哲学なんて知らないはやくん

哲学なんて知らない学生が、哲学の話をします。

オンライン演習と身体

さっそくZoom等を用いたリアルタイム会議型のオンライン授業について一つ思ったことを話したいと思います。

私と同じようなつらさを感じた人もいるのではないかと思って、この文章を書いています。共感される方、いるでしょうか。

授業は基本的にカメラ、マイクともにオフの状態で開始され、発言を促されたときにマイクのみをいれる、というのが一応の了解のようですが、今回全員のカメラがオンになったことを経験しました。人数は30人弱です。

するとどうでしょう。全員の視線がこちらを向いているのです。もちろん、私を見ているわけではないことはわかっております。しかし、少なくとも視線はこちらを目ざしているように受け手は感じます。別に自分のカメラをオンにすることには何の抵抗感もないのですが、全員のカメラがオンになることには強い抵抗感と多少の恐怖を感じました。オンラインでの授業運営は、空間的な視線の使い方ができないことを懸念しておりましたが、視線は消えないのです。空間的な視線が使えないとき、他者と私には「あいだ」が存在しないのです。それにもかかわらず、視線は感じる。このことに精神的かつ身体的な抵抗感を覚えました。授業が終わった後はしばらく消耗してぼーっとしていました。

少なからず、ディスカッション形式をとる授業で発言をする際には、私が現れてしまいます。そして聞く際には、他者の現われを感じるわけです。しかし、それはおそらく、私と他者の「あいだ」に空間的で志向的な視線のやり取りがある程度適切に働くことで有効なのではないかと感じました。

これはたんに不慣れだからという問題で、慣れてしまえばあまり問題なく進行していくことかもしれませんが、一発目ゆえに素直な感想を残しておこうと思います。

短い感想じみた文章もたまにはいいじゃない?