哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑧

第二章 ⑤ [Ⅳ, 440-445

 

道徳の最高原理としての意志の自律

道徳の最高原理の探究は、序言で言われたように本書の課題であったが、それが「意志の自律」であることがここで明らかになる。

☞このことは、「道徳性の概念のたんなる分析によって十分に証明されることができる」(Ⅳ, 440)

道徳の原理=定言命法定言命法=自律を命じる

*しかし、自律の原理は「総合的命題」であるから、あらゆる理性的存在者の意志が自律を命じる命法としての実践的規則に必然的に結びつけられるのはどうしてか、ということはまだ証明されない。そのためには「純粋実践理性の批判」へ進まなければならない。だが正直私には、なぜこう言われるのかよくわからない。

「意志の自律とは、それによって同じ意志が意志自身に対して(意志のあらゆる諸対象の性質から独立して)法則であるような意志の性質である。したがって自律の原理は次のようになる。意志の選択の格率が同時に普遍的法則として同一の意欲に含まれているという仕方以外で選択しない、というものである。」(Ⅳ, 440)

 

意志の性質としての自律

カントはここで意志の自律を「意志の性質(Beschaffenheit)」と定義するが、一方で自律は定言命法の方式としても導入され、また「道徳の最高原理」とも呼ばれる。カントはこのニュアンスの違いに対していささか不注意であるため、以下に可能なかぎり整理する。

・動機づけの独立性

意志の自律で最も重要な観点は、自ら立てた法則に従うという自己立法である。この自己立法の契機は、理性的存在者は格率をもつということですでに前提されていた。そして、格率を自ら形成するということからさらに進んで、ある意欲の対象を実現するための傾向性や欲望によって行為へと動機づけられず、それらから独立に純粋実践理性によって動機づけられるという性質をもった意志が、自律的な意志として位置づけられる。

・原理としての自律へ

性質としての自律の性質をもった意志が前提されることによって、道徳性を可能とする原理としての自律がはじめて論じられることになる。性質としての自律が定言命法を基礎として行為することを可能にするのであるが、同時に自律は定言命法の方式の一つでもある。

   ⇩

意志の自律は、法則の形式を意識して普遍化可能な格率に従って行為するための前提されなければならない意志の性質であるとともに、まさに定言命法が命ずる内容でもある。

 

道徳のあらゆる不純な原理の源泉としての意志の他律

「意志が、自己を限定すべき法則」を「自己の外に出て対象のどれかがもつ性質の中に」求めるとき、「常に他律が生ずる」。

☞意志がまさに意志作用によって立法し、それに従うのではなく、ある対象との関係(例えば、名誉という対象を得るために何をするか、という考え方)によって意志に法則を与える。

  ⇩

このとき、仮言命法しか成立しない

*「定言命法は、あらゆる対象を度外視して、対象が意志にいかなる影響も及ぼさないようにしなければならない」から。(Ⅳ, 441)

つまり何かを意欲するとき、その意欲の対象が自分にとって都合がいいから、ということを度外視して、たんに「それを意欲する格率が普遍的法則として妥当しうるか」という仕方でのみ、判定しなければならない。

 

他律の根本概念を前提するとき生じうるあらゆる道徳原理の区分

他律の区分

① 経験的:幸福の原理から生じる

 ☞自然的感情か道徳的感情を基礎とする

② 合理的:完全性の原理から生じる

 ☞可能的結果としての人間の完全性か自存的な神の完全性を基礎とする

 

経験的原理はなぜいけないか

理由1

経験的原理は法則の根拠を「人間の特殊な構造」や「人間が置かれる偶然的な事情」に置くため、道徳法則の普遍性を失わせるから。

理由2

経験的原理は「自己自身の幸福」を含むが、これは「道徳を破壊しその崇高性を無にするような動機」であるから。

☞自分の幸福を実現するためのことが善であると考えられてしまうため、そのためのずる賢さのみが求められ、「徳と悪徳の質的区分を全く消して」しまう。

 

合理的原理はなぜいけないか

理由:完全性の存在論的根拠は空虚で不定であり、ここで問題になっている道徳的完全性が説明するはずの道徳をひそかに前提することを避けられないから。

とはいえ、「道徳を神のまったく完全な意志から導く」よりはマシ。そんなことしたら「ひどい循環論」になるから。また、完全性は理性概念だから、どちらかと言えば道徳的感情の原理よりもマシ。あらためて反駁する必要もない。これらの原理はすべて他律であるということだけで十分である。 

 

他律が命じるのはつねに条件つきである

他律の原理が意志を決定するとき、定言的に命じることはできず、それはつねに「予見された行為の結果が意志に対してもつ動機によってのみ」意志を決定する。

☞「私は何か他のものを意欲するがゆえに、私は何かをすべきである」(Ⅳ, 444)

    ⇩

「意志は自ら自分に法則を与えるのではなく、他の刺激が意志に、その刺激を受け入れることが定められている主観の本性を介して、法則を与える」ために、この法則は「経験によって認識され証明されなければならず」、「それ自体が偶然的」であるため、それは意志の他律にすぎない。(Ⅳ, 444)

*経験によって証明されるとは、「これを意欲するならこれを手段としてなすべきだ」という理論的認識が命法を支える法則(=自然法則)になるということであり、つまり仮言命法にしかならない、ということを示している。これは主体に条件づけられている。

 

アプリオリな総合的命題である意志の自律の探究

端的に善い意志=定言命法

☞この意志はある対象に全く規定されることなく、「意志作用の形式」を含むだけである。

*「意志作用の形式」とは次のものである。

「おのおのの善い意志の格率が、それ自身を普遍的法則とするのに役立つことが、それ自体、おのおのの理性的存在者の意志が、何か動機や関心を格率の根拠として置くことなく、自分で自分に課する唯一の法則なのである。」(Ⅳ, 444)

☞これはこれまでも散々登場した法則の形式と同じである。

 

*この自律の命題は「実践的なアプリオリな総合命題」であり、これが「いかにして可能であるか」は「もはや人倫の形而上学の限界内では解決できない問題である。」

☞二章までは「道徳の概念を支える基礎は意志の自律にほかならない」ということを「分析的」に示しただけなので、「定言命法ならびに意志の自律がアプリオリな原理として絶対的に必然的である」ということまでは示せていない。これは「純粋実践理性の批判」の課題であるが、三章では「要点」だけ、「われわれの当面の目標のたいして十分な程度」で述べる。

   ⇩

「人倫の形而上学から純粋実践理性批判への移り行き」と題される三章へ…

 

解釈上の問題点

実践的でアプリオリな総合命題とはなにか

定言命法アプリオリな総合命題と呼ばれるが、カントはなぜそのように考えるのかを簡単に確認しなければ、三章に進めないだろう。まず定言命法を次のように考える。

定言命法とは「普遍的法則に必ずしも規定されない主観的な性質をもつ意志[=不完全な理性的存在者の意志]が、普遍的に立法する意志と結合する関係」を表現するものである。

肯定文として命題化するとわかりやすいので、命令形として表現される定言命法の背後にある道徳性の原理を意識して、次のように言いかえる。

「普遍的法則に必ずしも規定されない主観的な性質をもつ意志[=不完全な理性的存在者の意志]が、それが普遍的法則となることを自ら意欲しうる格率をもつ[=端的に善い意志の格率]。」

総合的であるという意味

主語概念(不完全な理性的存在者の意志)の分析によっては述語概念(それが普遍的法則となることを自ら意欲しうるような格率)が導き出されない、ということ。

アプリオリであるという意味

主語概念に含まれていない述語概念を結びつけるのに、いかなる経験に基づくことなく、それゆえその結合が必然的になされる、ということ。

なぜ総合的なのか

不完全な理性的存在者である人間の意志をいくら分析したところで、それは神のように完全な意志ではなくつねに主観的条件を伴う意志であるから、普遍的法則を意欲するような意志は帰結しないから。

なぜアプリオリなのか

もしアポステリオリな命題だとしたら、この命題自体が成立しないから。それは、道徳性の原理は経験的な諸条件を前提しないというのがカントの中心的な主張であることを思い起こすだけでよいだろう。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑦

第二章 ④ [Ⅳ, 430-440

 

意志の第三の実践原理:自律へ

目的自体の原理は純粋理性から発現する。

☞あらゆる理性的存在者にかかわる:普遍性+主観的目的を制限する:客観的目的

*実践的立法の根拠は客観的には法則としての規則の普遍性にあり、主観的には目的自体としての理性的存在者がその主体である目的にある。

    ⇩

「ここから意志の第三の実践的原理が、意志と普遍的実践理性とが一致する最上の条件としての実践的原理が帰結するのであって、普遍的に立法する意志としてのすべての理性的存在者の意志という理念が帰結するのである。」(Ⅳ, 431)

「意志自身の普遍的立法と両立することができないすべての格率は、この原理に従って退けられる。したがって意志は、たんに法則に服従させられるのではなく、意志が自己立法としても、そしてまさにそれゆえにはじめて法則に(この法則について意志自身が創始者として見なされうる)服従させられると見られなければならない、というような仕方で服従させられるのである。」(Ⅳ, 431)

定言命法が命ずることができるのは、ただ次のことだけである。つまり、自分自身を普遍的に立法する者ともみなしうるような自らの意志の格率にもとづいて、すべてをなせ、ということである。」(Ⅳ, 432)

☞たんに普遍的法則に従うのではなく、自らが立てた法則に従う(=自己立法)

 

ポイント;定言命法の目的自体の原理から自律の原理へ

目的の設定は各人が自由に行うことであり、それは自分自身の自由で理性的な意志から生じる必要がある。また、彼らが目的自体として絶対的な価値をもつのは、たんに主観的な目的をもつだけでなく、それを普遍的法則あるいは客観的目的によって制限することができるからである。つまり、目的の設定を強制されるとしても、それは外的にそうされるのではなく、自分自身の理性的な意志が強制の原因にならなければならない。それゆえ、自分自身が自分を拘束する法則の立法者でなければならない。

 

定言命法の方式としての目的自体の役割

議論としては唐突に導入されたように感じる目的自体の概念であるが、それは当然カントがきまぐれに導入したのではない。では、どのような役割を担っているのだろうか。普遍的法則の方式からの論証を詳しくみることで、ある程度は明らかになる。

・カントが普遍的法則の方式で示したこと

定言命法はいかなる経験的な主観的諸条件に基づいてはならないということ。これだけでは定言命法があらゆる理性的存在者にあてはまるということは未規定のまま。

   ⇩

あらゆる理性的存在者という観点を導入するために、カントは目的という概念を持ち出す。

*しかしここで導入される目的は、仮言命法のように、その実現がめざれるような目的ではなく、手段としてのみ扱うことを抑止する消極的・否定的なものとしての目的であり、その目的が示すものが、理性的存在者なのである。

 ☞「ここでは目的は実現されるべきものではなく、自立している目的として、それゆえたんに消極的なものとしてみなされなければならない」(Ⅳ, 437)

     ⇩

ここにおいて、普遍的法則の方式で「経験を捨象した普遍的形式としての法則」が、目的自体の方式で「目的自体としてのあらゆる理性的存在者」が、取り出され、これを結合したものとして普遍的に立法する意志を前提する自律の方式が形成される。

 

定言命法と感心の排除

道徳法則は定言命法として人間に意識され、無条件的であるため、それは経験的な関心を排除する(=普遍的に立法する意志としての自律は関心を明確に排除する)。

☞もし関心によって制約されるなら、それはすべて他律になってしまうから。

☞普遍的な法則を立てるなら、いかなる関心によっても規定されてはならないことが明確に含意されている。

    ⇩

定言命法が存在するなら、それに服従する意志は関心によって規定されてはならない。

それゆえ無条件的に服従すべき普遍的法則を意志が自ら立てる自律がなければならない。

*「最上位にある意志」=みずからの格率を通じて普遍的法則を立てる意志

 

自律の発見 (, 432-433)

カントは道徳性の原理がこれまで発見されなかったのは、それらがすべて他律であったからだと考えた。つまり、これまでは義務づけるのは他のものによってでしかなされず、自分が自分を義務づけるということに気づいていなかった。しかしそれは関心に条件づけられるため、真の意味で義務とは言えないのだ。

 

目的の国へ

・目的の国とはいかなる国か

☞様々な理性的存在者が、「理性的存在者のすべてが自分自身と他のすべてを決してたんなる手段としてではなく、いつも同時に目的それ自体として扱うべきである」(Ⅳ, 433) という共同の法則によって体系的に結びついている状態のこと。

*この国のあくまで理想である。

*目的の国の成員はすべて普遍的に立法する者としてみなされる。

 

ポイント:定言命法の総括として導入される目的の国という概念

目的の国はカントが提示する定言命法の方式の中で最も包括的なものだといえる。道徳的行為の形式(=普遍的法則)と実質(=目的自体)のどちらにも言及しているからである。

   ⇩

目的の国の方式は普遍的法則の方式と目的自体の方式を統合したものである。

☞普遍的法則の方式では、道徳的行為は一つの形式(普遍的法則)をもつことを認めた。

☞目的自体の方式では、道徳的行為は実質としてたくさんの対象を、すなわち目的をもつことを認めた。

   ⇩

目的の国の方式では、一つの共同の普遍的法則の下で完全な体系(=国と呼ばれるゆえん)に統一された、目的自体としての理性的存在者の共同体に到達した。

・目的の国は自律の原理から直接導かれる

☞あらゆる理性的存在者は、自らの格率を通じて自分自身を普遍的法則の立法者とみなすよう命じられている(=意志の自律)。

☞自分で自分に課したものでありながら、それでいて客観的であるような共通の法則の下での、理性的存在者の統合された体系の概念(=目的の国)につながる。

 

立法的成員としての道徳性

道徳性はすべての行為が立法に関係することにおいて成り立ち、立法は各成員の意志によってなされる。そこで彼らの意志の原理はこうである。

☞「彼の意志の原理はつぎのようなものである。いかなる行為も次の格率以外の格率に従ってなされてはならない。その格率とは、それが普遍的法則ともなることと両立しうる格率であり、したがって、意志が自分の格率を通じて自分自身を同時に普遍的に立法する者と見なすことができるような格率である。」(Ⅳ, 434)

*しかし彼らの格率は必ずしもこの原理と一致しないため、この原理による行為の実践的必然性は強制としての義務である。

   ⇩

道徳性によってのみ、理性的存在者は目的の国の立法的成員であり、またそれゆえ目的自体でありうる。(Ⅳ, 435)

 

★まとめ:なぜ理性的存在者が目的それ自体なのか

あらゆる理性的存在者は、ある法則に服従しながらも自らを同時に普遍的に立法する者とみなさなければならない。このことが理性的存在者を目的自体として考える根拠であると考えられている(Ⅳ, 434)。

    ⇩

理性的存在者がたんに自ら目的を設定する主体であるということだけでなく、自ら普遍的法則を立法し、それに従って主観的条件を制限することができるというところに、理性的存在者が目的それ自体と呼ばれる根拠がある。

 

尊厳と価格

「目的の国においては、すべてのものは価値をもつか、あるいは尊厳をもつ。」(Ⅳ, 434)

価格

☞等価物を想定できる、代替可能な価値

(市場価格、感情価格=空想価格)

尊厳

☞等価物を想定できない絶対的で内的な価値

普遍的に立法する者である目的自体としての人格、あるいは道徳性をそなえる人間性のうちに存する。

  ⇩

「自律が人間およびすべての理性的存在者の尊厳の根拠なのである。」(Ⅳ, 436)

 

道徳の原理を示す三様式(①普遍的法則・②目的自体・③自律)

この三つの語られ方は、「同一の法則をあらわす」ものである。

①格率の普遍性という「形式」にかかわる

②目的という格率の「実質」にかかわる

③上の二つを統合した「あらゆる格率の全面的な規定」にかかわる

*格率の道徳的判定の際には、「つねに厳格な方法によって行われる方がよいし、「それ自体が同時に普遍的法則となりうるような格率に従って行為せよ」という定言命法の普遍的方式を基礎とする方がよい。」(Ⅳ, 436)

*三つの仕方で表現されたのは、「道徳法則を人々に近づきやすく」して「その行為をできるだけ直観に近づける」ために有効だからである。

 

善意志は無条件に善い、という出発点に戻る

善意志=「端的に善い意志とは、それが悪でありえず、すなわち意志の格率が普遍的法則になるとしたときに、決して自分自身と矛盾することができないような意志のことである。」(Ⅳ, 437)

     ⇩

「格率の普遍性を君が同時に法則として意欲できるような、そうした格率に従っていつでも行為せよ。」(Ⅳ, 437)

*つまり、端的に善い善意志とは、定言命法に従う意志として無条件的に善いのである。

 

目的設定の主体としての人間

「理性的本性は自分自身に目的を設定するということによって、他の本性から区別される。」(Ⅳ, 437)

*「善い意志」の文脈で言われる目的は、相対的なものではありえないから、残るのは「自存的な目的」である。

自存的な目的…決して単に手段としてではなく、同時に目的と見なされなければならない。

☞この目的は「あらゆる可能な目的の主体そのもの」としての理性的存在者である。

*この目的の主体は善意志の主体でもあるから、他のものに制限されない絶対的なものだから。

 ⇩

目的自体の方式と普遍的法則の方式は根本においては同じである。

☞「自分が自由に設定した相対的目的を達成するための手段の行使を、そのような行為の根底にある格率が、普遍的法則として妥当するよう制限されること」は、「あらゆる手段の行使に際して、目的の主体としての理性的存在者自身が、決してたんなる手段としてではなく、つねに同時に目的として行為のあらゆる格率の基礎に置かれなければならない、と制限されること」は同じことを言っている。

 ☆ここから以下の二つのことが帰結する。

一), あらゆる理性的存在者は、たとえ法則に服従していても、目的自体として、同時に自らを普遍的に立法する者とみなすことができなければならない。それはまさに、普遍的立法への自分の格率の妥当性が、理性的存在者を目的それ自体として際立たせるからである。

二), すべてのたんなる自然物にまさって、すべての理性的存在者は尊厳(特権)をもつということは、理性的存在者の格率をつねに自分自身の視点から、さらに同時に法則を立法する存在者としてのすべての他の理性的存在者(それはそれゆえ人格ともよばれる)の視点から採用しなければならない。

    ⇩

目的の国が可能となる。

☞「すべての理性的存在者は、自らの格率を通じてつねに普遍的な目的の国における立法的成員であるかのように行為しなければならない。」(Ⅳ, 438)

*目的の国は、「格率すなわち自ら課した規則」によって成立し、「自然の国」との類比で考えられる。

☞ここにも自己立法的な契機が見られる。

 

目的の国はいかにして成立するか

定言命法に合致した格率が普遍的に実行されるとすれば、現実に成立する。

*しかしそれは人間において期待できることではない。

   ⇩

そうだとしても「単に可能的であるにすぎ目的の国の普遍的立法者としてもつべき格率に従って行為せよ」という定言命法は依然として成立する。

定言命法は実際にそれが達成されるかによって、その効力を失わないから。

*人間は感性的存在であるがゆえに、目的の国が実現できないのが現実ではあるが、そのことが逆説的に、人間の尊厳と崇高性を示す。

 

カント道徳理論の諸概念の定義的説明

道徳性…意志の自律に対して行為がもつ関係。意志の格率による可能的な普遍的立法に対して行為がもつ関係

許される行為…意志の自律と両立しうる行為

許されない行為…意志の自律と一致せぬ行為

神聖な意志…意志の格率が自律の法則と必然的に一致する意志

責務(拘束性)…絶対的には善とはいえない意志が、自律の原理に対してもつ依存性[道徳的強制]

義務…責務にもとづく行為のもつ客観的必然性

 

人間性の尊厳はどこに存するか

義務を遂行する人に崇高性や尊厳を見出すのは、たんに彼らが道徳法則に服従しているからではなく、道徳法則を立法するという点にある。

☞「その人が道徳法則に服従している限り、その人についての崇高さはないが、しかしその人がまさに道徳法則にかんして同時に立法するものであり、それゆえそれに従属しているというかぎりにおいて、崇高なのである。」(Ⅳ, 440)

    ⇩

立法する意志としての可能な理念的意志が尊敬の対象であり、人間性の尊厳は、それによって自らが普遍的に立法することができるという点に存する。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑥

第二章 ③ [Ⅳ, 420-430

 

定言命法の内容

格率が法則に合致しなければならない、という必然性のみ

   ⇩

「格率が普遍的法則となることを、格率を通じて君が同時に意欲することができるような格率にのみ従って行為せよ」(Ⅳ, 421)

*この定式化によって、義務の概念の意味するところが分かる。

=「君の行為の格率が君の意志によって普遍的自然法になるべきであるかのように行為せよ」(Ⅳ, 421)

*これは『実践理性批判』の「純粋な実践的判断力の範型論について」にも述べられている。そこでは普遍的自然法則は格率が道徳的原理に従って行為しているかどうかを判定するための範型である、と指摘されている。

 

定言命法と格率の関係

注で指摘されている通り、格率とは主観的な原理であり、客観的原理である法則と対比的に論じられている。

格率……実際に主観が従っている行為の一般的な意向や方針を表現している

法則……理性が完全に意志を規定する理性的行為者が必然的に行為する仕方を表現している。つまり、人間のような不完全な理性的存在者に対しては行為「すべき」仕方を表現している。

     ⇩

いわば格率は普遍的法則となりうる候補であり、定言命法は適切な格率を指令するものである。しかし、命法が格率になるというわけではなく、あくまで二階の原理として機能するだけである。

 

義務の分類(『道徳の形而上学』の方が詳しい)

①自分自身に対する完全義務:自殺の禁止

②他人に対する完全義務:嘘の禁止

完全義務のポイント

・より狭い拘束性をもち、厳密で例外を許さない義務

・その格率を普遍化テストにかけたとき、思考することができない(そもそも成立しない)=内的不可能性

③自分自身に対する不完全義務:自分の能力の開化

④他人に対する不完全義務:他人の援助

不完全義務のポイント

・より広い拘束性をもち、従わなくても責められない(=功績的義務

・その格率を普遍化テストにかけたとき、意欲することができない

[カントのこの説明はそこまで納得いくものでしょうか…?(特に自殺の禁止)]

   ⇩

「私たちの行為の格率が普遍的法則となることを意欲することができるのでなければならない。これが行為一般の道徳的判定の基準である。」(Ⅳ, 424)

 

自分を例外化する人間

私たちが義務違反をするときの心理的カニズム

☞自分の傾向性の利益のために自分に勝手に例外を許す。

*「理性の見地」からすると、これは矛盾している

(→自分を含めた理性的存在者が必然的にすべきなのにそれに反しているから)

*「傾向性の影響下にある意志の見地」からすると、これは矛盾していない

(→そのもとではすべきことに反する可能性を示しているだけだから)

☞この見地でのみ道徳を語ると、普遍性は認められなくなり、道徳は退廃する。

 

義務の論証へ?

ここまでで、「義務はただ定言命法においてのみ表現」されることが明らかになった。

*義務の概念が意義をもつことを認めるなら、という譲歩付き

    ⇩

しかしまだ定言命法が「現実に行なわれていること」「絶対的に…命令する実践的法則なるものが存在すること」「この法則を守ることが義務であること」をアプリオリに証明することはできていない。

注意:道徳の原理としての義務を人間本性の特殊な性質から導き出してはならない。

☞客観的原理はあらゆる理性的存在者に妥当する実践的必然性をもつから

*特殊な性質から導かれるのは個々の行為者の格率まで

 

困難な立場に立たされる哲学

「天に掛ける何か、あるいは地に支える何かがない」(Ⅳ, 425)

☞何の支えもなしに、自分自身[哲学]だけで自らの純粋性を示さなければならない。

 

経験的なものは道徳に対して有害である

「経験的なものはすべて道徳性の原理の添加物として、まったく原理に役立たないだけでなく、道徳の純粋さにとってさえもきわめて有害である。」(Ⅳ, 426)

☞道徳の価値というものは、偶然的なものしか提供できない経験的なものに影響されず、ただ理性によってのみ示される。

    ⇩

「したがって問題は、「理性的存在者が自ら普遍的法則として役立つことを意欲できる格率に従ってつねに自分の行為を判定することは、すべての理性的存在者にとって必然的な法則なのだろうか」ということになる。もしこのような法則が存在すれば、それは(完全にアプリオリに)すでに理性的存在者一般の意志の概念と結びついていなければならない。」(Ⅳ, 426)

☞この存在を認めるには、経験から独立した探究である道徳の形而上学へと進まなければならない。

 

目的自体とは何か

「意志は、ある法則の表象に適合して自分自身で行為を規定する能力として考えられている。……ところで、意志に自己規定の客観的根拠として役立つものは目的であり、そしてこの目的は、もしそれがたんに理性によってのみ与えられているのだとしたら、あらゆる理性的存在者に対してひとしく妥当しなければならない。」(Ⅳ, 427)

*カントの前提:理性的行為者の意志は常に行為者が眼前に立てる目的に向けられている。

☞目的は意志を規定する根拠であるが、それが主観的なものであるなら、同時に手段も意志される。それは「実質的目的」であり、相対的な目的である。

*しかしこの目的は、仮言命法の根拠にしかなりえない。

そうだとすれば定言命法の目的は?

☞行為は目的をもつのだから、定言命法が行為を命ずるものである以上、その関係は存在しなければならない。

    ⇩

傾向性に仕える相対的な目的ではなく、理性によって与えられた絶対的な目的が存在しなければならない(何かにとって、つまり手段として善いのではなく、それ自体で善い、つまり目的自体でなければならない)。

定言命法の根拠としての目的は「それが現に散在していることがそれ自体で絶対的な価値をもち、それ自身が目的自体として一定の法則の根拠であることができるような法則が存在するとすれば、その法則のうちに、そしてそのうちにのみ、定言命法の可能性の根拠が、すなわち実践的法則の根拠が存することになるだろう。」(Ⅳ, 428)

 

・人間および一般にすべての理性的存在者は、目的自体として存在しており、それによって他の選択意志を制限できる。

「理性的存在者の本性は人格をすでに目的それ自体として、すなわちたんに手段としてのみ使用されてはならないものとして際立たせており、したがってその限りにおいてすべての選択意志は制限される。」(Ⅳ, 428)

☞手段としての相対的価値を越えた人格のうちに絶対的価値を見出す。「人格は客観的目的である。」(Ⅳ, 428)

定言命法の原理の根拠は、理性的存在者が目的自体として存在していることである。

     ⇩

「君の人格や他のすべての人の人格のうちにある人間性を、いつも同時に目的として扱い、決してたんなる手段としてのみ扱うことがないように行為せよ」(Ⅳ, 429)

*手段として用いること自体を禁じているのではない

☞これをまた義務の4つの実例を持ち出して説明している(Ⅳ, 429-430)。

この例からは、人間性を目的自体として扱うことは、各人がそれぞれ自由に自分で目的を設定する主体と認め、その目的を妨げず、むしろ促進することを意味していると読み取れる。ここから目的自体として絶対的な価値をもつ人格の根拠として、目的設定を行なう主体である、という主張が取り出される。

 

定言命法の方式としての目的自体

・行為の目的は行為の根拠である。

☞理性的存在者は定言命法の根拠であるため、その目的でもある。

なぜ、理性的存在者が定言命法の根拠なのか。

    ⇩

理性的存在者が存在するがゆえに、定言命法が存在しうるから。

(理性的存在者のみが、普遍的法則の形式性の制限のもとでみずから目的を設定することができる)

 

・ポイントのまとめ

定言命法は理性的存在者としての人間に源泉をもつため、この存在者の理性的意志は相対的な目的に従属するべきではなく、むしろそれ自体が一つの目的なのである。

 

普遍的法則の方式との関係

定言命法の唯一の定式である「汝の格率が普遍的法則となることを汝が同時にその格率によって意志しうる場合にのみ、その格率に従って行為せよ」と目的自体の方式は別の形で表現したものである。ということは、この方式から導き出されるはずである。

 

論証

・普遍的法則の方式

☞あらゆる人にとって普遍的法則でありうるような格率に基づいてのみ行為するよう命じる。

*当然この法則は他の理性的存在者の意志も考慮にいれなければならない(=私は他の理性的存在者も同様の法則に基づいて行為しうるという仕方でのみ行為するよう命じられている)。

  ⇩

それゆえ、私は理性的存在者(自分も含む)をたんに欲望の満足のための手段として用いるべきではない。(=同時に目的自体として用いよ)

 

解釈に困る箇所:目的自体の概念の唐突さ

カントによれば、定言命法仮言命法と違って意欲の対象として前提される目的がないため、行為へと促す目的が予め前提されない。強いて言えば、定言命法を基礎とする行為はその行為自体が目的である。つまり、定言命法が命じる行為には、目的が前提されてはいけないわけだが、アリストテレス以来、カントも行為には目的が置かれなければならないことは前提している。少なくともその行為をする理由を必要とし、明文化できる理由とまでいかなくとも、それを実行する価値があったという何らかの漠然として感覚がないと人間は行為に動かされない。ここからも、定言命法を基礎とする行為がいかにして可能であるか、という問題が切迫した問題であることが読み取れる。この「定言命法は目的を前提してはならないが、しかし行為には目的がなければならない」というジレンマを解消するために、手段としてのみ考えられてはならないような自存的な目的として目的自体という概念がいささか唐突とも思える仕方で導入されている。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解⑤

第二章 ② [Ⅳ, 412-420]

 

意志=実践理性

理性的存在者だけが法則の表象に従って行為する能力[=意志]をもつ。

☞法則から行為を導き出すには理性[=原理の能力]が必要

    ⇩

 意志=実践理性

 

理性が意志を必然的に規定する場合[→人間は含まれない]

・行為は主観的にも客観的にも必然的

・意志は善と認めるもののみを選択する

理性がそれだけで意志を規定しない場合[→傾向性の影響を受ける人間]

(=意志はそれ自身で必ずしも全面的に理性に従わない)

・客観的に必然的と認められている行為が主観的には偶然的

・客観的法則は強制として示される

意志がそれ自体で必ずしも理性に適合しているのではない(人間においては現実そうであるとすれば、客観的に必然的だと認められる行為は主観的には偶然的であり、また、そのような意志を客観的法則に適合するよう規定することは強制である。」(Ⅳ, 413)

☞人間は客観的にすべきだと認識できたとしても、それに反するような主観的条件である傾向性の誘惑を受けると、必ずそれを行なうことが保証されえない存在だから

    ⇩

人間に対して客観的原理は「命法 Imperative」として意識される。

 

命法

「~べし Sollen」と表現される

☞「そのことをすることが善いと述べられても、いつもそれをするわけではない意志」に告げられる(Ⅳ, 413)。

 「命法はたんに意欲一般の客観的法則があれこれの理性的存在者の意志、例えば人間の意志の主観的な不完全性に対してもつ関係を表現する形式にすぎない。」(Ⅳ, 414)

*完全に善なる意志があるとすれば…[→神的意志]

☞意志するだけで自ずから法則と一致するので、強制は不要

 

仮言命法定言命法 (Ⅳ, 414)

仮言命法…「ある可能な行為が、みずからの意志する[あるいは意志する可能性のある]何か他のものに到達するための手段としてもつところの実践的必然性を提示する」

☞主観の条件(傾向性や経験的関心)を踏まえたうえで行為者が採用すべき適切な方針または格率を指図する。手段としての善を命じる。

定言命法…「ひとつの行為を、他の目的への関係なしにそれだけで、客観的=必然的として提示する」

☞普遍的かつ無制約的にあらゆる行為者にその経験的関心から独立に適用される。それ自体において善である行為を命じる。

     ⇩

命法が善を「命じる」のは、人間の意志が弱いからであると念押し

「たとえその主体がそのことを知っているとしても、その主体の格率が実践的理性の客観的原理に反したものでありうるからである。」(Ⅳ, 414)

 

仮言命法の分類

・蓋然的(problematisch)な実践的原理 / 実然的(assertorisch)な実践的原理

前者は可能的な意図のための手段を命じる

☞可能的な意図は、意図するかしないかはその人次第であるような意図

後者は現実的な意図のための手段を命じる

☞現実的な意図は、誰もが必ず幸福を意図しているという意味で現実的な意図。

*人間なら誰しも「現にもっている」一つの意図があり、「それは幸福を求める意図」であり、幸福を促進するための手段を命じる仮言命法は「実然的」である(Ⅳ, 415)。

・確然的(apodiktisch)な実践的原理

何かを意図するとか関係なしに行為を命じる。つまり定言命法

「この命法は、行為の実質や行為から生じるべきことにはかかわりをもたず、それから行為自体が出てくるような行為の形式と原理にかかわる。」(Ⅳ, 416)

 ☞これだけが道徳の命法と呼ばれうる。

 

熟練(Geschicklichkeit)の命法:仮言命法の一種

目的が善いか悪いかを度外視して、目的に対して十分な手段を命じることだけが問題となる。

*幸福への手段を命じる熟練は思慮(Klugheit)と呼ばれる。

Klugheitの訳語としては伝統的には「怜悧」、あるいは「賢さ」などがあるが、古くはアリストテレスのフロネーシスを語源とするので、「思慮」を採用する。

 

三つの原理を整理

・熟練の規則=技術的(technisch)命法

・思慮の助言=実用的(pragmatisch)命法

・道徳の命令=道徳的(moralisch)命法

*必然性の所在

助言→それぞれ何を幸福とみなすか偶然的であるため、条件づけられた必然性

命令→傾向性に反してでも服従されなければならない法則としての無条件の必然性

 

仮言命法はいかにして可能か

・熟練の命法が可能であることを示すのは簡単

☞分析的命題だから、目的が立てられたらそれを達成するための手段が導き出されるため

*分析的命題……『純粋理性批判』によれば、矛盾律同一律にのみよって真であると判断され、主語概念が述語概念を包摂しているため、主語を分析さえすれば述語が導かれうる命題のことを指す。

*確かに「意志に関することにおいて」分析的と言えるが、厳密には命題自体が分析的であるとまではいえない。

・思慮の命法が可能であることを示すのも熟練の命法と同様にできる

しかし、熟練の命法と違って目的に置かれる「幸福の概念が曖昧」なため、自分が幸福として何を欲しているか、またそのために何を手段として行うべきかは判明しない。

☞幸福が経験的なものであるから偶然的で定まることがない。

「彼は何らかの原則に従って彼を真に幸福にするものが何かを完全に確実に規定することはできない。そうするためには全知が必要とされるだろうからである。」(Ⅳ, 418)

    ⇩

それゆえ、正確に言えば思慮の命法も命令されえない。

それは命令というよりもむしろ「理性の忠告 Rathschlägen」である。

*とはいえ、どちらも意志された目的から手段を導いているという点では分析的である。

 

定言命法はいかにして可能か

これは解決を要する問題であるとカントはいうが、解決できなかった。

定言命法が存在することを経験的に明らかにされることはない。

☞経験的に判断した場合、その定言命法には実は隠れた感性的動機があり、実はたんなる仮言命法でした、ということが考えられるから。

   ⇩

定言命法の可能性の探究は、全くアプリオリになされなければならない。」(Ⅳ, 419)

*この表明だけでここではそれがなされないのだが、少なくともカントはここで「定言命法のみが実践的法則と呼ばれうる」ことを示した。

☞法則としての実践的必然性をもつのは、何ら他の意図や目的に条件づけられずに、無条件に意志に妥当しなければならないから。

 

なぜ定言命法の可能性を明らかにするのが困難なのか

定言命法アプリオリな総合的=実践的命題」であるから(Ⅳ, 420)。

アプリオリな総合命題とは?

 ☞総合命題は主語から述語が導出されないため、すべてが経験的、アポステリオリなものであると考えられるが、カントは『純粋理性批判』において、いかにしてアプリオリな総合命題が可能であることを示そうとしたことは有名である。なぜ定言命法アプリオリな総合命題であるかは後に詳述を試みる。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解④

第二章 ①[Ⅳ, 406-412]

 

二章のタイトル:通俗的道徳哲学から人倫の形而上学への移り行き

*今回扱う箇所は一章を振り返って二章の議論へ移行するための準備みたいなもの

 

義務に基づいた行為への正当な疑問

一言で言ってしまえば、本当にそんな行為あるんか?という疑問

   ⇩

義務に合致した行為はあっても、それが本当に義務に基づいた行為なのか?

☞義務に基づいた行為を経験的に明らかにすることはできないことはカントも認める

「実際、ともかく義務に適合しているある行為の格率が、まったく道徳的根拠と義務の表象とにのみ基づいていた、という場合を、ただのひとつでも、経験によって完全に確実に取り出すことは不可能なのである。」(Ⅳ, 407)

☞人間の心の不可知、人間の自己欺瞞的性格

*カントの他の著作での記述を見ても、本当に義務に基づいた行為なのか究極的にはわからないということはむしろ強調されている。

cf.「行為の適法性についてはまったく疑わしいところがないにしても、ただ一つの行為においてでさえ、自分の道徳的意図の純粋さと心術の純真さとを完全に確信しうるほどに、自己自身の心の奥深くを見通すということは、人間には不可能」(『道徳の形而上学』Ⅵ, 392)

    ⇩

「実際、吟味を大いに働かせることによってさえ、隠された刺激を完全に明らかにすることは決してできない。なぜなら、道徳的価値が問題である場合、目に見える行為が問題なのではなく、目に見えない行為のかの内的な原理が問題だからである。」(Ⅳ, 407)

ここで言われている内的原理とは格率のこと

 

★カント倫理学のポイント 

格率の観察不可能さはカント倫理学を損なうか

仮に自分の本当の格率が何であるか判明しないとしても、人間の実践におけるスタンスはさして変わらない。カント倫理学における実践哲学上の目標は、自分の格率が普遍的法則と一致するように吟味し、義務に基づいて行為することである。そのために、自分の真の格率が何であるかを明らかにすることが達成されなければならないということには必ずしもならない。要求されるのはあくまでも、自分が従っている格率を徹底的に反省し、普遍化可能性を吟味することを通して、何をすべきかを考えることである。

*カントに対して、動機なんて本当のところどうかわからないんだから、カントの主張は有効ではない、と批判を寄せた論者もいた(カルヴェなど)が、カントはむしろそれを十分に認めたうえで議論している。

☞「まったく利己心なく自分の義務を遂行したとまちがいなく意識できる人などいないだろうということ、このことは私もすすんで認めよう。」(『理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』Ⅷ, 284)

     ⇩

自分が本当に義務に基づいて行為したのか十全的に確認することができなくてもいいということはカントが明示的に述べてもいる。

☞「自分自身を入念に調べてみて、混入してくる他の動機が何一つないだけでなく、義務の理念に対立する多くの動機に関してはそれを否定しており、それゆえ今述べたような純粋さに向かって努力するという格率を持っていると自覚することが自分に出来ることがわかったなら、このことは義務の遵守にとってすでに十分なのである。」(理論では正しいかもしれないが、実践には役立たないという俗言について』Ⅷ, 285)

 

義務を守るための信念

この世に真の徳が存在するのか?という疑問は無理はないが、そんなものはないんだ!と結論する必要はない。

   ⇩

義務についてのわれわれの理念の全面的崩壊を防ぐための必要なのは次の信念

☞純粋に義務に基づいた行為が現実には一度もなく、それゆえいかなる実例もないとしても、それでも理性によってそのような行為は命じられている、という信念

*ここで言われている「信念 Überzeugung」には注意が必要。信念といわれると、その人が何の根拠もなく信じているよう感じがあるが、むしろカントがÜberzeugungで示しているのは、「客観的な根拠をもった確信」であって、主観的な根拠しか持たないものは「説得 Überredung」として区別される(『純粋理性批判』(A820/B848))。

 

道徳法則の必然性

道徳法則は人間だけでなく、理性的存在者一般に妥当するものである。

☞経験によっては究明不可能

 

道徳を実例から導いてはいけない

「私に示されるすべての実例は、それ自身、前もって道徳性の原理に従って、根源的な実例として、すなわち模範としてふさわしいかどうか判定されなければならず、実例が道徳性の概念を提供することは決してありえないからである。」(Ⅳ, 408)

☞道徳的だなと思えるような人から道徳を導くのではなく、先立って道徳の原理があり、その原理に照らしてはじめてその人が道徳の実例であると判定される。

*カントは道徳教育においてかなり実例の意義を積極的に認めている。

 ☞「実例はただ励ましのために役立つだけである」「法則の命ずるところが実行可能であることを明かにする」という記述はその裏返しとも読める。

 

道徳の形而上学

以上のことから、道徳の真実な最高原理がただ純粋理性にのみ基づかなければならない。

☞そうだとすれば、人々が好まないとしても道徳の形而上学が必要である。

*通俗哲学へ降りていくとしても、まずは形而上学的に基礎づけなければならない。

 

道徳の形而上学の必要性

☞義務の規則を実際に実現するためにも不可欠

純粋な道徳法則の表象は、他の感性的刺激を凌ぐ強力な動機になる

*おそらくこの議論は『実践理性批判』の「純粋実践理性の諸動機について」でより詳細に言及されている。

 ☞意志が道徳法則によって規定された場合、感性的刺激や傾向性がすべて否定される、という議論。さらにここで「道徳法則への尊敬の感情」がたんなる感情ではないことが明確に示される。

まとめると、すべての道徳的概念はアプリオリに理性のうちに源泉をもち、それゆえ経験的認識から取り出されえないこと、道徳的概念の尊厳性はその純粋さのうちに存すること、経験的概念が混ざると無制限な価値が損なわれること、などが確認される。

 

第二章の本番前夜

第一章で試みられた常識的な道徳的判定から哲学的な道徳的判定へと、まったく経験に頼らない形而上学へと進んでいくためには、義務の概念の発生地点を追跡する。

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解③

第一章後半[Ⅳ, 397-405]

 

生命を維持する義務

人間は生命維持への直接的な傾向性をもっている。

☞たんに生命維持をすることは義務とはいえない(=道徳的な内容を持っているとは限らない)。

・では、どのような場合に道徳的な内容を持つのか

(厳密に言うと、道徳的な内容を持っているとわかりやすいか)

☞どんなに失望しても、義務に基づいて声明を維持する場合

   ⇩

「この人の格率は道徳的内容をもつ。」(Ⅳ, 398)

*格率とは「意欲の主観的原理」(Ⅳ, 401 Anm.)であり、「行為することの主観的原理」(Ⅳ, 421 Anm.)であり、「主体がそれに従って行為する原則」(ibid.) であり、「自分自身に課した規則」(Ⅳ, 438) である。

 

他人に親切を尽くす義務

同情心に富んで他人を助けることに喜びを覚えるような人が親切をしても、真に道徳的な内容をもたない。(傾向性と同類)

☞「この格率は道徳的内実、すなわちそのような傾向性に基づいてではなく、義務に基づいて行うという道徳的内実に欠けるからである。」(Ⅳ, 398)

*ここでも、ただ義務に基づいていることが道徳的に価値をもつといわれる。

 

◎注意点

カントがここで挙げている例を見ると、傾向性があれば道徳的価値が台無しになるかのような語られ方をしているが、そうではない。カントがこの例において試みていることは、行為の道徳的価値が明白になる状況を記述することにすぎず、行為が道徳的価値を有しうるのは傾向性が不在の場合だけであると主張しているわけではない。つまり、ここでの文脈は、「行為が義務に合致しているとともに、行為主体がその上その行為への直接な傾向性をもっている場合」には、義務に基づいた行為かたんに義務に合致している行為か見分けがつきにくい、という話の例示である。つまり、特に親切の義務において顕著だが、その義務を遂行する主体が、それを義務であるがゆえになした場合に道徳的内容をもつことをわかりやすく例示しているだけであると思われる。すなわち、義務とは基本的に客観的強制であり、いやいやな行為であることがある種その徴となるため、「その行為がしたいという気持ち(傾向性)はないが、しかしそれでも義務であるがゆえにしなければならない」という事態を描き出すことで義務の概念を際立たせることだけが、カントの意図だったのではないか。カントは確かに同情心に無条件な善を認めることはない。しかしだからといって、それが伴っていれば必ず義務に基づいた行為にはなりえないと主張しているわけではないだろう。その行為に同情心が伴うと必ず義務に基づくことができない(=道徳的価値をもたない)、という主張がされているわけではない。少なくとも、そのようなある種の感情的側面が道徳的価値を完全に台無しにしてしまうものであるとカントは考えていなかった。

 

自分の幸福を確保する義務

☞「間接的には義務」(Ⅳ, 399)

幸福(=傾向性の満足の総体)は人間がすでに求めるものだから、それへと義務づけられることはない。しかし、自分の幸福が十分に確保されていないと、「義務の違反への大きな誘惑となりやすい」から、間接的には義務なのである。

 

隣人愛の解釈

・「隣人を愛せ」という命令は義務か

 ☞感情的愛ではなく実践的愛の場合、命令されうる。

 

道徳的価値の所在と非帰結主義

「義務に基づいた行為は、その道徳的価値を、行為を通して達成されるべき意図のうちではなく、行為がそれに従って決心される格率のうちにあるのであって、行為の対象の実現に左右されるのではなく、たんに意欲の原理に左右され、それに従って、行為はすべての欲求能力の対象を顧慮せずになされる。」(Ⅳ, 399-400)

☞達成される目的や結果にではなく、その行為の源泉にある方針・原理としての格率のうちに道徳的価値が存する。

   ⇩

行為の目的の実現関係なしに、義務に基づいてなされるなら、意志はたんに形式的な原理によって規定されるしかない。(一方、対象の実現のために意志が規定されるなら、実質的な原理によって規定される。)

 

*ここで第二の命題に入っているが、第一の命題が明示されてはいない。カントのうっかりさんめ!という感じだが、内容的に考えて第一の命題は「義務に合致している行為ではなく、義務に基づいた行為のみが、道徳的価値をもつ」というものだと考えてよいだろう。

 

義務と尊敬

二つの命題からの帰結として提示される命題が以下のものである。

「義務は、法則への尊敬に基づいた行為の必然性である。」(Ⅳ, 400)

これは一見解釈が難しいが、おそらくこうである。

   ⇩

原文を見るとまず、義務とは行為の必然性である(Pflicht ist die Notwendigkeit einer Handlung)、ということが言われる。義務の行為は誰もが必ず行わなければならないということだが、ここではまさに法則が意識されている。そして、必然性の根拠である法則を意識した際に主観に生じるものが尊敬である、ということではないだろうか。

・なぜ、上二つの命題から導かれるのか

第一の命題→義務に基づいた行為は傾向性にもとづかない

第二の命題→義務に基づいた行為は行為の対象の実現にかかわらない

     ⇩

第三の命題→義務に基づいた行為の意志を規定するものは、法則以外ありえない

「義務に基づいた行為は傾向性の影響を、そしてそれとともに意志のあらゆる対象を完全に分離させるから、意志を規定しうるものとして意志に残されるのは、客観的には法則であり、主観的には実践的法則にたいする純粋な尊敬、すなわち、そのような法則に、私のすべての傾向性の中断を伴ってでさえも服従するという格率である。」(Ⅳ, 400-401)

*「尊敬 Achtung」概念はカント実践哲学のキータームの一つだが、このテクストだけではなかなか難しいところがある。他のいわゆる感性的感情を持ち出しながら、意志が理性によって直接規定された場合の心の働きを叙述した『実践理性批判』の動機論を合わせて読む必要がある。

 

尊敬の対象は法則

「意志のうちにある最高かつ無条件な善」=善意志の善さ

☞法則の表象それ自体が意志の規定根拠であるかぎり、法則の表象がそのような善を形成する。つまり、善意志の善さの源泉は道徳法則であるといえそう。

   ⇩

善意志=法則の表象によってのみ規定される意志

「この卓越した善は、法則の表象にしたがって行為する人格自体の中にすでに現にある」(Ⅳ, 401)

 

注2 尊敬について

法則を意識することで理性概念によって引き起こされる知的な感情→「尊敬」

*感性的な感情ではない

「尊敬とは……ある法則のもとに服従することの意識を意味する。」(Ⅳ, 401)

「法則による意志の直接的な規定と、その規定の意識が、尊敬と呼ばれ、したがって、主体に対する法則の結果としてみなされ、法則の原因とはみなされない。(Ⅳ, 401)

*法則の実例である人格への尊敬(尊敬の対象はあくまで法則)

 

頼みとなるのは法則の形式のみ

実質的な対象を取り除いたいま、意志の原理としてはたらくのは法則性だけ

「私は、「私の格率が普遍的法則となるべきことを私も意欲することができる」というものとして以外には決して振舞ってはいけない。」(Ⅳ, 402)

☞行為は格率からなされるため、その行為が法則性を帯びるためには、格率が普遍的法則となりうることが吟味される必要がある。

 

「偽りの約束」の例

「偽りの約束をすることが義務に適うかどうか」→義務違反

なぜ義務違反(すべきでない)かを知るための自問

☞「偽りの約束をするという格率は普遍的法則になりうるか」

   ⇩

そのように意欲することはできない(約束が成立しない)

 

格率の普遍化テスト

道徳的に善であるために何をすべきかを知るには、格率の普遍化テストをするだけでよい。

「私は次のように自問するだけである。「君の格率が普遍的な法則となることを意欲できるか。」もしできなければ、その格率は退けるべきである。」(Ⅳ, 403)

善い意志の条件は義務である

☞ここに善意志の善さが義務を根底にして成り立つことが示唆される。

言い換えれば、義務に基づいた行為する意志を善意志といってよい。義務が、さらに言えば定言命法が善であることを示そうとする議論は第二章の仕事。

 

常識から道徳の原理への到達

確認されたように、格率の普遍化テストは常識による判定と一致する。

☞常に念頭に置いているわけではないが、道徳的判定の基準として用いている。

 (=羅針盤)

     ⇩

道徳の原理(格率の普遍化)は、常識の中にすでにある原理に注意を向けさせ、気づかせるだけでよい。

常識でうまくいくなら、哲学によって探究する必要はないのでは

 

素朴さは腐敗しやすい

実践的判断に対するカントの常識への信頼は厚いが、常識のもつ素朴さは危ういものである。

☞「無垢を十分には維持させることはできず、簡単にそそのかされる。」(Ⅳ, 405)

 人間は感性的な存在でもあるので、「理性が人間に大いに尊敬することに値するものとして表象させるあらゆる義務の命令に対して強大な反発を感じる。」(Ⅳ, 405)

☞欲望や傾向性の反抗

     ⇩

それを抑えて理性は指令する

     ⇩ 自然の弁証論へ

「義務のかの厳格な法則に対して屁理屈をこね、その妥当性を、少なくともその純粋さと厳格を疑いにかけ、そしてその法則をできるなら私たちの願望や傾向性により適合したものにしようという性向」(Ⅳ, 405)

☞「義務の法則を根底から腐敗させる」(Ⅳ, 405)

  =道徳を腐敗させる

 

こうならないようにするためには、常識さえあればOKとはならない。

☞実践哲学の領域へ

     ⇩なんのためか

常識が「普通の人間理性が、相互の言葉から生じる困惑から脱し、自らが陥りやすいあいまいさによって、真正な道徳的な原則が奪われるという危険を冒さないため」(Ⅳ, 405)

*こうして道徳についての哲学的探究が二章に託される

カント『道徳の形而上学の基礎づけ』読解➁

第一章前半 [Ⅳ 393-397

 

第一章の道筋

☞常識で理解できる道徳性としての善意志の概念から分析的に義務の概念に至り、義務に基づいた行為のみに道徳的価値が認められるとする。

 

善意志

「世界のうちに、いやそれどころか世界の外であっても、無制限に善いとみなされうるものがあるとすれば、それはただ善い意志以外にありえない。」(Ⅳ, 393)

☞これはあまりにも有名な一節である。

 

*注解

善意志の善さについての含意

原文

Es ist überall nichts in der Welt, ja überhaupt auch außer derselben zu denken möglich, was ohne Einschränkung für gut könnte gehalten werden, als allein ein guter Wille. (Ⅳ, 394)

よく見ると書き方がかなり回りくどい。ohne Einschränkung für gut könnte gehalten werdenはまず接続法Ⅱ式(非現実)で語られている上に、für … gehalten werden「…とみなされる」と表現されている。「無制限に善いものがあるとすれば、善意志以外ではない」という書き方からは、ここでは「善意志」そのものの善さを支える根拠を示すことはできない、というカントの含意が見られると思われる。カントさん、それでいいの?と思うかもしれないが (私は思った)、カントの第一章での意図は、常識から出発するもの。つまり、とりあえずは絶対的善さをもちうるものは善意志以外考えられないですよね、と語りだしているのだと考えられる。

ただもちろんカントは、常識を働かせさえすればOKとしたわけではないので、その後二章に至るまで、注意深く見る必要はある。善意志の善さを常識に任せて放棄するわけではなく、その後、義務の概念の導入によって議論は展開されていき、最後は自律的な意志の導入によってやっと説明されることになる。

 

*注意点

カントが『基礎づけ』第一章で導入する善意志についての主張は、常識による判断の表現として提示されているのであって、この主張そのものに説得力はない。あくまでここでのカントの主眼は、善い意志という概念を分析することにある。

 

*ポイント

カントは善意志だけが絶対的な善であり、それ以外の善と呼ばれるもの[精神の才能:判断力など、気質のもつ特質:勇気など]は真の善ではないとする。

☞カントはそれらがまったく善ではないと断定しているわけではなく、意志が善くなければそれらは偶然的に悪になりうることを注意している。

(一応性質は善意志の促進を助けることも考えられている。少なくとも、無制限に善いとはいえないだけ。)

 ☞なぜなら「善い意志の原則を欠くならば、それらはきわめて悪いものになりうるから」である。(Ⅳ, 394)

 例)悪い意志をもった強盗=より巧みに盗みを働く

 

カントの反帰結主義

・善い意志が善いといわれるのは、結果に依存せず、ただその意志作用のみによる。

 ☞「それ自体によって善いのである。」(Ⅳ, 394)

 ☞「善い意志は宝石のように、自らのうちに全価値をもつものとしてそれ自身だけで輝いている。」(Ⅳ, 394)

*たまに勘違いする人がいるが、カントは別に意志さえ善ければ結果はどうでもいいなどと考えているわけではなく、その結果に左右されず、あるいはたとえ善い帰結にならなくても、善意志の価値は失われることはないと指摘しているにすぎない。

 

納得できない人へ

なぜ自然が私たちに理性を支配者として加えたのか、という疑問を吟味してみよう。

人間…有機組織を持つ(=生きるという目的に適った組織をもっている)

☞こういう存在にとっては、目的を実現するための道具はふさわしく適切なものである。身体的器官はすべてそれぞれの目的の実現に適当な形で組織され、一つの生命体を構成している。

・人間の目的が幸福であると仮定

 ☞理性を与えたことは誤り

 なぜなら、幸福を目指すなら理性よりも本能の方がはるかに優れた道具になるから。

*幸福=傾向性の総量、すべての傾向性が満足していること

「幸福=すべての傾向性の総和という自然的目的(der natürlichen Zweck der Summe aller Neigungen, die Glücklichkeit)」(『判断力批判』 Ⅴ, 434 Anm)

 

なぜ人間には理性が実践的能力として与えられているのか

幸福のためだけなら理性は役に立たないどころか邪魔である。

   ⇩

「理性嫌い(ミソロギ―)が、すなわち理性の嫌悪」(Ⅳ, 395)

 ☞理性の使用に関して経験を積んだ人は、結局幸福になれなかった(余計に苦労した)として、あまり理性の支配を受けない平凡な人をうらやんだりする。

*この理性嫌いの人たちの判断の根底には、理性は完全に幸福をではなく別のもっと高い価値をもつ意図のために向けられている、という考えが潜んでいる。

このように理性は幸福には役立たないのに、なぜ意志を動かす力として与えられたのか。

   ⇩

・理性の真の任務は、ある種の目的論的使用ではない。

・理性の真の任務は、それ自体として善い意志を生みだすことである。

この理性の開発は、(少なくともこの世では)幸福の達成を妨げることはあるが、これによって自然が自らの目的に反するやり方をしているわけではない。

☞「理性は、自らの最高の実践的規定を善い意志の根拠づけのうちに認めており、この意図の達成によって、自分に特有の種類の満足を、すなわちただ理性が規定する目的を実現することから生じる満足をもちうる」からである。(Ⅳ, 396)

   ⇩

つまりカントによれば、人間に理性が与えられたのはただ生きるのではなく、善く生きるためである、といえるだろう。

 

道徳と自然の目的論的関連

理性も本能も、生物としての有機的存在に具わる能力は、すべて合目的的だとカントは考えている。理性は善い意志をもたらすという目的に適っており、本能は幸福という目的に適っている。

 

義務の概念の導入

自体的に善い意志の概念の内容を明らかにするために、義務の概念が取り上げられる。

「義務の概念は善い意志の概念をある主観的な制限と傷害のもとではあるが含んでいて、しかしその制限や障害は、善い意志の概念を隠したり見分けにくくしたりするどころか、かえって対照によって善い意志の概念をよりいっそう明らかに際立たせる。」(Ⅳ, 397)

☞人間にとって善い意志は、制限や障害(=義務違反の誘惑)との対照によって際立つ。

・義務違反の誘惑がある理由

☞人間は善い意志に対抗する自然的な刺激や傾向性が伴うから

   ⇩

それゆえ、客観的強制を伴う義務の概念が善い意志の説明に取り入れられる

*当然、神は義務違反へ傾くことがないので、善い意志は義務の概念に含まれない。

 

「義務に合致する行為」「義務に基づいた行為」

ここで、後に適法性と道徳性として概念化されるカント倫理学の基本的な区別が導入され、それを見極めるための例が提示される。

分かりやすく言えば以下のように区別される。

義務に合致する行為」……外見上、義務が命ずる行為を行っている。必ずしも、それが義務だからではなく、利益のために行為しているかもしれない。

義務に基づいた行為」……外見上、義務が命ずる行為を行っているだけでなく、それがただ義務であるということだけで行為している。

・カントが問題とする行為

この区別の見分けが簡単につかない行為

=行為が義務に合致しており、それへの直接的な傾向性をもつ場合、すなわち「すべし」と「したい」が一致している行為

*若干分かりづらいのだが、この直後でカントが提示する小売商人の例は、「行為が義務に合致しており、それへの直接的な傾向性はもたないが間接的な傾向性をもつ」場合の例である。だからすぐ見分けがついている。

次回、カントが用いるいくつかの具体例から、義務の内実に迫る。