哲学なんて知らないはやくん

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公衆衛生の倫理学:コロナウイルスの世界的流行を受けて②

前回の続きです。予告通り、個人の自由・自律と共通善の対立として、公衆衛生の倫理学について簡単に書きたいと思います。

医療倫理と公衆衛生の倫理学 

医療倫理の問題として盛んに議論されるトピックは、パターナリズムと個人としての患者の自己決定の問題であり、医者と患者の一対一関係という構図で考えられることが中心的であったと言えます。それゆえ、医療倫理の文脈では、個人の自律が主題であり、それに対立する形で登場する強制というあり方は排除されていく傾向にありました。しかし、感染症やその予防などを扱う公衆衛生の倫理学は、医者に対する患者の自由な意志決定という文脈ではなく、画一主義という言葉で象徴されるような強制的な側面を強く持ち合わせています。例えばイギリスのカント研究者であるオニール[Onora O’neill, 1941-]は、公衆衛生は伝統的な医者―患者の関係としての治療という観点からは見逃されるため、医療倫理は、そこに介入が強制的であるところの公衆衛生については比較的何も語ってこなかったことを指摘しています[1]

公衆衛生は個人の選好にかかわらす、強制的に政策を講じざるを得ません。例えば、大気や水といった共通のものどもを、個人の選好の問題として扱うのは不可能でしょう。今回のコロナウイルスが世界的な大問題となっていることからわかるように、感染症をはじめとした公衆衛生の問題は切実な社会問題であり、それへの対策はかなり効果的であることは間違いないにもかかわらず、個人の自律を重視し、さらには医療実践の現場と公衆衛生の予防医学の切り離しによって、あまり応用倫理学的な文脈で扱われることが少なかったというのが実情のようです。

公衆衛生の倫理学については、日本では京都大学の児玉聡先生らが中心的に紹介しており[2]、比較的最近出版された『入門・医療倫理』シリーズの三巻では、それが主題となっています。(うちの大学の図書館になかったため、この記事を書いている段階では読めていませんが、いつか読みたいと思います。)今回のコロナウイルスをきっかけに立ち返られる倫理学の領域の一つとなるかもしれませんね。

しかし、公衆衛生の倫理学を強制中心、従来の医療倫理が自律中心といった図式的説明は簡単にはできないと思います。倫理学説でいえば、公衆衛生の倫理学功利主義、自律中心の医療倫理がカントの義務論、といった対立軸で語るのはあまり適切ではないでしょう。今後、公衆衛生の倫理学が応用倫理学の一つの議論として目立ってくることも予想しつつ、この点について確認したいと思います。

今回問題にしているように、公衆衛生の倫理学における最大の倫理的問題は、個人の自由・自律と公衆の健康や予防という共通善の対立の調停にあると思います。それにあたり、しっかりその対立を捉える必要があるはずです。例えば、前回も言ったように、個人の自由を多少制限しようとも、社会全体の利益を増進させるような政策を善しとする功利主義的な思考が公衆衛生の倫理学と相性がいいことは確かだと思いますが、それは功利主義をあまりに単純化していると思います。また、カントの義務論は強制を排して個人の自律を重視するから公衆衛生の倫理学とは相容れないが、パターナリズムへの批判としては有効である、という説明もあまりにカント倫理学を矮小化しています。教科書的な説明ではこうなりがちですが、建設的な議論を構築するためには、それでは不充分であることは明らかです。特にカント倫理学をそのように扱うのは誤解だと言えるでしょう。以下、確認していきます。

 カント倫理学と医療倫理

カント倫理学は確かに自律を重視します。しかし、カントのいう自律は、医療倫理で語られる個人の自律とはほとんど重なり合いません。この点について詳しくは、オニールのAutonomy and Trust in Bioethicsを参照していただければと思いますが、簡単に言うと、カントの自律概念の力点は道徳法則の方にあり、個人の能力の方にはないのです。少し専門的な言い方で言えば、カントが論じる自律とは個人の選好に基づいた自由な意志決定というものではなく、自然必然性から自由に、理性の能力によって道徳法則に意志が規定されていることを意味します。この点には細心の注意を払う必要があるでしょう。また、日本の研究者でいえば、カント倫理学生命倫理学のズレを強調する論者として、北海道大学の藏田伸雄先生がいます。彼が『新・カント読本』に寄稿している「カント倫理学生命倫理学」という論文を参照していただければ、多くのことがわかると思います。

このような意味のズレはありながらも、実際にカントの義務論倫理が医療倫理の理論的支柱となっていることは確かです。それはしばしば、結果の善さを重視し、社会全体の利益を優先し個人の権利を軽視しがちな功利主義への批判として参照されることも多いです。

しかし、公衆衛生の問題で考えると少し厄介です。なぜならそれは、同意の問題にならないからです。例えば、ある被験者に対して薬の実験をして、成功すれば社会全体の利益は多大なものになると予想できたとしても、その対象となる被験者個人の同意が得られなければ彼の権利を踏みにじることになるため許されない、と主張するとき、カントの義務論は理論的盾となります。ですが、コロナウイルスの流行を防ぐための政策は、個人の自由をある程度制限するものですが、それはある個人の権利の問題にはならないことが多いでしょうし、上のようなわかりやすい倫理学説の対立軸では語れないわけです。もう少し視野を広げてみると、カントの法論の立場に立てば、自由を制限させないための制限であれば認められるはずですし、これはミル[John Stuart Mill, 1806-1873]の他者危害の原則に近い立場とも言えるかもしれません。また周知のように、ミルは功利主義者です。

少しごちゃごちゃしてきましたが、言いたいことは、医療倫理はカントの義務論、公衆衛生の倫理学功利主義という安易な対立で考えること、また個人の人権という概念を盾にして患者の自由を守ったり、公衆衛生との相性の悪さを論じていても、あまりいい議論にはならない、ということです。そのためには、守られるべき個人の自由とは何か(個人の自律はどこまでも優位なものなのか)、人権とは何か、公衆衛生の問題はどこまでなのか、そもそも倫理とは何か、といった問いの枠組み自体を問い直すことが求められるのだとも思います。

 

二回にわたって論じてきた「公衆衛生の倫理学」について、どうだったでしょうか。個人的にはいい勉強になりました。コロナウイルスの脅威は未知の領域に入ったとWHOは声明を出しましたが、私たち人類は立ち向かわなければなりません。政治的・経済的な議論が切迫した課題だと思いますが、今後いかにして問題自体に向き合って考えていくのか、どのような政策に打って出るべきなのかという実践的問題の理論的支柱を提供するためにも、今後この分野は注目されていくのではないでしょうか。

 

 ([1]) Onora O’neill “Pubic Health or Clinical Ethics: Thinking beyond Borders“ Ethics and International Affairs 16 no.2, 2002, pp.35-45を参照した。

 ([2]) 今回はネットで見つけた「公衆衛生の倫理学(Public Health Ethics)とは何か—英米圏の文献レビューによる概説—」というドラフトを参照しました。議論の紹介としてはかなり勉強になるものです。plaza.umin.ac.jp/.../public_health_ethics_survey20060730.pdf