哲学なんて知らないはやくん

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公衆衛生の倫理学:コロナウイルスの世界的流行を受けて➀

コロナウイルスの猛威は収束の気配を見せず、世界を騒がせている昨今ですが、みなさんはどうお過ごしでしょうか。できるだけ人混み、特に風通しの悪い密室空間は避け、基本的に自粛ムード、という方が多いかと思います。それの是非については何も言う気はありませんが、少なくとも今回の件が公衆衛生という一つの課題に対する応答の契機になりうると感じています。

当然、歴史上世界では多くの感染症が流行し、多くの死者を出し、そのたびに政策を講じ、ワクチンを作り、乗り越えてきました。60年代以降は、公衆衛生の問題はそこまで取り扱われることのないトピックのように扱われていた風潮もあったようですが、今回のコロナウイルスの世界的流行は、現代においても人類にとって公衆衛生の問題は切実な社会問題に数え入れられると知らしめてくれました。どれだけ医療技術が発展し、これまで不治の病と恐れられてきた多く病気が治る時代になったとはいえ、ウイルスや病気がひょいとそれを超えるスピードで広がることはあるということです。このことについては、1850年天然痘の大流行を受けて発表された『公衆や個人の健康の促進のための一般計画に関する報告書[Report of General Plan for the Promotion of Public and Personal Health]』にある次の言葉から、いまだ学ぶことがあると思います。以下に引用してみます。

 

It is undoubtedly true, that in many things society has improved; that medical skill in the cure of disease has greatly increased; and that some diseases are not as fatal as formerly, or are now better understood and controlled. But while all this may be true, it is no less true that the active causes of disease have increased faster than the appliances for their prevention and cure; that new diseases, or old ones in a new and modified form, equally fatal and uncontrollable, have appeared; and that sickness and death advance more rapidly than the improvements devised to arrest them.[1]

[試訳] 多くの点で社会が進歩してきたこと、病気の治療における医学技術が大いに成長してきたこと、そして、いくつかの病気が以前よりも致命的ではなく、また今やそれらの病気への理解や制御が改善してきたことは、疑いようのない真実である。しかし、これらすべては真実だけれども、効力のある病気の原因が、それらの病気の予防や治療への適用よりも、早く増加してきていることも、紛れもない真実であり、さらに、致命的で制御できない新しい病気や、新しく形態や修正された形態の古い病気が、現れていること、そして病気[sickness]や死が、それらの進行を止めるために考案される改善策よりも急進的に進むということも、紛れもない真実である。

 

そこで今回は、二回に分けて、「公衆衛生の倫理学[Pubic Health Ethics]」という英米で誕生した比較的新しい倫理理論の紹介とともに、それらが取り組む倫理的問題についての簡単な考察をしたいと思います。終始念頭にあるのは感染症の問題です。勉強不足のため、かなり不充分な記述となってしまうかもしれませんが、この倫理学の分野をみなさんに知ってもらうこと、そして関心をもってもらうことを目標として、書かせていただきたいと思います。

公衆衛生の問題を扱うために

まずは公衆衛生という言葉上の定義と役割を簡単にでも確認する必要があるでしょう。そこで、WHOの公衆衛生サービスのページに書いてあったことを一部引用したいと思います。 

Public Health is defined as “the art and science of preventing disease, prolonging life and promoting health through the organized efforts of society” (Acheson, 1988; WHO). Activities to strengthen public health capacities and service aim to provide conditions under which people can maintain to be healthy, improve their health and wellbeing, or prevent the deterioration of their health. Public health focuses on the entire spectrum of health and wellbeing, not only the eradication of particular diseases. Many activities are targeted at populations such as health campaigns. Public health services also include the provision of personal services to individual persons, such as vaccinations, behavioural counselling, or health advice.[2]

[試訳] 公衆衛生は「社会の組織的な努力を通じて、病気を予防し、延命し、健康を促進する技術と科学」(Acheson, 1988年: WHO)と定義される。公衆衛生の能力やサービスを強化する活動は、人々が健康であることを維持し、健康や福祉を改善し、あるいは健康の悪化を防止することができる条件を提供することを目的とする。公衆衛生は、特定の病気の根絶だけでなく、健康と福祉の全領域に焦点を当てている。多くの活動は健康運動のような集団を対象にしている。公衆衛生サービスには、ワクチン接種、行動についてのカウンセリング、健康の助言などの個々の人々へ向けた私的なサービスの提供も含まれる。」

 

さらに、どうやら教科書的に用いられることが多いウィンズロー[Winslow, Charles-Edward Amory, 1877-1957]の定義によると次のようになります。

「公衆衛生とは、組織化された地域社会の努力により、疾病を予防し、寿命を延長し、健康と効率の増進をはかる科学であり、技術である。」

 

これらを見る限り、ほとんど同じなのでソースは被っているのかもしれませんね。少なくとも、公衆衛生の問題は社会が取り組むべき課題であること、予防と健康がキーワードであることがわかります。

公衆衛生の問題は、産業革命による工場産業の台頭と、それに伴う人口の集中、劣悪な労働環境、貧富の差の拡大、などを諸要因として近代以降に顕在化してきたと言われています。特に疾病予防の観点では、健康な労働力を十分に確保するため、という政治的目論みも背景にあったようです。言うまでもありませんが、感染症は不衛生な環境に発生の起源をもつことが多く、貧困の問題と切り離すことはできないとはいえ、豊かな高所得者層も同様にその脅威にさらされます。しかもそれはたんに個人の問題、あるいは特定の自治体の問題ではなく、境界を越えて無差別に広がっていきます。それゆえ、どれだけある特定の個人や自治体が適切な対策を打ち出しても、どこかがそれを怠れば、それ以外の公衆衛生対策の努力を水の泡にしかねないという側面を有しています。それゆえ、感染症などの危機管理にあたっては、厳格で管理的な画一主義の徹底が要請されるという考えもあります。これはチャドウィック[Edwin Chadwick, 1800-1890]が代表的に主張したと言われています。また、彼は功利主義の父であるジェレミーベンサム[Jeremy Bentham, 1748-1832]の弟子だったこともあり、この画一主義の徹底という思想的背景には、「最大多数の最大幸福」という功利主義の大原則があったと考えることができるでしょう[3]。次回にも軽く触れますが、やはり公衆衛生の倫理学功利主義と相性がいいように思えます。

しかし、公衆衛生対策のためには、このような画一主義だけでは不十分であるとして、社会の構成員である個人の責任の重要性が同時に主張されることもあります。制度的、管理的な対策に劣らず、個人の自己制御が公衆衛生の問題に立ち向かうには重要である、ということです。今回のコロナウイルスを例に考えてみれば、北海道がいち早く動いた「緊急事態宣言」での外出禁止の要請[これは知事のお願い以上の法的拘束力はないものですが、少なくとも画一主義的な対策と言えると思います]だけでなく、外出を避けるように要請された期間が過ぎても専門委員会が提示した行動を控えるなどといった個人の判断も同じように重要である、ということです。

特に、SNS等で人々は簡単に情報にアクセスしすぎることが可能となった近年において、政府や自治体が下す公的な展開に対して、個人の知恵というレベルでの私的な展開をしっかりと生かしていかないと、うまく対策が機能しないと感じます。トイレットペーパーや生理用品の買い占めは、不衛生を招きかねません。また、今回の政府や多くの自治体が講じた対策には、画一主義的な側面は見せながらも、かなり抽象度が高い要請であるがゆえに、公と私の間であまりバランスが取れていないような印象を受けます。

 

さて、今回は、公衆衛生の一般的な定義やその歴史的背景、政策の性格について簡単に触れることで終えたいと思います。これを準備として、次回は公衆衛生の倫理学として、倫理的問題を扱います。予告としては、このような或る程度の強制的生格を帯びざるを得ない公衆衛生の問題に対して、個人の自由な自己決定・自律を主として問題にしてきた医療倫理、生命倫理との対立の問題となります。もっと倫理学的に言うと、個人の自由と共通善の対立、という課題です。カント主義と応用倫理学のズレや、功利主義VS義務論で簡単に論じられるのか?ということについて書きたいと思います。

どうやら日本政府も緊急事態宣言を検討しているようです。さて、倫理的ジレンマがそこに生じうるでしょうか。全員で考えていきたい問題です。とりあえずはみなさん、手洗いうがいをしっかりして、ウイルスに負けないよう過ごしましょう。ではでは。Tschüss!

 

 ([1]) Report of a general plan for the promotion of public and personal health, by the Commissioners appointed under a Resolve of the Legislature of Massachusetts, relating to Sanitary Survey of the State. Boston: Dutton & Wentworth, 1850, p.105. Digitized by the Internet Archive in 2010 with funding from Boston Public Library

https://archive.org/details/reportofgeneralp00mass/page/n3/mode/2up

 ([2]) http://www.euro.who.int/en/health-topics/Health-systems/public-health-services

 ([3]) この点については、多田羅浩三「現代公衆衛生の思想的基盤」『日本公衛誌』第56巻、第1号、2009年、pp.3-17を参照した。