哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

思考の始まり:アーレントとハイデガー

アーレントは『精神の生活』第一部思考において、思考の始まりについての議論を展開している。それは『精神の生活』第三章が「我々が思考をするのは何によってであるか」と題名づけられていることからも、アーレントにとって中心的問題の一つであったことは確かである。アーレントは『精神の生活』第17節の後半で、思考の始まりとして「愛」を挙げて説明しており、この「愛」は「持っていないもの(“not”)」を求める欲求、または必要性としての愛である。このようにして、思考の始まりとしてアーレントが「愛」をもちだしてくるのは、ハイデガーが『形而上学とは何か』の中で「何かが在る」という事実を探究する際に中心的に展開している概念である「無(“nothing”)」との明らかな対比をなすものである。そのため、アーレントが論じる思考の始まりを理解しようとするならば、彼女のハイデガーへの批判的言説を意識して『精神の生活』を読まなければならない。そこで本稿では、まずハイデガーが思考の始まりとしてなぜ「無」を扱ったのか、そしてその次に、それに対比させる形でアーレントはどのような文脈で「愛」を打ち出すのかを明らかにするために、超越(transcendence)を両者がどのように解釈していたのかを対比させつつ論じていく。

「無」と思考の始まり:ハイデガー

 ハイデガーは、存在しているとはどういうことか、という問いに向かうにあたり、「無」に注目した。それは、形而上学の終焉によって私たちを含む存在事物(Being)を理解する枠組みであった自己原因となる存在そのもの(Being)の確証が崩れ去り、存在事物の存在理由が答えられなくなってしまった近代以降において、しかし確かに存在事物は在り「無」ではないという気づきから、ハイデガーが存在への問いを始めたからだった。そこで、ハイデガーは不安を通して「無」を分析した。ここで言う不安とは、特定の対象なしに漠然と押し寄せてくるものであり、特定の対象に対していだく恐怖とは別のものである。[1] 不安に襲われているとき、私たちが日常生活で親しんでいる具体的な個物との関係性が遠ざかり、無関心性に沈んでいく。[2]当然のことで忘れがちだが、日常生活の中で私たちは、すでに取り囲まれている具体的な意味連関の中で、与えられている文脈(あるいは関係性)を通して自分を含めた個物を理解している。しかし、不安に襲われることを通して、そのような具体的な意味が背後へと遠のいていき、無が顕わになることで、ただ「在る」ということがわたしの前面に突きつけられる。ハイデガーはこのことを簡潔に「不安が無を顕示する。」と説明している。[3]こうして「何故一体存在事物が在って、却って無ではないのか」という根本的な問いが生起される。[4]

 こうして、「無」の中で個的な存在者(being)である私たちが「存在(Being)とは何か?」と問うことができるのであり、このようにして存在事物から存在そのものへと超え出ることが、ハイデガーのいう超越の瞬間である。[5]また、この「無」の中で起きる超越は、現存在の中でのみ起こりうる現存在に特有の現象である。「存在事物を超え出てゆくことは、現存在の本質のうちに生起するのである。」[6] なぜなら、ハイデガーいわく、「存在とは何か?」と問いうることができるのは、可死的、すなわちいつか必ず死ぬ、有限な時間的存在である現存在のみだからだ。ここまでみてきたように、ハイデガーの分析によると「無」において現存在に特有の超越の瞬間が見られ、その瞬間こそ「存在とは何か?」と問うきっかけであり、思考の始まりである。

「愛」と思考の始まり:アーレント

 ハイデガーが思考の始まりを「無(nothing)」によって打ち出したのに対し、アーレントは「愛」によって思考は始まるのだと主張した。ここで言う愛は、欲求としての愛(エロース)であり、それは「持っていないこと(not)」によって特徴づけられる。このことをアーレントは次のように述べる。「エロスとしての愛とは、元来、欲求である。持っていないものを欲求することである。人間が知慧を愛し、それゆえ哲学するのは人間が知あるものではないからであり、美を愛し、言ってみれば、美を行なうのはーphilokaloumen, ペリクレスが葬送演説の中で表現したようにー、人間が美しくないからである。」[7]この“nothing”と“not”は明らかな対比をなしていることから、思考の始まりをめぐってアーレントハイデガーに対して批判的な論を展開していることがわかる。では、この“not”によって特徴づけられる愛が思考の始まりとはどういうことだろうか。

 先ほど述べたように、アーレントの言う「愛」とは必要性であり、持っていないものを求めることである。人間がこうした“not”によって求めるのは、人間が有限な存在だからである。可死的な存在であるがゆえに時間的に有限であるし、身体をもっているゆえに空間的にも有限である。だから私たち人間はいつも充足しない部分があり、足りないもの求める「愛」を持つことができるのである。そして、可死的存在として有限であることが、ハイデガーにとって超越の条件であったのと同様に、アーレントにとっての超越も有限性によって導き出される。なぜなら、アーレントの言う超越は自分の人生の限界を超え出ることだからである。

一般的で変化することのない人間の条件について、ヤスパースが語った言葉がある。「私は闘って苦しむこということなしに生きることはできない。罪を避けることはできない。死を避けることはできない」。これは「内在的でありながら、とうに超越を指し示しているもの」の経験のことを言っているのであり、もし我々がそれに答えるならば、その結果として「我々のなかで可能的にあるエクシステンツ.(Existenz 実存)が生成する」のである。ヤスパースの場合、この表現に暗示に富むまっとうさを与えているのは特定の経験よりも単純な事実、誕生と死によって限界づけられている人生そのものが(世の中にいると自分が生まれる前の過去と死んだ後の未来を説明せずにはいられないという意味で)限界状況だという事実である。ここでボイントとなるのは、自分の人生の範囲を越えて過去について思いをめぐらせて判断し、未来について思いをめぐらせて意志的に計画を開始するならば、必ず、思考活動が政治的にどうでもよい周辺的な活動ではなくなるということである。[8]

 アーレントはここで、「持っていないこと(not)」は人間が生まれ出ずる者としてこの世界に存在し始めながらも同時に死すべき存在であるという意味での有限性ゆえのものであり、超越の意味はその人間がまだ世界にいなかった過去と、もはや世界に自分がいない未来を考慮に入れることであると指摘している。つまり、「持っていないこと」からこそ「愛」するのであり、自分の人生の限界を超越することができるのだと主張しているのである。その意味で、アーレントのいう超越は、思考することそのものと言ってもいいかもしれない。それはたんに現在に存在している自分と周りのことだけでなく、あらゆる人の立場で考えることである。この世界にある複数性という事実から、すべての人は同じ世界を重なり合うことのないあらゆる視点から見ているのであり、そうすることによってこの世界のリアリティは現れる。このことから、アーレントの思考の始まり、すなわち超越は、ともに生きる人々との間で初めてなされるものだと考えられる。一方でハイデガーの超越は、現存在の中で起こるものだから、彼の想定する思考の始まりに他者の存在はない。ここにも鮮やかな対立がある。

 また、アーレントが言うように、自分の人生を超えて思考することができるには、人間にはそれを可能にする能力があるからだと主張されねばならない。そのために次に中心的に取り上げるのが構想力という能力である。私たちが過去について思いを馳せ、それをきっかけに未来に向けて何かを始めるには、過去のことを覚えていることとそれを心に現前させる能力がなければならない。覚えていることを可能にするのは記憶であり、それを現前させるのが構想力である。それらが機能することによって人間は思考することが可能になるのであり、そう考えることでアーレントが『精神の生活』の中で「思考はどれも後になってからの思考なのである」と述べるように、思考が反省的性格を帯びていることが明らかになる。[9]

 

[1] この区別をハイデガーは次のように説明している。「不安は恐怖と根本的に異なっている。我々が恐れるのは常に、この一定のことに関して我々をおびやかすところの、この或いはあの一定の存在事物に対してである。…に対しての恐怖は、いつも在る一定のことのために恐れるのである。[中略…]不安は、そのよう混惑をもはや生じせしめない。むしろ却って不安は特有な安静を保っている。不安は常に、…に対する不安ではあるが、しかしこの或はあのことのための不安ではない。」(ハイデガー形而上学とは何か』47-48頁。)

[2] 同前、48頁参照。

[3] 同前、49頁。

[4] 同前、66頁。

[5] 「現存在は無の中に保たれつつ常に事前に全体としての存在事物(being)を超え出ている。この存在事物から超え出てあることを、我々は超越と名づけるのである。」(同前、53頁。)

[6] 同前、64頁。

[7] アーレント『精神の生活 上 第一部思考』佐藤和夫訳、岩波書店、207頁。

[8] 同前、223頁。

[9] 同前、102頁。

 

この論考は、哲学のての字も知らない私に哲学のテキストを読むとはどういうことかを叩き込んでくれた先生の授業に触発されたものであり、ほとんどの着想はそこから得ている。この観点に関するより詳しい分析は以下の論文を参照のこと。

KOISHIKAWA Kazue “Thinking and Transcendence : Arendt’s Critical Dialogue with Heidegger”, Tetsugaku, Vol.2, 2018, pp.83-99.