哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

時間を感じるということ

なぜなら時間とは、生きるということ、そのものだからです。そして人のいのちは心を住みかとしているからです。(ミヒャエル・エンデ『モモ』より)

 時計の時間、私の時間

 私たちはつねに時間の流れを感じて生きています。それはどのようにして感じているでしょうか。ふと時計を見ると、針がチクタクと動き、気づいたころには一周しています。時間とはそのように私たちの外側に流れ、時計によって観測されるものでしょうか。私たちはそう考えがちですが、実はそうではないように思えます。最初に引用した『モモ』という小説の中で、次のようなセリフがあります。 

時計というのはね、人間ひとりひとりの胸のなかにあるものを、きわめて不完全ながらもまねて象ったものなのだ。[………] 人間には時間を感じとるために心というものがある。そして、もしその心が時間を感じとらないようなときには、その時間はないもおなじだ。 

時間は人の心に流れているということは少し違和感のある表現でしょうか。しかし例えばドイツを代表する哲学者であるカントも、時間は客観的に存在するものではないと述べていますし、よく考えてみれば私たちは、時計を介して数値化された時間を受け取って把握しているだけで、時間そのものを把握しているわけではないことに気づきます。例えば、楽しい時間は早く感じて、つまらない時間は遅く感じることがあるように、時間というのは私たちの心と大きく関わっていることは言えそうです。そうすると問題なのは、私たちの心は時間を感じとれているだろうか、ということです。私は、だいぶそのことが難しい社会になっていると感じています。なぜなら、現代社会(近代以降?)の動き方は、過去から未来に向かう直線的な時間の矢印の中で、時計がはかる時間によって生活を区分され、管理されているように思えるからです。労働なんかを想像してみてください。

それの何が問題なんだ?という問いは必然的に出てくることでしょう。それは一言で言うと、「いま」という時間を失い、絶えず自分の行為を、また、そのまとまりとしての人生を、それ自体として意味あるものではなく、手段としてのみ意味のあるものにしてしまうのではないか、ということです。まだ何が言いたいのかわからないと思いますので、ゆっくりと展開していきます。

これを考えるとき、アーレントの次のことばが参考になります。

意味そのものは人びとの世界から離れ、無限に続く目的の連鎖だけが人びとに残されているかのようである。(『過去と未来の間』より) 

「無限に続く目的の連鎖」という表現は、非常にこの時間の貧困とでも呼ぶべき事態を言い当てていると思います。時間の貧困という表現は今私が思いついたものですが、管理的に区分された時間の流れの中で、時間を過ごすのではなく、ただ時間を消費しているかのような状態をイメージしています。また、「無限に続く目的の連鎖」を簡単に言うと、「学校で勉強するのはテストでいい点を取るため、テストでいい点をとるのは入試に受かるため、入試に受かるのはいい大学にいって就職するため、就職するのはお金を稼ぐため、お金を稼ぐのは……」というように続いて、結局それ自体って何のため?と途方に暮れる過程のことです。つまり、純粋な「いま」その瞬間の意味は問われることもなく、手段としての過去へとあっという間に変容してしまうのです。これは明確に生きる意味が与えられているわけではない人間にとってとてもつらいことだと思います。全部が全部、何か別の目的によって意味を与えられなければならないということは、終わりなき目的探しの旅に出ざるを得ません。それがうまく見つかっているうちはとりわけ苦しみに気づくことはないでしょうが、それをふと見失ったとき、例えば、労働を中心に毎日のように繰り返しの日々を送っているとしましょう。一生懸命働いている目的はなんでしょう。お給料をもらって生命維持をすることでしょうか。その目的によって、「いま」働いている自分に意味を与えることができるでしょうか。それだけではきっと難しいと思います。これは、時間の貧困が招いた心の貧困とでも言えましょうか。そう考えてみるとやはり、時間とは心で感じとるものだという考えは、一理あるものだと思いませんか。そこで、私たちの心に時間を吹き込み、豊かさを芽生えさせるために、私たちにできることがあるのかを考えないわけにはいきません。答えはありませんが、一つ私が思うところを述べたいと思います。

 必要なのは、未来のある時点に設定する目的からではなく、「いま」その瞬間の行為が目的自体となるようなあり方を見いだすことです。それができれば、「いま」の自分の頑張りや取り組みに対して、それだけで積極的に意味を与えることができます。果たして私たちは何かのためでなく、ただそれ自体のために行為することができるのでしょうか。そのためには、目的がないように見える、すなわち何のためかイマイチわからないような行為に価値を見いだそうとするべきだと思います。実は、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』で問題にした実践(プラクシス)という次元には、その可能性が描かれています。というのも、プラクシスは、「いま」から離れた場所にある目的に還元されず、それ自体が目的であるような活動様式であり、それがなされる瞬間には無目的であるように見えるものだからです。私たちは何かをするとき、「これは何のためになるのか」という思考法に取りつかれがちです。もちろん、それも大事な活動様式ですが、すべてがそうである必要はないし、すべてがそうであるべきではないとさえ思います。私たちは何かのためではなく熱中することが実はたくさんあるのではないでしょうか。子供のころを思い出すと、何かのためとかそんなこと考えずに、創造的に遊びまくっていたことがあると思います。小説『モモ』の中でも、子供たちの時間の過ごし方は象徴的に描かれていますが、私たちもそのように時間を感じとれる何かを一つでももつこと、あるいはあるはずだと信じること、これが大事だと思います。資本主義と労働中心主義の結婚とでも形容できそうな現代において、本当の意味で時間を感じとる心をもつことは、とても意味のあることではないでしょうか。

 こうして時間を感じとる心をもつことで「いま」という次元に立ちうることを示すことができた今、さらに人間の可能性を広げることができるのではないかと気づきました。「いま」というのは、アーレントが言うように「過去と未来の間」であって「過去と未来を不安定につなぐ」ものです。私たちの心が感じとるのはあくまでも「いま」であり続けるわけですが、それを把握しようとすると「いま」は忽然と姿を消し、必ず過去か未来のどちらかを把握することになるから、不安定なわけです。これはベルクソンの「持続する現在」という考えを彷彿とさせます。この「いま」に立つ私たちは、何かのための手段ではない仕方で、すなわち目的自体として行為することが可能になるわけでした。これはアーレントが人間の行為は新しい始まりであると評価したことに類似します。なぜ新しいかというと、「いま」という次元で考えられた行為は、予め定められた目的に向かわず偶然性を帯びているからです。それは裏を返すと、自分が始めた行為がどのように広がるかわからないという不安を伴います。この不安は、私たちが時間を感じる心を手放して、「いま」という次元で行為をしたがらない理由の一つかもしれません。しかし、これからどうなるかわからないということは、言い換えると「可能性」です。未来のある時点に予め設定した目的から現在へ向かうのではなく、まさに「いま」その瞬間から未来に向かうには、その不安を引き受け、耐える必要があるのです。どうなるかわからない不安を引き受ける主体にこそ、可能性という未来を拓く力が与えられるといるのではないかと思います。そのためにはやはり、「いま」という不安定な次元に立ち、それ自体が目的であるような行為を始めること、それしかないのだと思います。こんな言い方をすると仰々しいですが、先ほどにも言ったように、実はそれは日常のあらゆる場面にあふれているものなのです。それを見逃さないこと、経験を自覚すること、価値がないことだとみなさないこと、これが大切です。

ことばと自己

 私に大きな影響を与えた先生の一人のとある小学校教諭が「ことばには力がある」ということを何度も繰り返し強調していたことを思い出します。ところで、思い出すということにも時間性を感じますね。何かを思い出すとき、それは過去のことだと自覚しながら、それを感じているのは他ならぬ「いま」です。ここに忘れゆく生き物である人間がもつ記憶の力を感じないわけにはいきません。私たちは何かを経験するとき、心に残る言葉などに出会うとき、まさにそのときに心に残そうと刻むわけではありません。あくまでその瞬間は点にすぎません。しかし、点であるその瞬間を、記憶によって自分の心の時間にアクセスし、「いま」に呼び起こすことで線になります。それを何度も繰り返せばその線は奥行きをもちます。これが思い出という現象の一つの説明だと思います。話が逸れてしまいましたので戻しましょう。ここでは、ことばの力について思いを馳せたときの私の記憶を呼び起こします。

 ことばの力としてここで主題としたいのは、自分を開示する力です。私たちは、何も喋らないことには自分がどういう人であるかを現すことはできません。とはいえ、ことばで「私はこういう人間です」と言っても、それは自分という人間の一部をあくまで自分が思い込んでいる限りで伝達しているだけです。ここで言いたい自己開示の力というのはそういうことではなくて、誰かに対して私がことばをもって交わり合うとき、他者に対しての私として自己を構成して、開示することができるということです。まず、ことばで自分を言い表そうとしても、そもそも自分という存在が説明可能な仕方で存在しているのかも怪しいと思います。カントが物自体は存在せず、人間にとっては自らの認識形式の枠組みの中で把握可能である現象が認識されているにすぎないと言ったように、「私」自体が存在しているのではなく、他者との間で相対化された現象としての自分が構成されていると考えても不思議ではないでしょう。そのためには、ことばを用いることで「私」が他者へと向き続けることが必要だと思います。その点、アイデンティティなんてものは、自分の中にある静的なものではなく、他者との間で構成されていく動的なものなのです。少し変な言い方に聞こえるかもしれませんが、アイデンティティを求めて自己へ向かうことはあまり意味がないことなのです。これはアーレントが『人間の条件』の第5章における言論と行為の分析にも示唆的に示されていることでもあります。だから、就活なんかでよく見かける自己分析や適性診断なんてものは、本質的にはおそらくあてになりません。無駄だと言っているわけではありませんが、そこで導かれた自己の特性を自分だと真に受けても、それはたんなる自己欺瞞でしょう。私たちは他者からどのように見えているか、他なるものの壁を内面化して、その中で自己を形成していくあり方は、私にサルトルの劇作『出口なし』で描かれた地獄を思い起こさせました。

 では、『出口なし』で登場人物のエステルとイネスの会話に注目してみましょう。エステルが自分の姿が見えないと自分がいるかどうかもわからなくなると言ったことに対して、イネスは「あたしが鏡になってあげましょうか」と返します。他者が自分を映す鏡になりえるということです。出口も窓もないサルトルの描く地獄において、ことばをぶつけることで自分の姿を他者という鏡に映すしかない様子は、出口のない部屋に閉じ込められているわけではない私たちに何を教えてくれるのでしょうか。先ほどちらっと言ったように、現代では自己分析というツールが出回って定着する時代ですから、自己を見つけるためには徹底的に自己を吟味することが要求されているのだと思います。すると、そこには言葉も他者もいません。それだけではやはり自己を開示することはできないでしょう。「私」自体と呼べるような精神の本体が発見できているのなら話は変わりますが、現実はそうではありません。私たちは、ことばの力についてもう一度しっかり考えるべきではないでしょうか。そして実は、時間を感じとる心をもたない人間は、ことばに力が宿らないのではないかという気がしています。小説『モモ』に出てくる「灰色の男たち」のことばは冷たいという描写があります。彼らは時間を感じとる心を蝕む悪者で、当然そのような豊かな心をもつ存在ではありません。時間を感じとる心をもたず、被管理的に客観的な時間の中で生きている人間は、ことばを伝達のツールとしてしか扱うことができないがゆえに、冷たさを感じさせるのだと思います。すべてを手段に還元してしまうということは、ここにも嫌な形でかかわるのです。この点、ことばを用いることを目的自体としての行為として描いたアーレントは正しかったと思います。

 

まとまりのなさにお気づきの読者もいると思われますが、今回の文章は散歩しながら書き溜めていたことをまとめたものですので、かなり思い付き要素が強いです。ご容赦ください。