哲学なんて知らないはやくん

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メンデルスゾーン「啓蒙とは何か、という問いについて」試訳

ここに訳出したのは、モーゼス・メンデルスゾーンの「啓蒙とは何か、という問いについて」という短い論文である。できる限りドイツ語の語彙を尊重し、日本語としてもさほど読みにくくならぬよう努力したが、一学生の試訳ゆえ、誤訳や表現上のわかりにくさなどが残っているかもしれない。当然、誤りについてはすべて私の責任であり、読者諸賢の叱正を乞いたい。

啓蒙とは何か、という問いについて

啓蒙(Aufklärung)、開化(Kultur)、陶冶(Bildung)という言葉は、われわれの言語〔ドイツ語〕ではいまだ新参者である。それらの言葉は今のところ、たんに書物の上での言葉にすぎない。普通の大衆[=読み書きができない]はそれらの言葉をほとんど理解していない。このことは、事柄が私たちにはなお新しいということの証明だろうか。私はそうは思わない。ひとはある人民[Volk]について、その人民は徳や迷信をあらわす明確な言葉をもっていないと言うが、それにもかかわらず、ひとはその人民に少なからぬ程度の徳や迷信を正当に帰してもよいのである。

 しかしながら、言葉の用法は、これらの同義語[啓蒙、開化、陶冶]のあいだに区別を申し立てようとしているように見えはするが、それらの同義語の境界を定めるための時間をいまだもっていなかった。陶冶・開化・啓蒙は、社交的な生活の諸変様であり、自分たちの社交的な状態を改善しようとする人間の勤勉と努力の成果なのである。

 ある人民の社交的な状態が技術と勤勉によって人間の使命(Bestimmung)と調和すればするほど、その人民はそれだけいっそう多くの陶冶をもつ。

 開化はどちらかといえば実践的なものに、つまり(客観的には)手工芸や技術や社会習俗でのよさ、繊細さ、美しさに関わっており、(主観的には)手工芸や技術での巧みさ、勤勉、熟練性に、社会習俗での傾向性、衝動、習慣に関わっている。このことが、ある人民のもとで人間の使命に合致すればするほど、それだけ多くの開化がその人民に付与される。それは、より人間に有用なものを生み出すような状態へと置かれれば置かれるほど、ある土地にいっそう多くの開化や開拓が帰されるのと同様である。——これに対して、啓蒙はむしろ理論的なものに関わっているように思われる。つまり〔啓蒙は〕、(客観的には)理性的な認識に関わっており、(主観的には)人生の出来事について、人間の使命におけるその重要性と影響の標準に従って、理性的に思案への巧みさに関わっているように思われる。

 私はつねに人間の使命を、私たちのあらゆる尽力と努力の基準や目標として設定し、もし私たちが自分を失いたくないのならば、それへと私たちの目を向けなければならない点として設定する。

 ある言語は、諸学問によって啓蒙を獲得し、社交上のつきあいや文芸や雄弁によって開化を獲得する。前者[諸学問]によって言語は、理論的な使用に対してより適当なものとなり、後者[社交上のつきあいや文芸や雄弁]によって、実践的な使用に対してより適当なものとなる。両者は一緒になって、言語に陶冶を与えるのである。

 外面上の開化は洗練(Politur)と呼ばれる。国民(Nation)の洗練が文化と啓蒙の成果であり、その外面的な輝きと磨きぬかれた鋭さが内面的で堅実な真正さを根底にもっている、そのような国民に幸あれ!

 啓蒙は開化に対して関係しており、それは一般に理論が実践に、認識が道徳に、批判が技巧(Virtuosität)に対して関係するのと同様である。それ自体として考察されるなら、(客観的には)啓蒙と開化はきわめて緊密に関連しているが、それにもかかわらず、それらは主観的には非常にしばしば分離されうるのである。

  ひとは次のように言うことができる。ニュルンベルクの人々はどちらかといえば開化をもっており、ベルリンの人々はむしろ啓蒙をもっている。フランス人はどちらかといえば開化をもっており、イギリス人はむしろ啓蒙をもっている。中国人は多くの開化をもっているが、少しの啓蒙しかもっていない。ギリシア人は開化と啓蒙の両方をもっていた。[それゆえ]ギリシア人は教養ある国民だったのであり、それは彼らの言語〔ギリシア語〕が教養ある言語であるのと同様である。——一般的にある人民の言語は、彼らの教養についての、すなわち広がりや強さに応じた啓蒙や開化についての最良の指針なのである。

 さらに人間の使命は、一)人間として考察された人間の使命と、二)市民(Bürger)として考察された人間の使命とに区分されうる。

 開化に関しては、これらの考察は重なり合っている。なぜなら、あらゆる実践的な完全性はたんに社交的な生に関してのみ価値をもち、それゆえもっぱらひとえに社会の成員としての人間の使命に対応しなければならないからである。人間としての人間はいかなる開化も必要としないが、啓蒙は必要とするのである。

 市民的生活における身分と職業は、各成員の義務と権利を規定しており、それら[義務と権利]に応じて別々の熟練性や巧みさ、別々の傾向性や衝動や社会習俗や習慣を要求し、別々の開化と洗練を要求する。これらが、あらゆる身分を通じて、自分の職業に合致すれば、すなわち社会の成員としてのそれぞれの使命に合致すれば、それだけいっそう多くの開化をその国民はもつのである。

 しかしそれら[身分と職業]はまた各個人に対して、自分の身分と職業に応じて別々の理論的な諸洞察やその洞察を獲得するための別々の巧みさを要求し、別々の程度の啓蒙を要求する。人間としての人間に関心をひく啓蒙は、身分の区別なく普遍的である。市民として考察された人間の啓蒙は、身分と職業によって変様する。人間の使命がここでふたたびその努力に基準と目標を設定するのである。

 これによると、国民の啓蒙は次のものに関係しているだろう。1)認識の量、2)その[認識の]重要性、すなわちa)人間の使命およびb)市民の使命との関係、3)あらゆる身分を通じたその普及、4)あらゆる身分の職業に応じた〔その普及〕。また、したがって人民啓蒙の程度は、少なくとも合わせて四重の関係に応じて規定されるべきだろうが、その構成要素の一部はそれ自身、それはそれで単純な構成要素から合成されている。

 人間の啓蒙は公民の啓蒙と対立することがありうる。人間としての人間にとって有益なある種の真実は、ときおり市民としての人間にとって害することがありうる。ここで、次のことが検討されねばならない。衝突が生じうるのは、1)人間の本質的使命、あるいは2)人間の偶然的使命と、3)市民の本質的使命または4)市民の非本質的な偶然的使命とのあいだなのである。

 人間の本質的使命を欠いては、人間は家畜へと落ちぶれてしまい、人間の非本質的使命を欠いては、人間はそれほど善良ですばらしい被造物ではない。市民としての人間の本質的使命を欠いては、国家体制は存在することをやめてしまい、公民としての人間の非本質的使命を欠いては、国家体制は若干の付随的関係においては、もはや同一のものにはとどまらないのである。

 次のような国家は不幸である。その国家とは次のことを自ら告白せざるを得ない国家のことである。そこでは人間の本質的使命が市民の本質的使命と調和せず、体制が崩壊する危機なしには、人間性に不可欠である啓蒙が国のすべての身分へと広がることはできない、ということである。ここでは、哲学は口に手を当て、何も言わぬがよい!必然性は、ここでは諸法則を定めるかもしれず、あるいはむしろ、人間性を屈服させ、そしてたえず圧力をかけるために、人間性につけられるべきであるような鎖を鋳造するかもしれない。

 しかし、もし人間の非本質的使命が市民の本質的あるいは非本質的使命と対立するとすれば、諸規則が確定されなければならないのであり、その諸規則にしたがって例外が生じ、衝突の事例が決定されるべきである。

 もし人間の本質的使命が不幸にも人間の非本質的使命そのものと対抗させられたとき、すなわち、もしひとが、人間にとにかく内在している宗教と道徳についての根本命題を取り壊さずに、ある種の有益で人間を飾りたてる真理を流布させてはならないとすれば、徳を愛する啓蒙主義者は、慎重にかつ用心深くふるまい、先入見と非常に固くからみ合った真理を同時に[先入見と]一緒に追放するよりも、むしろ先入見を我慢するだろう。もちろん、こうした格率は昔から虚偽の防壁となってきたのであり、私たちは幾世紀もの間の野蛮と迷信をその格率に帰せなければならない。ひとが犯罪を捕まえようとするたびに、その犯罪は聖域へと避難した。とはいえ、博愛主義者は、きわめて啓蒙された時代においても、みずから依然としてこうした考察を考慮しなければならないだろう。ここでも使用を誤用から区別している境界線を見つけることは、困難ではあるが、不可能ではないのである。——

 ヘブライのある著述家は次のように言う。ある事物はその完成において高貴であればあるほど、その死滅においてそれだけいっそうひどいものである。腐朽した木材が無残であるのは、枯れ果てた花ほどではない。枯れ果てた花は、腐敗した動物ほどには吐き気を催させない。そしてこの腐敗した動物は、腐敗した人間ほどひどくはない。開化と啓蒙についても同様である。〔開化と啓蒙は〕その開化において高貴であればあるほど、その腐敗や堕落においてそれだけいっそう嫌悪すべきものである。啓蒙の誤用は道徳的感情を弱め、強情、利己主義、無宗教アナーキーへと導く。開化の誤用は贅沢、偽善、無気力、迷信、奴隷状態を生み出すのである。

 啓蒙と開化が同じ足どりで進行するところでは、それらは互いにとって[道徳的]頽廃に対する最高の抵抗手段である。それら〔啓蒙と開化〕の堕落のしかたは互いに正反対である。

 それゆえある国民の教養は、上述の言葉の説明によれば開化と啓蒙とから合成されているので、はるかに頽廃に服従することが少ないだろう。

 教養ある国民は自己のうちに、その国民の幸福の過剰以外のいかなる危険も知らない。この過剰は、人間の身体の最も完全な健康と同じように、すでにそれ自体で病気か、病気への移行と呼ばれうる。教養によって国民の幸福の最高頂に達した国民は、まさにそのことによって、危険に陥ることがありうる。なぜなら、そのような国民は、[最高頂ゆえに]それ以上は上がることができないからである。——けれどもこれは、現今の問いからあまりにもかけ離れている!

モーゼス・メンデルスゾーン