哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

哲学、化粧、精神的美

最近の私は、化粧行為には想像以上に哲学的意義があるのではないかと考えています。もちろん真面目に誰々の思想がこうだからこうとか、こういう分野ではこうだからこうだとか、そういう研究的な見通しはないのですが、なんとなく直観しています。調べてみると、資生堂の研究員でもある石田かおり先生は哲学的化粧論なるものをご専門にされているようですし、鷲田清一先生なんかはファッションの哲学としてアプローチしています。まだ私は彼らの著作に目を通して勉強させていただいていないので、それについては後々取り組みたいと考えています。そんなことを考えているとき、ふとPhilosophy、Makeup、Spiritual and Beauty[1]という題名の文章がウェブ上に見付け、どんなもんだろうかと思って読んだら割と面白かったので、それを訳し、自分の感想を述べたいと思います。

哲学、化粧、精神的美

ほとんどの西洋哲学の目には、化粧(makeup)は悪い印象を持っていた。

私たちは「美の哲学」や古典的な西洋の伝統は、伝統的な非西洋思想と同様に、この哲学を受け入れるだろう、ということについて詳細に語ってきた。[2]

しかしながら、美容の哲学(cosmetic philosophy)は、17世紀の合理主義の出現以前のすべての伝統の中に、根本的に重要な場所をもっているが、美容自体はそうではない。少なくとも西洋においては。

ユダヤ教キリスト教イスラム教の世界では、女性の「絵画(painting)」は世俗的な虚栄心や性的な色欲の表れであるということが、最も一般的な意見であった。

1920年代以降、西洋では化粧が尊重されうるものになってきたが、ほとんどの西洋人が、化粧は肯定的な精神的価値をもたないと考えていた。

これは他の文化とはかなり異なっている。古代エジプトから現代のインドに至るまで、美容や身体の装飾の多様な形態は、儀式的で精神的な機能を果たしてきた。

顔の様々な部分の絵画は、様々な儀式的で象徴的な目的を果たしてきた。光の主要な受容器官である目は強調され、また保護されている。保護機能はしばしば「民族」の伝統の中で支配的になり、インドのある地域では、邪悪な目に対する保護の形態として、今でも女性は、黒いコール[3]で自分の目と自分の子どもの目にラインを引いている。

化粧はまた、西洋においてますます通俗的なものとみなされてきている演劇の機能と結びついているが、一方で、伝統的な社会においては、割り当てられた役割を演じることが、人生の神聖な調和の一部となっている。

伝統的な社会においては、象徴的な化粧が男性によってなされることがあるが、それは象徴的な機能に加えて、女性的な美しさを引き立てるものでもあるため、特に女性や少女のものになっている。

アブラハムの宗教[4]においては、またおそらくはさらに、西洋のポスト宗教文化においては、女性的な美しさは、たいていはもっぱら性的特質(sexuality)だけに結びつけられている。しかし、いくつかの伝統的で家父長的な社会においてさえ、女性的な美しさは正確に神的な美しさの反映として考えられている。

現在の西洋哲学を考慮に入れると、特定の象徴的な意味をもつ化粧がすぐに私たちの社会に戻る可能性はないが、神的で女性的な美しさを高めるものとしての化粧の一般的な象徴主義は、もっと広く評価されることができ、評価されるべきものある。

ミス・アリス・ルーシー・トレントの"The Feminine Universe"[5]の中に、この問題についての重要な記述がある。

…絶対的な美しさのようなものがある。絶対的な美しさとは、神を特徴づけるものである。すべての地上の美しさは、この絶対的な美しさにあずかることであり、また私たちがあるものをより美しいとかより美しくないと言うとき、私たちは量的な意味でそれを意味していない。美しさは測定することができない。私たちが言いたいのは、当該のものは多かれ少なかれ、絶対的な美しさにあずかっているということであり、多かれ少なかれ、それ自身の種の中に完全に反映されているということである。

このような理由から、私たち自身の生活の中で美しさを陶冶することは、根本的に重要であり、一方で、服装や身なりの外見における醜さや無秩序(注:化粧の語源)を陶冶することは(芸術やデザイン、そして他の領域においても同様に)、タマシック時代(注)の暗黒の儀式であり、抵抗されなければならない。それは時々問われる。「身なりが魅力的ではないという不幸をもっている人はどうなのか」と。しかし、身体的な醜さ(ill-favouredness)は、流動的な世界の偶然にすぎない。自分をできる限り清楚で美しくする飾り気のないメイドは、光に適合して行為している。醜さと不条理のタマシックなファッションに適合する美しい(well-favoured)メイドは、闇を呼び出す。

[The Feminine Universe、第4章]

このような哲学によると、化粧はたんに世俗的な贅沢ではなく、高揚させる精神的なものである。

ミス・トレントは、飾り気のないメイドについて語っているが、現代の美容技術のリソースで、美しさは私たちのほとんど手の届くところにある。そして、私たちの考え方では、これはよいことでしかない。

20世紀前半には、アールデコ[6]の美学革命が起こり、新しい魅力(glamour)の科学が誕生した。それは、伝統的で神聖な女性らしさの古い魅惑の影響であった。

母なる神への帰依者は、ヘブライ教の古い純潔主義と、美しさを表面的なものから退ける新しい純潔主義の両方から解放され、美しさを追求する自由を感じるかもしれない。

私たちの哲学によれば、美しさとは決して表面的なものではない。そしてそれゆえ、私たちの哲学によれば、化粧は西洋が考えてきたような表面的なものではない。

美の哲学は、化粧を精神的に不可欠なものとするものではないが、自由な心と精神的な目的をもって、自らの美しさを高め、楽しむことを奨励しているのだ。

(訳おわり)

[1] http://www.mother-god.com/philosophy-makeup.html

[2] http://www.mother-god.com/philosophy-beauty.html

[3] コール(Kohl)とは、古代エジプトでは硫化アンチモンや硫化鉛などを原料とした黒い粉で、まゆやアイラインを描いていたらしい。

[4] 基本的に、ユダヤ教キリスト教イスラム教のこと。

[5] http://www.mother-god.com/ancient-wisdom.html

[6] 第一次世界大戦の直前にフランスで初めて登場した視覚芸術、建築、デザインのスタイルのこと。

 ・感想

私が化粧に意義を感じたのは、身体の表面を飾り、それが私として他者に現れるというときの精神作用、あるいは自我とはどんなものか、と考えたからです。そもそも、なぜ化粧をするのかという歴史的問題もあります。規範的な意味でしょうか。趣味的な意味でしょうか。はたまた、儀礼的な意味でしょうか。例えば日本では、『魏志倭人伝』の記述から、当時の日本で赤色の顔料を身体に塗るという行為を行っていたそうです。このときの化粧の目的は、生活を共にする集団を他の集団と区分するため、また、様々な外的環境の中で身を守るための、呪術的な方法でした。また、武家社会になると、男性は主に出陣の時に化粧をするようになり、江戸時代に女性向けの教養書が数多く出版され、その中に化粧の項目がすでに見られていたといいます。[1]さらに、明治時代には、身だしなみとしての意味が強まりました。このように、化粧は奥が深いのです。化粧は現代でも、顔の印象管理の方法として広く受け入れられています。

また、現象学なんかでは「現れ」というのが重要なタームでもありますが、私はその現れと化粧には、もっと言えば装うこと全般には深い関係があると思っています。さらに、身体の表面、言い換えれば皮膚ですが、そこが自我の境界であるという考えもあります。[2]これも興味深いので今後深めます。

もっとはっきり問いを投げかけるとすれば、化粧をした自分は自分ですか?ということです。何を言っているか分からないと思われる可能性大ですが、化粧をすれば見た目は全く変えることができます。 (もちろん程度の差はあります。ナチュラルメイクなんてのもありますし。) しかし化粧道具は当然私の外部のものです。それを私の皮膚に飾ることで、装飾された顔面の完成です。化粧をした自分とすっぴんの自分、同じですか?表面的なことだけでなく、精神的なことも含めてです。どうでしょう。私の感覚では何かが切り替わります。どうやら化粧による精神的な高揚を見込んで、うつ病患者や高齢者を対象とした化粧療法というアプローチも考案されているようです。興味深いです。

それっぽくまとめます。化粧は身体と精神にかなり深く関わる問題であり、つまり西洋哲学史上の大問題である心身問題に参画してしまうような、哲学的な意義をもっているのではないか。私はそう感じたのです。言い過ぎかもしれませんが、言い過ぎるくらいが問題提起には丁度いいと思うので気にしません。

 

さて、私が訳したこの文章でも、化粧は表面的なものにとどまらず、精神的な作用がある可能性を論じています。西洋ではあまり化粧や美容における精神的な作用は顧みられていなかったようですが、それ以外の民族においては、身体を装うことが儀礼的で精神的な役割も果たしてきているようです。また、化粧は美しさを引き立てるものであるとも言われていますが、それは化粧をする動機としては真っ先に思いつくかもしれません。そもそもcosmeticという言葉の語源はcosmos、つまり宇宙、秩序を意味するものです。なので、化粧をするということは顔に秩序を与えるという意味になります。秩序は美しさと結びきそうですし、なるほどという感じがします。しかしまた美しさとは何かという哲学の厄介な問題になるので、これはここまでにします。終わり際がわからなくなってきたので、もう少し考察じみたことは勉強してから書いてみることにします。

[1] 平松隆円『化粧に見る日本文化:だれのためによそおうのか?』水曜社、2009年を参照のこと。

[2] ディディエ・アンジュ―『皮膚・自我』福田素子訳、言叢社、1996年。