を問題にする徳倫理学的視点を十分に有していたことを主張するが、カント解釈としての注意点をより強く意識しているような印象である。オニールの格率解釈を読んだ読者なら、一度目を通しても損はない。

 

格率を読み直す:オニールの格率解釈の検討

カントの徳倫理学的解釈の一つの議論は、格率概念を読み直すことから生じる。この戦略をとる論者には、オニールやヘッフェなどがいる。格率は「意志の主観的原理」と定義されるものであり、ある特定の時間と場所において行為者によって採用されるものである。それゆえ、格率は行為主体の意図や関心と結びつかなければならない。通常の格率理解によれば、個々の行為に対して格率があると考えられている。しかしオニールはこれを退け、行為者にとって根底的な意図 (underlying intention) として格率を解釈する。この解釈を支える二つの論証は次のようなものである。(1)私たちは特定の意図は意識しているが、カントがしばしば主張するように、私たちは行為の本当の道徳性を知ることはできない。これは、格率と特定の意図が同じではないことを示している。(2)私たちは時々、意図をもたずにぼんやり行為することがあるが、カントによればすべての行為には格率があるため、すべての行為は道徳的評価に開かれている。これもまた、格率と特定の意図との違いを示している。

このように、特定の意図ではなく根底にある意図として格率を解釈することは、徳の観点からカント倫理学を読む強力な根拠となる。というのも、根底的な意図は私たちがどのような人間でどのような生を送っているかということに直接結びつくからである。

しかしこの解釈には二つの問題点がある。

(1)オニールが使う「根底的な意図」という表現は曖昧である。また、オニールが言うところの、格率の採用はどのような人間であるか、あるいはどのような生を送るかを反映するという考えと、格率は長期的ではなく、自由に変えることができるという考えは調和しない。どのような人間になるか、という点には長期的なプロセスが必要であり、根底的な意図が長期的な意図から離れれば離れるほど、格率と徳は結びつきにくくなる。この奇妙に見えるオニールの根底的な意図と長期的な意図との区別は、おそらくカントのテキストにさかのぼることができると思われる。それは人間の徳は習慣ではない、という主張である。カント的な徳は、「新しい誘惑がもたらす変化に対して十分に守られている」道徳的な心術である。カントが徳は習慣ではないと考えた背景には、罪悪感を抑圧するための合理化や自己欺瞞を見抜いていたことがある。とはいえ、長期的な習慣が必然的に機械的な習慣になるわけではない。それゆえ、オニールの区別には十分な根拠がない。

(2)オニールの「根底的な意図としての格率」は、カントが挙げる格率の例と一致しない。カントの挙げる例では、非常に具体的であり、発生しないかもしれない限定された状況にのみ適用される格率がある。カントによると、格率は短期/長期的な意図の両方を意味する可能性がある。カントの格率は、個別的な行為も、人生の経過も、どちらも道徳的評価に開かれているのである。どちらの評価も倫理学には必要である。

 

同時に義務である目的としての自己の完全性

カントの文章の中には、根底的な意図と人生に関わる格率の基本的な例がある。それが『徳論』での目的の格率である。すべての行為は目的をもち、目的の選択は行為主体にとって自由になされる。目的は欲求や傾向性の対象でもある。しかし、ある目的をもつように強制されることはないため、あくまで目的は自分で選択しなければならない。つまり、目的の採用は傾向性ではなく、実践理性の権限のもとに置かれる。そこでカントの立場は、同時に義務である目的がある、というものである。カントによれば、同時に義務である目的があると仮定しなければならない。もしすべての目的が偶然的なものであるならば、すべての命法は仮言的なものになるからである。

カントが『徳論』で示す「同時に義務である目的」は二つある。自己の完全性と他人の幸福である。義務としては自己の完全性の方がより基本なものであり、これは道徳的性格にも直接的につながる。自己の完全性の促進として主張されている最も重要なものは、自己の意志をもっとも純粋な徳の心術へと陶冶する義務である。カントによれば、徳は善意志への人間の接近であり、接近でしかありえないのは、人間はつねに法則に反しうる傾向性をもっているからである。

すなわち、徳を発展させる義務は自己自身に対する義務である。ここで最も重要なことは、自己の道徳的性格を発展させることが、カントの義務論の要だということである。自己自身に対する義務がなければ、いかなる義務も存在しないからである。

カントの主な主張は、法的な義務、道徳的な義務、どんな義務であれ、すべての義務の基本となるものは、自分自身を拘束する概念であるということである。同時に義務である目的に関するカントの議論を検討すると、徳がカントの倫理学の中で優越的な位置を占めていることが顕著に明らかになる。私たちの最優先の実践的使命は、すべての行為の基礎としての自分の性格の中に徳の状態を実現することである。このような自己自身に対する義務を果たすことなくして、他の義務を果たすことはできない。それゆえ徳は、カントにとって倫理の中心であるだけでなく、法論を合わせた全体の道徳理論においても優先されるべきものである。

しかし、注意すべきは、徳それ自体は道徳の最上原理ではないということである。徳も概念的には道徳法則に従属するものである。個々の行為も生き方も評価するのは紛れもなく道徳法則であるため、道徳法則の優位は揺らがない。

カントの倫理学において徳は、よく考えられているものよりはるかに重要であるが、それにもかかわらず、カントの倫理学が徳の倫理学であると断言するのは大げさである。行為者と行為の両方の視点の重要な側面は、カントの倫理理論に存在している。カント倫理学は個別的な行為だけでなく、人生のあり方(生き方)についても評価しようとする道に開かれている。そして、どのような人間であるかは重要であるが、それでもカント倫理学における道徳的人格の概念は法則への服従という観点から評価される。

道徳的価値をもつのは義務に基づく行為のみと言われるため、通常の理解では、カント倫理学は徳の倫理的立場を支持しないように思えるが、そうでもない。カントの義務に基づく行為の概念が意味するのは、特定の規則のために特定の行為を実行するということではない。すべての行為が道徳法則と調和する性格の顕現である生き方を目指して努力することである。

また、カントへの厳しい批判の焦点は、理性主義と道徳的動機づけの問題である。ここからは、徳に基づく行為における感情の役割に対するカント的立場を中心に展開する。

一般的には、行為主体が本当にそうしたいと思う(道徳的な)行為が賞賛に値すると考えられる(助けたいと思ったから助けた、という行為など)。ここで「~したい」という意味を明確にする必要がある。そのためにまず、反カント主義の主張を確認する。彼らによると、徳に基づく行為は少なくとも時には利他的な感情や欲求に動機づけられる。カント的な義務に基づく行為は、すべての自然的な感情や欲求を排除する。したがってカント倫理学は徳に基づく行為が入り込む余地はない、というものである。

厳格な意味で徳に基づいて行為するとは、理性的に行為することであると考える点でアリストテレスとカントは一致している。しかしアリストテレスは実践的選択について、欲求によって動機づけられた理性と、理性を通じて作用する欲求の二つを道徳的選択の要因と考えていた。では、カントは徳に基づく行為を理性に加えて欲求にも基づいて行為することだと考えるだろうか。

上記のように、カントは感情の敵として考えられることが多いので、カントのテキストに認められる感情の意義を問うことさえ無駄に思われるかもしれない。カントは法則に対する尊敬感情を「アプリオリな感情」として認めているが、やはり自然的な感情はなんら積極的な役割をもたないのか。しかし、カントの道徳的動機づけの理解における感情と自然な傾向性の役割は、しばしば想定されているよりも厄介なものである。通常の解釈では、自然な感情には、何ら積極的な役割はないということを意味していると解釈されることが多いが、カント倫理学においても、理性だけで徳を達成するには不十分である。感情は意志の規定根拠ではなくとも、徳の心術のうちに様々な感情があるはずである。アリストテレス的に言えば、それは理性によって訓練された感情である。これらの感情は、尊敬感情に比べれば二次的ではあるが、道徳的で徳のある生活を送る上では不可欠な要素である。

カントは『基礎づけ』で、義務の行為を例示する際に、行為者が義務に反対する行為(例えば、他人の苦しみに対する同情よりもむしろ反感を感じる)を実行する傾向性を持っていた場合、行為者が義務が要求するのと同じ行為を実行する傾向性を持っていた場合よりも、ある行為が義務から実行されたかどうかを正確に判断する方が簡単であるということを示している。もちろん、傾向性が動機として排除されているように見えても、何が最終的に行為者を動機づけるのかを確実に決定することはできない。カントは、私たちの道徳的意図は、私たちにとって不透明なままであると主張している。同様に、カントは第二批判において、利他的な感情を道徳的行為を動機づける上で道徳的法則と「協力」するものとみなすことは「危険」であると述べている。その理由は、法則への尊敬から行為することに加えて、義務と同じように行為したいという自然な欲求がある場合には、行為の真の動機を見極めることがますます難しくなるからである。とはいえ、感情を行使することは確かに危険かもしれないが、真の有徳な人生を目指す人間には、情動の適切な育成が必要である可能性を排除するものではない。そしてカントは明らかに彼の後の著作(『徳論』や『宗教論』)で、感情は道徳的動機で果たすために必要かつ肯定的な役割を持っていることを主張している。それゆえ、感情の敵というカント理解はひどい誤解である。

カント立場はこうである。確かに道徳的選択のための最も重要なことは、感情ではなく、理性でなければならない。しかし、感情が理性に逆らうのではなく、理性とともに働くように感情を訓練することの意義は認める。傾向性が規定根拠となる場合に道徳的価値はないが、しかしだからといって、理性と調和する感情さえも道徳的価値を台無しにするわけではない。むしろカントはそれをよいことだと考えている。

カントの見解では、徳に基づいて行為することは、理性を通じて感情を鍛錬することを含意し、その結果、理性が命令する外的な行為と同一の行為をしたいと思うようになるために、理性によって感情を訓練することを必要としている。しかし、カントが警告しているように、このような方法で感情を鍛えると、自分の行為の動機を評価することがより困難になる。徳の陶冶には、そのリスクを冒すことが必要なのである。

感情と徳についてのカントの立場は、アリストテレス的な徳倫理学と矛盾するものではない。それはアリストテレスの見解に著しく近いものであり、大きな違いは、カントがアリストテレスよりもはるかに、道徳的であるという自己欺瞞の危険性をずっと意識していたことである。

カント倫理学研究の紹介:Herman「道徳的判断の実践」

Barbara Herman, The Practice of Moral Judgment. Cambridge, Haward University Press, 1996, pp. 73-93より。

ハーマンのこの論文は、格率の普遍化テストを意味あるものにするためには、状況に対する感受性が行為者に内面化されていなければならないと主張する点で非常に示唆的である。それを構造化するものを「規則rule」という名称を当てて、打ち出した点は批判的に検討する必要があると思うが、少なくともカント倫理学を格率の倫理学として見る際には、ハーマンが開いた方向を無視できなはずである。以下で、少し雑ではあるが順に見ていきたい。

 

カント倫理学に対する批判として、道徳的判断において規則が果たす役割に向けられることが多い。カント倫理学は極端な厳格主義、個人主義をとり、道徳的な感受性を欠いているというものだ。この批判に対して、カントに忠実な仕方で応答することがハーマンの意図するところである。

 

カントにおける道徳的規則の役割に対する批判としてよくあるのは、個別的特徴を捨象しているというものである。行為が意味あるものとなるのは個別的な諸特徴によるのに、道徳的規則を適用することで均一化し、規則に関連する環境だけを選び出すよう指示する。つまり、道徳的判断を規則と結びつける難点は、個人や状況に関する細部の個別的な事実を無視することになってしまうということである。 

そこで、ハーマンは道徳的規則と道徳的判断との間に重要な区別を設けることで、こういった批判を退けようとする。まず第一に指摘されることは、定言命法はそれ自体で道徳的規則ではない、ということである。定言命法は義務を直接課すのではく、行為の主観的原理である格率に対するものである。

定言命法を判断の原理として用いるためには、まず格率がなければならない。つまり行為者は、自分がしようと意図していること、その理由、目的を適切に記述する必要がある。格率は、人や環境にかかわる個別的なものを含む。しかし格率に含まれる事実は、行為者によって判断されるため、格率を記述するためには関連性の規則(道徳的規則ではない)が必要となる。

行為が格率を通じて定言命法によって評価されるには、行為を適切に記述できる、ある種の独立した道徳的知識が必要となる。カントの道徳的行為者は道徳的に無知ではいられない。定言命法を用いる前に、道徳的問題を提起する自分の行為の特徴を知らなければ、その行為を吟味することはできないからである。もし行為者が無知であれば、行為の格率を評価する道徳的判断がどのように機能するのかは理解できない。

この問題に対して、行為記述は無限の仕方で可能であり、そのほとんどが道徳的問題を提起する行為の側面を除外する、と考えられるかもしれない。格率を評価する道徳的判断ができる機械があるとして、「AがBの鼻を殴る」という出来事に対して道徳的判断を下す際には、この傷害行為が道徳的に問題含みであることを知っていなければならない。しかし、全ての道徳的に問題含みである特徴の一覧表をもった機械を想定したとしても、カント的な道徳的行為者にはなれない。カント的な道徳的行為者は、たんにその状況が道徳的カテゴリーに「当てはまる」かどうかだけを判断するわけではないからだ。彼は自分がしていることが道徳的な吟味を必要としていることに気づき、道徳的記述の下で自分の行為を意図しなければならない。

道徳的判断のためには、全ての日常的な行為がその俎上にあげられるわけではない。道徳的行為者は、道徳的吟味の手前で一般的に許されること/許されないことを分類することができるため、なんでもかんでも定言命法によって決まりきったように手続き的に判定するわけではない。

カントが『基礎づけ』で挙げる例に対する分析は、行為者がその行為の理由をもっており、その理由は彼にとって充分なものであるが、その行為が道徳的規範に反するように思われるとその行為者が理解している時に、道徳的判断の必要性が生じる、ということを示している。定言命法の手前で、自分の行為が道徳的に吟味する必要があることを知っているのだ。

それゆえ、カント的行為者が道徳的判断に先立って必要とする事前の道徳的知識を一種の道徳的規則として考えるのは有用である。このような規則を「道徳的なせり出しの規則 (rules of moral salience)」と呼ぼう。道徳教育の要素として獲得されることによって、この規則によって行為者は道徳的特徴を備えた世界を知覚し、道徳的判断を可能にする。

とはいえ、道徳的なせり出しの規則はそれ自体では道徳的な重要性をもたない。どこで道徳的判断が必要になるかを行為者に理解させる役割をもつだけだからである。それらの規則は子供のときに社会化の一部として獲得されることが多い。道徳的なせり出しの規則が十分に内面化されるとき、行為者は世界の道徳的特徴に対して敏感になる。道徳的なせり出しの規則(以下、RMS)は道徳的感受性の構造を構成するのである。

確かに定言命法の手続きはRMSなしに機能しうる。しかし、定言命法の通常の使用は、自分の格率が吟味される必要性があることを知らなければならないし、そのためには行為者な自分の行為と環境にある道徳的な特徴を知っておかなければならない。

 

RMSの導入によって、カント倫理学への批判に応えることができる。ハーマンは義務の衝突と道徳的な知覚と感受性の問題について触れているが、紹介するのは後者の問題に限定する。

 

感受性の不在について、問題を含んでいるイメージは次のようなものである。例えば親切において、困っている人のニーズに対して敏感でなければならないので、道徳的な原理のみではそれは不可能である。ある人が苦しんでいるということ、そして苦しみが何を意味するのかを正しく理解できないのなら、どれほど正しい原理を持っていても親切の実行はなしえない。カント的な行為者には、原理ばかりで感受性がないという批判が示唆されている。しかしこの考えは、ハーマンによれば誤解に基づく。カント的な行為者だって、他者の苦しみを理解できない場合、親切をしそこなうことになるだろう。他者援助は同時に義務である目的であり、目的を意欲するということはそのための手段も意欲することになるため、 カント的な行為者は他者の苦しみを認識するためにできることをしなければならないし、それゆえ苦しみを認識する能力を発展させるためにできることをしなければならない。しかし、感受性の不在という批判は、そのような感受性を自発的にもつことができるものではない、というものであろう。

このとき想像されているのは、道徳的原理を持ちながらも感受性が乏しいがゆえに何も出来ていない人である。しかしRMSの位置に注目すれば、そのようなイメージは変わる。RMSは道徳教育において本質的核心を与える。RMSが充分に学ばれるのであれば、自分が遭遇する具体的な状況における道徳的に意味のある要素を特定することができる。重要なのは、RMSによって行為者が苦しみを道徳的に意味ある何かとして認識することが可能になることで、その結果、人を助けるという道徳的判断が可能になるということだ。RMSを学ぶということは、あれこれが道徳的であるどうかを学ぶということではなく、道徳的な特徴を認識し、それらに応答することを学ぶことである。

ハーマンの主張によれば、カント的な道徳的行為者はそもそも判断すべきかどうかを理解するための方法を別に持っていなければならない。道徳的な行為者であるためには、RMSによって記述される、ある状況がもつ道徳的に意味のある特徴の観点から状況を知覚するための訓練が必要である。そのような道徳的行為者の鋭敏さは、有徳であることの証拠でもある。

 

最後にハーマンが取り組むのは、RMSの内容に関わる問題とその解決による道徳的判断の客観性に関わる問題の二つである。

道徳的判断が道徳的知覚に依存しているなら、さらに道徳的知覚がRMSによって決定されているなら、RMSの変化は道徳的判断に影響を与える。RMSが道徳教育によって発展すると考えられるなら、それは共同体固有の価値を反映するものになる。

ここでの探求の方向性は次の三つである。

 

(1):RMSはどこから生じるのか。RMS定言命法から独立した道徳的価値の源泉を表すのか。

(2):何が妥当なRMSなのか。

(3):RMSの変化には何が関わるのか。どのようにして変化するのか。道徳的進歩の方向を規定する方法があるのか(カントはあると考えていた)。

 

(1)で問題となっているのは、RMS定言命法の関係である。これまで述べられてきたように、RMSは記述的な道徳的カテゴリーを与えるだけで、定言命法の手続きによって判定される格率の定式化をかのうにするものであった。それならば、RMS定言命法とは独立した源泉をもつように思われる。しかし、RMS定言命法から独立したものだとすれば、カントの道徳理論は形式的な手続きと直観的ないし慣習的手続きが混ざった統一性のないものとなってしまう。

しかし、RMS定言命法から独立しているとしても、それが道徳法則からの独立まで意味しない。なぜか、順に見ていこう。

定言命法は道徳法則を表現する方式である。『基礎づけ』によれば、定言命法には三つの方式があり、それは「道徳性の原理を表象する」ものである。第二方式である目的自体の方式は、道徳法則が受容されることを保証するために、道徳法則を「直観に近づける」とカントは言う。つまり、カントの主張によれば、行為者を道徳法則の受容へと引きつけるのは、自分自身と他者を尊重することであり、それ自体が道徳法則の解釈となる。この『基礎づけ』でのカントの戦略が、RMSの問題を解決するモデルを提供する。

RMSによってハーマンが示そうとすることは、定言命法の方式をさらに実践的に用いることによって、どのようにしてRMSがその源泉を道徳法則のうたにもつことができるかを理解することができる、ということである。RMS定言命法から導出はされないが、たんに任意的で慣習的なものではない。

実践理性批判』において、道徳法則は理性の事実として示される。道徳法則の意識が人間の日常的な道徳的意識に内在しうるのは、この事実による。ここでハーマンが注目するのは次の二つである。

 

①この主張は人間の道徳的経験に対する感受性の強さを主張している。

②この事実は私たちに道徳的行為者の構想を提示する。

 

道徳法則から生じる自己と他者の構想によって、目的それ自体としての人格という構想の基礎が与えられる。そのような人格の構想とは、そのうちに何かがあり、それゆえ彼を不当に扱ってはならないという構想である。このような道徳的行為者としての人格の構想によって、自分の行為が他の理性的存在者に影響を与える道徳的行為者として、私たちに許される行為はどのようなものか、という問いが課される。他者の間に存在する道徳的行為者としての自分自身の構想が、日常的な道徳的意識に現れる道徳法則の側面であり、ハーマンの考えでは、この側面が前手続き的な道徳的規則(RMS)のための基礎を与える。

ハーマンによれば、RMSとは道徳法則の対象である人格への尊敬を規則の形で解釈したものである。RMSは少なくとも三つの問題について行為者に事前の指示を与える。(1):誰が目的それ自体なのか。(2):何が目的それ自体にとっての行為者の条件なのか。(3):何が合理的な主張と制約の徴なのか。この三つが、定言命法の手続きによる判定に対して適切な格率を定式化するために、行為者が知らなければならない事柄である。その答えは、理性の事実としての道徳法則の経験から生じる目的それ自体としての人格の構想を根拠にもつRMSとして現れる。すなわち、RMS定言命法の産物ではないがわその役割において道徳法則の産物である。

 

当然、RMSには過失もありうる。事実、誰が目的それ自体かを決定することは歴史的にも誤ってきた(黒人差別など)。その場合には、新たな事実が新しいRMSを生み出すだろう。それゆえ、RMSは批判にも改善にも開かれているのである。ハーマンは人種差別や性差別について、その誤りが訂正されてきたことにその根拠をみている。RMSの改変によって、それ以前には明確にみなされていなかった状況や人に対して、行為者は道徳的に敏感になる。

しかしそれでは道徳的進歩へと開かれた一方で、相対主義の亡霊を甦らせることになる。道徳的判断に必要なRMSが誤りうることを認めてしまえば、道徳的判断の妥当性が揺らぐ。しかし誤ったRMSに基づいてなされる判断は、義務違反ではない。人間は全知ではないのだから、道徳性の要求をし損ねることはある。不完全な知性をもつ人間にとっては、道徳的判断におけるある程度の相違に対して寛容でなければならない。欠陥のあるRMSをもつせいで、道徳的な吟味に導かれることがなかったとしても、それはRMSのレベルの誤りであって、道徳的判断そのものの相対性を認めているわけではない。

道徳的に際立った事実に気づけないことと、道徳性が共同体によって相対的であることは別である。また。私たちは誤ったRMSを避難することもできる。例えばナチスの党員は、目的それ自体としての人格が誰であるかを見誤ったが、彼らはそのことを全く理解できなかった立場にいたわけではない。確かにそれはナチスという境界の外にある、文化を超えた判断であるがゆえに用心深くなる必要がある。しかし、それが彼らを免責することにはならない。RMSに対する客観的な制約に関するこの結論と、文化的差異を超える道徳的判断の限界とを要約すると以下の三つになる。

 

  1. 一. RMSの妥当性の基準は他の文化と道徳的実践への批判を可能にする。
  2. 二. ある文化の中にいる者は、定言命法の手続きや道徳法則に関連する基礎的な構想へと訴えかけることによって、自分自身のRMSを批判することができる。
  3. 三. すべてのRMSが同じではない。人間の共同体の様々な環境を前提すれば、道徳法則によって課される課題を解決するための様々な戦略が可能であるべきであり、時には適切であるべきである。

 

RMSを道徳的判断に関するカントの理論に導入することで、道徳性が客観的な基礎をもちながらも、文化に基づくある種の道徳的差異に寛容であるための積極的な理由をもちうることが可能になる点で、魅力的である。

 

ハーマンがこの論文で主張してきたのは、道徳的判断についてのカント的な説明は、RMSによって補われる必要があるということである。『基礎づけ』での常識的な道徳意識や理性の事実の解釈のうちに、この説明を指示する根拠があるとハーマンは考えているが、それはテキスト解釈として充分な証拠であるとまでは言おうとはしていない。道徳的判断についてのカント的説明が、道徳的なせり出しの規則もしくはそれらにきわめて似た何かがない限りうまくいかないだろうということを言おうとしているのである。

カント倫理学研究の紹介:Timmermann「カントのMitleidenschaftについて」

ここでは、Timmermann (2016) の „Kant Über Mitleidenschaft“を紹介する。これはKant-Studien,107 (4), pp.729-732に収められた短い論考である。Mitleidenschaftというドイツ語は、翻訳者たちは見過ごしてきた馴染みがない表現 (ungewöhnliche Ausdruck) であるが、注意深い母語話者 (wacher Muttersprachler) ならば躓いてしまうと指摘し、その用例としての異例さを指摘している。鋭く珍しい切り口で、こういう研究もあるのかと勉強になったので、紹介させていただきたい。

 

『徳論』第34節における同情の議論の中で、カントは二度、彼の著作のどこにも登場しないMitleidenschaftという珍しい言葉を使用している。これまで、このことの重要性は気づかれていない。カントはなぜこの言葉を使ったのだろうか。


カントが『徳論』の中でMitleidenschaft (日本語にすると「ともに苦しむこと」くらいだろうか) を使用するのは、他者に対する同情の間接義務を扱う34節であるが、そこでカントは他者と共にしている感情の二つの異なったあり方を区別している。カントは両方とも「人間性 (Menschlichkeit)」と呼んでいる。第一に、「実践的」な人間性である。それは自由で「同情的 (teilnehmend)」であり、「お互いの感情を共有する (mitteilen) 能力と意志」が存する。この人間性だけが道徳的に必要である。第二に、「情感的 (ästhetisch)」な人間性であり、「自然が与える喜びや苦痛の共通の感情に対する感受性」である。それは実践理性に基づかないので、カントに言わせれば自由ではない。彼はそれを mitteilend (ここに合う日本語だと伝播的?) と呼んでいるが、それは熱の伝導や伝染病のように自然に広がっていくからである。このため、「Mitleidenschaft (ともに苦しむこと)」とも呼ばれる。カントがこの言葉を使うのは、ストア派の賢者の例を出すときである。

 

その異例の表現 [=Mitleidenschaft] は、ほとんど翻訳者の注意を引かなかったが、注意深い母語話者ならその言葉につまずくに違いない。その言葉は今日では「~に損害を与える in Mitleidenschaft ziehen」すなわち何かや誰かを傷つけるという意味でしか使われていない。ではカントの時代ではどうか。グリムの辞典を見ると、「共通の苦しみ、あるいは苦しみの感情 (das gemeinsame leiden oder das gefühl des leidens)」とある。なお、辞典の中では、その用例としてカントが引用されている。当時、損害を与えるという意味は、人格に対してのみ使われていたようだ。

 

ではなぜカントは『徳論』の第34節でわざわざ Mitleidenschaft を使用したのか。その理由は、人間同士の心の状態の伝染が起きている場面を知っていたからである。カントは、医師であるミハエリス (Michaelis) の話を『人間学』で紹介する中で、人間の「想像力」の役割について語っている。そこでカントは、痙攣している人を見ると自分も似たような痙攣を感じたり、あくびが移ることを例として挙げている。ある種の精神的な錯乱状態にある人は周りの人々に感染することを、医師ミハエリスの話を引き合いに出して紹介しているのである。

 

このミハエリスの話を念頭に置いていたため、34節でカントは熱の伝導や伝染病を引き合いに出しながら、想像力を介した苦しみの感染を論じているのである。しかしその語をほとんどの箇所で使用しないのは、Mitleidenschaft は、あくまで人間の感情状態を機械的に伝達すること (mechanische Übertragung des Gefühlszustandes eines Menschen) であり、それは理性とは関係しないどころか、それを損なうことさえあるからである。それゆえ、カントはあえて Mitleidenschaft という表現を避けるのである。

カント倫理学研究の紹介「原理に基づいて行為すること:ビットナーのカント行為論解釈」

英語圏やドイツ語圏のカント倫理学研究を独断と偏見で選定し紹介する試みを始めます。ほんの少しでもカント倫理学に関心のある方の参考になれば幸いです。

 

これは、Bittner (2001) "Doing Things for Reasons"の第三章「原理に基づいて行為すること」(Acting on Principle)の内容をまとめたものである。ほとんど訳しただけの箇所もあり、かなり長い文章となってしまったが、カント倫理学の展望を知るのに役立つことは間違いないと思われる。

 

われわれが行為する時、その裏には理由があるとされる。では、理由はどのように行為に関係しているのか。その1つの答えとしてビットナーが提出するのが、「行為の際に基づく原理がその理由の役目を務めている」というものである。カント自身は明確に行為の理由について語ってはいないが、実践理性と格率について論じるカントは、その代表的思想家とみなされる。

カントの行為論の中心にある考えは、すべての行為は格率に基づいて行われるというものである。カントが明確に格率にすべての行為が基づいていると述べてはいないが、定言命法の方式「汝の格率がつねに同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」を見ればそれが示されていることがわかる。定言命法はすべての行為に対して適用されるものであるから、すべての行為には1つだけ格率が対応しているはずである[1]。もし1つの行為に複数の格率が認められるならば、行為が善だったり悪だったりすることになってしまう。それゆえ、すべての行為にはたった1つだけ格率が存することになる[2]。しかし逆に言えば、ある格率に基づいた行為はいくつか存在するかもしれない。

そこで、理由があって行為することを理解するためには、カントの格率概念を理解する必要がある。カントによれば格率とは「行為の主観的原理」である(GMS 420n)。第一に、格率は原理である。格率はある状況下で行為者が何をなすべきかを規定している。第二に、格率は「主観的な」原理である。これが意味するところは多岐にわたる。1つ目は、格率が信念のように、誰かがもっているものであることを意味する。たとえ同じ格率をもっている人がいたとしても、それはたまたま同じ信念をもっていたのと同じようなことである。2つ目は、どのような格率をもつかは、自分で決めているということを意味する。格率は自分で自分のものにし、手放したら自分のものではなくなる。それゆえ3つ目は、格率が行為者に対してもっている権威は、たんに主観的なものにすぎないということを意味する。その格率に従う主体はあなた以外にはいないのである。カントはこの点を際立たせるため、主観的な格率を客観的な法則との対比で語ることが多い。

格率が主観的な原理であるというとき、それが意味するのは現象の理論的説明のための自然の運動原理のようなものではなく、「行為の原理」だということだ[3]。「格率は行為することの主観的な原理である。」(GMS 420n) 行為することの原理とは、行為を生み出すためにも、行為を説明するためにも機能する。それゆえ「行為の原理」とは、「原理に基づいて行為する」ための原理である[4]

つまり格率とは、ある種の状況下でとるべきある種の行為を特定し、それに従って行為を生み出す、個人としての自己に課せられた原理のことである。そのような原理は、人が何らかの行為を遂行する理由となるかもしれない。例えば「なぜ迷惑をかけない嘘をついて困難な状況を脱しようとしないのか」と行為の理由を尋ねられたとき、「嘘をつかないのが自分の原理である」と答えたとすれば、それはたしかに適切な答えである。また、理由が行為の原点であると同時に、その行為を明晰にするものであるべきだとするならば、格率は行為の理由となるための優れた候補であるように思える。

ここで次のような反論も考えられる。もし格率が行為の理由になるとすれば、不合理な行為がなされることは奇妙に思われる。理由 (reason) がある不合理な (unreasonable) 行為となるからである。また、格率そのものも理由があって採用されるものであるから、格率が行為の理由なのでなく、格率を採用する理由が行為の理由としてみなされるべきだという指摘もある。さらに、格率の説明は、欲求 (desire) や信念 (belief) の観点によって補完される必要があるとも主張されるかもしれない。結局、なぜ行為者は自分が採用した格率に基づいて行為しているのだろうか。そう考えると、格率を遵守したいという考えがあるはずであり、それゆえ格率概念は欲求や信念に対する独立した行為の理由ではないようにも思える。

最初の反論に答えるには、理由に基づいた不合理な行為が認められることを説明する必要があるだろう。しかしそれは理由に関する説明ならどれでも認められなければならいことである。第二の点に答えるには、格率を採用することが何を意味しているのかがまだ明らかではないため、格率が理由に基づいて採用されるかどうかも明らかではない。しかし、たとえ格率が理由に基づいて採用されるとしても、行為の理由は格率ではなくその採用の理由であるという根拠はない。第三の点については、行為者の格率の説明は欲求や信念によって補完されると説明することは、たんに独断的 (dogmatic) である。行為者が格率をもっており、それに関連する状況を認識し、自分の格率を考慮してその時に適切な行為を生み出す。なぜ格率に加えて行為者の欲求等がわざわざ持ち出される必要があるのだろうか。

第三の点については、カント自身にとっては、実質的な実践的原理に基づく行為の場合は、行為者の欲求に言及することで、行為者の格率の説明を完成させる必要があるということから、さらに異論があるかもしれない (KpV: 22)。しかし、カントによればそれらを格率に採用するための条件は、先行する欲求 (prior desire) であると主張する (KpV: 21)。このとき、確かに格率は欲求に依存しており、行為の理由の説明に欲求が含まれる必要がある。

しかし、カントがある規則を自分の格率として採用するための条件として先行する欲求に言及していることは、カント的な行為者における欲求の役割についての問題を解決するものではない。どのような意味で欲求が格率の条件とされているのかを、概念的な一貫性をもって理解しなければならない。リース (Reath) とアリソン (Allison) は、欲求が意志に影響を及ぼすと考えることは、カント的な実践的自由と両立しないと主張してきた。リースとアリソンによれば、欲求が格率採用の条件であっても、格率採用は行為者の自発的な行為であることに変わりはない。これを支持するカントの記述で最も明確なものはこれである。「行為者がそれを自分の格率に取り込んでいない限り、動機づけが行為へと意志を決定することはできない。」(Rel: 24)[5] このカントの答えは、感性的に影響を受け、パトローギッシュな決定に動かされやすく、動機づけに従属する意志についてのすべてのカント的な概念に決着をつけ、それによって人間と神の意志の区別につながるものである。この答えによれば、格率の採用は自発的なものであり、それゆえ未規定でいかなる激情にも左右されない。行為者がそれを自分の格率に取り込まない限り意志を決定することができない動機づけは、実際には、意志を決定することができない動機づけである。人はしばしば、それに従った行為が自分の欲求を満たすのに役立つと期待して、その中から格率を選択する。だから、人が何をするかを選択することは、実際には彼らが欲求することとある程度相関しているが、欲求に依存しているわけではない。カント的に考えれば、何かを欲求するという理由で何かをするというのは決して真ではない。人がすることが、時として人が欲求することと一致することがあるということだけが真である[6]

格率は欲求に依存しているというタイプの反論をさらに進めて、格率の説明がカントの行為者論であることを否定することさえできる。メルボーテ (Meerbote) とハドソン (Hudson) がその筋である。彼らによると、行為の理由は手段に関する欲求と信念の組み合わせによって構成されており、その手段目的の関係を示すものが格率である。しかし彼らが依拠するのは『判断力批判』第10節「目的一般について」であるが、それは美学の文脈であり、実践的な文脈で読むのは無理があること、さらにはその箇所を行為の理由の説明として読むことも困難であることから、彼らの主張を退けることが出来る。また実践的な原理となるためには、たんなる観察に基づく手段目的関係の命題は含まれないため、ハドソンの格率の説明も無理がある。

今や問題は次の二つである。第一に「格率をもつとはどういうことか」、第二に「格率に基づいて行為するとはどういうことか」である。格率をもつということは、それに従って実際に行為がなされたことまで要求しない。全て行為者の心の中で完結することである。それゆえ格率が「行為する原理」とするカントの説明はいささか強すぎる。ある格率を持っていたとしても、生きている間にそれを提起する状況に出会わなければ、その格率に基づいて行為することは一度もないかもしれないからである。このように、格率をもつことと格率に基づいて行為することとは区別される必要がある。

以上のことから、格率をもつためには、格率に基づいて実際に行為する必要はないことは明らかである。また、格率をもつには、自分の行為が関連している規則性を示すだけでは不十分である。私たちの意図的な行為には、自分の規則にしようとはまったく思っていなかった規則性を示すこともあるからである。また、格率がたんに心の中で宣言されたものにすぎないとすればどうだろう。その場合、なぜたんに自分の心の中で誓ったものが、行為の原理である格率をもたらすかは明らかではなくなる。

このような行き詰まりを感じる中で、自然な提案はこれである。つまり、格率をもつことは、その格率に従って行為したいと思うことである。しかし、格率に従って行為することは遵守と適合として理解されうるということは曖昧である。そもそも私たちは格率をもつという考えがまだよくわかっていないので、説明は一周してしまう。そこで答えとしては、格率をもつとは、自分の行為が格率において指定された規則性を示すことを望むことであると言うことができるが、これも間違っているように思われる。なぜなら、自分の行為がこうあって欲しいと望むことと、そのように行為することを自分の規則にすることとは区別されるからである。また、格率をもつにはそれが示す行為が可能であるという信念が必要だとかんがえることもできるが、それも弱すぎる条件である。

そこで「望む (to want)」ではなく「意図する (to intend)」ということが格率をもつことの分析の鍵となると期待するかもしない。つまり、格率をもつとは格率に従って行為することを意図することであると示唆することができるかもしれない。しかしこれにも2つ問題がある。第一に、意図せず行為をすることがありうるため、そうすると全ての行為に格率が存するという主張が維持できなくなる。第二に、格率はそれをもっている行為者に対して拘束力を持つのに対し、たんに意図することにはそのような力はない。確かに格率の拘束力は行為者がいつでも破棄できる不思議な類の拘束ではあるが、拘束はされる。カントが「自己自身課した規則」(GMS: 438) ということにそれが示されている。しかし行為者は自分が以前に意図したことに拘束されることはない。したがって、格率をもつということを意図の観点から解明することもできない。

これが正しければ、ある規則に従って行為しようと意図することは、格率をもつことの説明には不要であることを示している。しかし、規則に従って行為しようと意図することは、十分条件ではなくとも、必要条件であるように思える。『宗教論』によれば、格率の受容は、格率に従った行為の「形式的根拠」であるという(Rel: 31)。ある規則は形式を満たすだけであり、その後に実行の問題があるのである。

この読み方は、カントの宗教論での奇妙に見える議論を説明するものである。宗教論でカントは、善いものになろうとする努力は永続的なものであり、人間にとっては漸次的な進歩だとしながら、神から見ればその無限の進歩は一として捉えられるがゆえに、彼は現実に善い人間であるとされると述べる(Rel: 47-48)。格率をもつことを行為の形式的根拠とする考えによれば、善い格率を選択した者は、すでに行為者としての形式においては善なのである。それは当然、実際に善いことをする必要はないことを意味するわけではない。その場合は、その行為者は善の形式をそもそも持っていなかったということになるからである。

このことは、ある格率をもつということは、時が来ればその格率で示される行為をすることを自分自身に負っていると表現できる。格率をもつ者は、格率を採用することで、自分自身にすべきことを負ったのであり、その意味で自分自身に負債 (debt) を課したのである。

これは格率をもつことに関する最良の説明であるように思われるが、まだ十分ではない。善い形式をもっていることは経験によって実証されないし、それを見ることができる神の存在も実証できないからである。また、自分で自分に課す拘束が何なのかも私たちにはわからない。結局私たちは、ある人が格率を採用したという事実から、その人の真意を知ることはできない。問題は、格率をもっているということが何を意味しているのかまだよくわからないということに尽きる。

 

ここではこれまでの議論に反して、格率をもつとは何かを知っているとする。今や問題は、格率をもつことと格率に基づいて行為することの関係である。

『基礎づけ』(GMS: 412)によると、自然物は法則によって記述されるだけだが、行為者は法則に適合する行為を生み出すことができる。つまり行為はたんに法則によって記述されるだけではない。行為者は法則を意識して、法則の観念に従って行為する必要がある。それは原理に従って行為することであり、これが格率と呼ばれる原理である。

このように、「格率に基づいて行為するとは何か」という問いに対する答えは、『基礎づけ』に含まれている。法則から行為を導くには理性が必要であり、法則から行為を導くことは意志が行うことであると理解されることで、意志と実践理性が同一視される。要するに意志とは、格率に基づいた行為を行う能力である。この一節の暗黙の主張は「格率に基づいて行為することは、法則から行為を導くことである」ということである。哲学的には。導くことは推論することであり、カントの見解では理性は推論する能力である。カントの「格率に基づいて行為」という理論は、伝統的な実践的三段論法の教説である。

次に格率に基づいて行為することが実際にどうはたらいているかである。ある規則を自分の格率に採用している行為者がいるとする。さて、格率が行為を指定する状況があり、行為者がその状況に気づくと、格率から結論(=行為)を推論する。この推論は、格率から行為を導出するということである。

「格率」という言葉は、まさにこの三段論法的な機能を示している。"Maxima"は"major"の最上級であり、これは三段論法の大前提の標準的な用語である。

格率に基づいて行為することについてのこの説明を、人間の心の不透明性というカントの議論と整合させるのは困難である。それは、この説明では行為者が自分の格率を意識することを必要としているからである。これは行為する際にはつねに三段論法の大前提を明示的に述べなければならないということではないが、行為者は自分のもつ格率を意識できなければならない。

しかしカントは『基礎づけ』(GMS: 407) で、自分のものであれ他人のものであれ、自分がもっている格率を知ることができず、行為者でさえ、自分がどのような格率に基づいて行為していのかを知らないということを述べている。

格率に基づいて行為することのこれまでの説明と格率の不透明性との間の衝突は、前者に有利に解決されるべきである。自分がどのような格率に基づいて行為しているのかを知ることができないのであれば、道徳的に価値のある格率のみに基づいて行為することは、絶望的なものになるからである。しかしこの主張はカントの理性主義的展望とは異質のものである。カントにとって私たちがなすべきことは隠されておらず、理性の要求である道徳法則はすべての人が知っているはずだからである[7]。もしカントが次のように主張するならば、つまり、私たちは道徳的に価値のある格率を特定するための一般的な基準を知っているが、私たちがもっている格率がこれらの中にあるかどうかを知ることができないと主張するならば、説得力は弱まる。カントは「人間は道徳的意味において何であろうと、何になるべきであろうと、人間はそれに自分自身でなるに違いない、あるいはなったに違いないのである」と述べている (Rel: 44)。確かに、私たちは時折、自分の格率について不明確になることがあるかもしれないが、もし私たちがそれについて不明確であること以外に何もできないのであれば、それは道徳的な展望にとって壊滅的なものになるだろう。最近、オノラ・オニールは、格率の不透明性は、道徳的に価値のある原理に生きようとする私たちの努力を損なうことはないことを示唆した[8]。しかし、なぜそう言えるのか理解するのはまた難しい。例えばカントは、不透明性を拒否している記述もある。

 

快活な気分なしには、人は自分が善を好きになったことも、つまり善を自らの格率のうちに採用したことも、確信できないのである。(Rel: 24n)

 

これを見ると、心の快活な状態では、善を自分の格率に取り入れることができたと確信することができる。

 

さて、格率から行為を推論することは可能であるか。実践的三段論法の結論は行為であるとするアリストテレスの主張を意味づけることが困難であることはよく知られている。いかにして行為は推論されるのか。いや、推論はされえないのである。実践的三段論法は、格率に基づいて行為することの実行可能性の説明ではない。格率に基づいて行為することは、格率から結論を導き出すことであると考える必要はない。

 

カントによれば、「人間の悟性の普遍的なものによって特殊的なものは規定されない」(KdU: 406)。それゆえ、最初の説明で述べられたことに反して、格率は、あれこれの状況でどのような特定のことをすべきかを決定するものではない。何をすべきかを決定するためには、それとは別に判断力が必要である。ここで必要とされる判断力は、「規則の下に包摂する能力、すなわち、あるものがある規則の場合(casus datae legis)であるかどうかを区別する能力」である (KrV: A132/B171)。つまり、判断力は、状況に規則を適用する。実践的な三段論法において、前提から結論を導き出すものである。そして、格率に基づいて行為するためには、第一に、格率を保持すること、 第二に、状況に注意を払うこと、しかし、第三に、そして独立して、判断力によって、知覚された状況に対して特定の行為を選択することを必要とする。つまり、一度自分の格率が位置づけられ、その状況が何であるかを認識すると、その格率に基づいて行為することを説明するのは判断力なのである。これはオニールの見解である。判断力について、彼女は、「原理が特定のケースに適用されるとき、常に必要とされる」と述べている[9]

この答えは、格率に基づいて行為するとは何かという問いに対するものである。最初の説明の妥当性は、規則と行為との間にギャップがないことをあてにしている。アリストテレスの見解によれば、規則が行為を規定するために得られる状況を知覚するだけで、行為の実行には十分であり、それ以上のものは必要ない。しかしカントにとっては、それ以上のもの、すなわち判断力が必要とされる。

私たちの悟性は普遍的なものによって特殊的なものを規定できないという考えは、『判断力批判』においては基本的な枠組みであるが、カントはこの考えを行為の問題に適用することに熱心に取り組んではいない。カントの批判期の著作では、格率に基づいて行為することの説明としては、実践的三段論法が支配的である[10]。カントが判断力の説明を行為の問題にあまり組み入れなかったのは、次のような事情があったのだろう。カントによれば、優れた判断を下すのには、二つの要素が必要であるという。1つ目は「豊かな経験」によって磨かれることである。しかしこれはカントにとってあまり歓迎されない帰結である。なぜならそれは、「正直で善良であり、賢く徳のある人間になるために何をすべきかを知るためには、知識も哲学も必要ない」(GMS: 404) という彼の信念と衝突するからである。行為に至るまでにそのような判断力が要求されるとなると、経験の未熟さは道徳的な欠点となってしまう。2つ目は、判断力は自然の賜物であるというものである (KrV: A133/B172)。これによれば、ある人は生まれながらに道徳的に優れているということになってしまう。オニールも主張するように、カントにとっては、自分の判断力がどれほど優れているかは自然には依存しない[11]。判断力は教育することができ、例えば、それは実例によって研ぎ澄まされることができる。その一方で、もしたんにこの才能を欠いているのであれば、練習しても何の役にも立たない。「この欠乏の治療法はない」 (KrV:  A134/B173)。その結果、ある人は生まれつき他の人よりも道徳的に優れているということになる。これはカントにとっては受け入れがたいことである。おそらく、カントが、格率に基づいて行為するという判断力の概念を全面的に支持しなかったのは、このような結果を考慮してのことであろう。 

しかしこれも満足のいくものではない。格率に基づいて行為することの説明は不完全である。最初の説明で想定された反論のように、三段論法の結論は行為ではない。それゆえ「規則から行為を推論すること」が何か私たちにはわからない。ここでも同様の反論が想定される。つまり「○○をすべきだ」という判断が実際の行為と関係があるのか、ということである。また、判断力が「○○すべきだ」という判断の遂行まで至るのかについてもっと知らなければならない。

カントの言葉を借りれば、普遍的なものが特殊的なものを規定しない場合、適切な小前提をもった規則が、特定の行為を指令しない場合、規則がその過程でもつ意味が不明瞭になる。規則の適用とは何であるかが不明瞭になるのだ。規則以外に独立した能力を必要とするならば、そこに適用の真の問題はない。規則が適用の問題を含んでいないからである。

次のことは正しい。すなわち行為者が直面する状況がどのようか状況であるかを認識することはしばしば困難であるということである。オニールはこの点について説得力を持って述べている。「自分の状況がある特定の細目 (specification) を持っていると瞬時に認識できると仮定することは、行為者が直面している苦境を単純化し、実際には偽装している。」[12]しかし、自分の状況を理解するという問題は、適用の問題ではない。それは認識の問題である。ある状況を見極めるためには、実践が必要であり、教育が必要である。しかしそれは、自分の格率に従って、この状況で何をすべきかを考え出すこととは別個の、その前段階での達成である。したがって、格率に基づいて行為するとは何かを説明するという課題とは無関係である。

私たちは適用な小前提を見つける難しさを、誤って適用の問題と考えてしまうことがある。前段階の認識の問題が適用の問題と勘違いされることで、そこには判断力という特別な能力が必要とされるように思えてしまうのだ。

結局のところ、適用の問題に判断力は必要ない。状況をしっかり認識し、規則を理解していれば、それを適用することは可能であり、追加のステップは必要ない。判断力の説明は、格率に基づいて行為することが何であるかを説明するための2つと試みのうちの一つであり、現在は失敗している。結局私たちは格率に基づいて行為することを理解していない。これまでとは別の説明が必要なのだ。

 

カントの著作からの引用はアカデミー版カント全集のものを示す。ただし『純粋理性批判』からの引用は第一版をA、第二版をBで示し、その頁数を付す。なお、カントの著作は以下の略称を用いることとする。

KrV:『純粋理性批判

GMS:『道徳の形而上学の基礎づけ』

KpV:『実践理性批判

KdU:『判断力批判

Rel:『たんなる理性の限界内における宗教』

 

本文中に登場した参考文献だけ示す。

Allison, Henry E. (1990). Kant's Theory of Freedom. Cambridge: Cambridge University Press.

O'Neill, Onora (1989). "Kant after Virtue," in O'Neill, Constructiom of Reason. Cambridge: Cambridge University Press.

---. (1989). "The Power of Example," in O'Neill, Constructions of Reason. Cambridge: Cambridge University Press.

---. (1996). "Kant's Virtues," in Roger Crisp, ed., How Should One Live? Oxford: Clarendon Press.

 

[1] この主張はオニールのKant after Virtue p. 151にもある。

[2] アリソンはKant's Theory of Freedom p. 94で、行為者がそれに基づいて行為している1つの格率と、背景条件として暗黙に働いている諸格率を区別している。

[3] この区別はKpV 19-20にある。

[4] このタイトルでオニールの初期のカント的な行為者概念の研究が出版されている。これはオニールのActing on Principleを指している。2013年に第二版が出版されている。

[5] これはアリソンによって取り込みテーゼ (incorporation thesis) と呼ばれるもの

[6] 一致する(Übereinstimmung)は、カントが『基礎づけ』で格率と傾向性の関係を特徴づけるための第三の例で使うフレーズである。(GMS: 423)

[7] GMS: 403, 404, 411. KpV: 35, 36、理性の事実としてこの説が強調されるのはKpV: 31。

[8] O'neill, Kant's virtue pp.90, 95.

[9] O'Neill, "The Power of Example," p. 167

[10] GMS: 412, 427. しかしGMS: 389では「経験によって鋭くされた判断力」の議論がある。

[11] O'Neill, "The Power of Example," p. 167

[12] O'Neill, "The Power of Example," p. 181.

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑨

『基礎づけ』第三章の議論の構造 (Ⅳ 446-463)

 

まずは、参照されることも多いSchöneckerの解釈を軸にまとめる。

Schönecker, Dieter (1999) Kant: Grundlegung Ⅲ: Die Deduktion des kategorischen Imperativs, Freiburg/München: Verlag Karl Alber.

 

『基礎づけ』第三章において解釈上の鍵

☞純粋な理性的存在者(=神)と感性的かつ理性的な存在者(=人間)との区別。

 

自由と道徳法則の同一視

第三章の記述では、自由と道徳法則は直接に結び付けられている。ここでの意図は、自由な意志とは必然的に道徳法則に従う意志である、ということなので、純粋な理性的存在者についてのみ語られている。

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よって、この同一視は人間の意志が道徳法則に従うべきであること、すなわち定言命法の可能性はまだ論じられていない。

 

観点の転換(Perspektivenwechsel

感性的かつ理性的な存在者としての人間に議論がシフトするのは、「道徳の理念にともなう関心について」からである。

☞Schöneckerはここを観点の転換と呼び、印象的に議論の転換を示唆している。

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ここで、人間は道徳法則へ必然的に関心を持つことが示されることで、人間の理性的存在者たるゆえんが確認される。また、物自体と現象の区別が人間に導入され、二世界論的 (感性界と知性界) な人間像が示される。これによってカントは、人間は感性的な関心をもちながらも、同時に知性界の道徳法則に関心をもつことが、矛盾しないことを示すのである。『純粋理性批判』の超越論的観念論の適用に見える。

 

知性界の存在論的優位

Schöneckerは、この二世界論に優位関係を見出す。まず彼は、人間は感性界と知性界の両方に属しておきながら、なぜ知性界の法則に従うべきなのか、という問題提起をする。

☞これをSchöneckerは「知性界の存在論的地位の優位性」と呼ぶ。

 

次に世界を代表するカント研究者であるAllisonの議論の一部を紹介する

Allison, Henry E. (1990) Kant’s Theory of Freedom, Cambridge University Press.

 

『基礎づけ』第三章での演繹

『基礎づけ』第三章では第一章と第二章で到達した道徳性の最上原理を正当化することが目的であり、そのためには演繹が必要であるため、演繹が試みられる。

しかしこの試みは一般的に失敗と考えられており、厄介なことに何の演繹がいかにして失敗しているのかについては研究者の間でもほとんど意見が一致していない。

 

隠れた循環 (, 450)

①私たちが自らを自由であると信じるかぎり、自らを道徳法則のもとに立つものであると信じなければならない

②私たちは自らを理性的行為者として、すなわち意志をそなえた理性的存在者としてみなしうるためには、みずからの意志を自由なものとしてもみなさざるをえない

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①と②をつなぎあわせると、自らを理性的存在者とみなすなら、自らを自由なものとしても、それゆえ道徳法則のもとに立つものとしても見なさなければならない。カントによれば「自由と意志の自己立法は両方とも自律であり、したがって交換概念であり、そこからまさにそれゆえに、一方が他方を説明したり、他方に根拠を与えるために、もたらされることはできない」のである(Ⅳ, 450)。そしてカントは私たちが理性的存在者であるという主張を、それにさらなる裏付けをせずに断定的に述べている。

このまま論を進めようとすると、「自由から自律へ、そして自律から道徳法則へ、という私たちの推論にはひそかな循環が含まれていたのではないか、すなわち私たちはおそらく後で道徳法則を再び自由から推論するために、自由の理念をたんに道徳法則のために根底に置いたのであって、したがって、道徳法測についてはまったく根拠を与えることはできない」(Ⅳ, 453) と言われることになる。ここに道徳法則が先か自由が先か、隠れた循環がある。

 

循環を避けるための二世界論

この循環を避けて演繹を完成するには、理性的存在者が2つの世界に属すると想定する必要がある。

・感性界(Sinnenwelt)に属する

 ☞受動的で因果的に制約された存在者である

・知性界(Verstandeswelt)に属する

 ☞そういった制約を受けない自由な存在者である。

この区別を導入することでなぜ循環が避けられるか

☞私たちが自由であると考えるときには知性界に属する者として考えればよいから

*このように二世界論的に自己を捉える考え方は『純粋理性批判』(A546/B574)でもみられる。

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カントの本質的主張の意図はこうである。総合命題として考えられる道徳性の原理は、分析命題と違って主語述語を結びつけるために別の第三項を導入しなければならない。それがまさに知性界の理念である。

*結局カントは、いかにして自由が可能であるかを説明するのは不可能であるとし、演繹の限界を強調するに至る。

 

最後に二つの立場(zwei Standpunkte)に立つとはどういうことかを考察する

*二つの立場とは、感性界の成員としての立場と知性界の成員としての立場である。

 

循環を回避する知性界としての立場

Allisonのときも指摘したが、この二つの立場が導入されたのは、自由の理念と道徳法則の循環から抜け出すためであった。もう少し詳しく見る。

「私たちが自らを、自由を通じてアプリオリに作用する原因として考える場合、私たちが自分たちの眼前にみる結果としての自らの行為に従って、自分たち自身を表象する場合とは別の立場をとっているのではないか」(Ⅳ, 450)

☞「別の立場」を根拠づけるのは、現象の背後に物自体を想定することである。

この現象と物自体の区別が、自己自身についても成り立つとカントは考える。

☞「それゆえに、理性的存在者は自分自身を英知[Intelligenz]として(それゆえ理性的存在者の下位の能力の側からではなく)感性界ではなく、悟性界に属するものとして、見なさなければならない。したがって、理性的存在者は二つの立場をもち、この二つの立場から理性的存在者は自分自身を考察したり、自分の能力の使用の法則を、したがって自分のあらゆる行為の法則を認識することができる。それはつまり、第一に、感性界に属する限りで、自然法則(他律)の下にある[自分と]、第二に、知性界に属するものとして、自然に依存せず、経験的ではなくてただ理性にのみ基づく法則の下にある[自分である]。」(Ⅳ, 452)

    ⇩

 「ちがった立場」=知性界の立場

・一応の循環の解決

☞人間は自由な存在者としては知性界に属し、義務づけられたものとしては同時に感性界に属するものとして自己自身を見ている。

 *知性としての自己の客観的実在性は証明不可能

 

理論的認識から実践へ

カントは現象と物自体の区別という理論的な認識の問題から出発し、考察の対象を「自己」へ移していった。

・理論的な認識でこの区別が問題になる場合

☞同一の与えられた事物についての現象と物自体の区別が感性界と知性界に対応する。

・実践的な二世界論の区別

☞自己を「二つの立場に立っている」と見なすときの含意は、より実践的なものである。たんに観察的にそう「みなす」のではなく、「傾向性に基づいて意志が規定される世界」としての感性界と「端的に善い意志によって行為がなされる世界」としての知性界、という実践的な二世界論的区別がなされていると考えられる。

*理論的な認識においては同一の事物が観察的に二つの見方で捉えられるのに対して、実践的に表現される二つの世界はそれぞれが別の実践的な世界である。確かに同一の行為を二つの側面から観察したものとして後者の二世界論を解釈することも可能であろうが、実践的な行為の意味を考えると、結果として外から観察される限りにおいては同一の行為でも、意志の規定根拠が異なるなら別の行為だと考えるべきである。

 

〇二つの世界はどう関係しているか

二つの世界は実践的な意味では異なるものだと考えられたが、カントは「知性界は感性界の根拠を含む」(Ⅳ, 453) と述べていることから、ある序列的な関係にあるはずである。これはSchöneckerが知性界の存在論的優位を主張した根拠でもあった。

ポイント:知性界としての立場は理性が実践的であるための立場である

☞理性が実践的でないとすれば、自ら行為をなすことはできず、すべての行為は外的な刺激のたんなる反応にすぎない、ということになる。それゆえ知性界の立場に立つ自己は「本来の自己 eigentliche Selbst」(Ⅳ, 461) と呼ばれる。理性が実践的である場合は、理性が原因となることが前提できなければならず、つまり自律的な意志が可能でなければならない。

   ⇩

この意味において、感性界も実践的世界であるために、理性がそもそも実践的でありうることを想定する知性界が、その根拠として序列的に関係している。